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礼儀正しさの時代 その裏側にある不寛容の危険性とキャンセルカルチャー

若年層ほど礼儀正しく感じられる。他の世代も、この20年でモラルへの意識がだいぶ変わった。そこに加害者になりたくない意識が強く働いてはいないか、むしろ被害者になりたがっている人はいないか。

著者:ケイヒロ
コーディネート:ハラオカヒサ

対談/礼儀正しさという鎧をまとう時代に生きる

ケイヒロ
「20代から30代前半に顕著だけど、とても礼儀正しいというか法を守ったりルール意識が強いのを感じます」

ハラオカ
「そういえば親類の高齢者が歩道で転んだとき大学生らしい人たちが助けてくれました。ありがとうと言うほかありません」

ケイヒロ
「エレベーターで開ボタンを押して、これに感謝の言葉をかけるとか。スーパーの通路で道を譲ったり会釈したりも20年で激変したと思うけど、惣菜売り場でコロッケを自分でつくれという失礼な老人のミーム化なんてものがあって……」

ハラオカ
「老人が時代に乗り遅れて意識が低くて無礼という、いわゆる老害ですね」

ケイヒロ
「その対立軸をふくめて、礼儀正しさの背景が気になってしかたないんです。いいことなんだけど、何かあるぞという。というのも自分は以前から人に怖がられやすい──曲がり角からぬっと出てきた大型犬が怖がられるような──そんなタイプなだけに敏感に感じるものがあって」

ハラオカ
「加害側に見られがちな立場から感じるものがある?」

ケイヒロ
「加害者になって批判されたくない。小さなできごとがクリティカルなダメージになる世の中について指摘しておきたいと思います」


正義による懲罰の時代と加害者になる恐怖症

多くのスポーツでスポーツマンシップが問われ、たとえば柔道や剣道で「礼」が重視されるのは、不要な対立を回避する防潮堤として礼儀が機能するからだろう。

過日、女性プロゲーマーが差別的な発言をして糾弾された。eスポーツでは選手同士が侮辱しあって挑発するのが普通らしく、彼女は広く社会に向かって挑発的な発言をしてしまったようだ。このできごとからも礼儀が歯止めとして欠かせないものなのが理解できる。

いま礼儀正しい人が増えているのは歓迎すべきことで、不要な対立を避けられている点は高く評価すべきだ。しかし、いまなぜ不要な対立に至る摩擦を避けようとする人が増えたのか、それは対立が発生しやすくなったからではないのか。

専門誌やゴシップ誌のプロスポーツ選手にまつわる古い記事を読むと、プロ野球選手やプロゴルファーのモラルの低さを楽しみこそすれ批判する風潮がなかったのがわかる。これは社会が未成熟だったためモラルの低さが気にならなかったからだろうし、人々が批判しようにも声をあげる場がなかったからでもある。

だから、著名人がモラルに反していても暮らし向きに何ら悪影響がなければ仲間内で話題にして終わりだっただろう。しかし、いまどきは違う。

プロゲーマーが身長170cm以下の男性には人権がないと発言したら、170cm以下の男性だけでなく世論まで敵にまわすことになった。加害者は彼女ひとり、被害者はモラルと正義の側についたSNS上の多数の人々という極端な構図になったのだ。

こうした事態はスマートフォンが普及した2010年代初頭以来、悪ふざけが写真や動画で投稿されて炎上するたび繰り返されてきた。

コンビニのアイスクリームのケースに入り込んだり、厨房で食べ物を弄んだりする人がおこした炎上劇を知らない人はいないはずだ。迷惑が可視化され、そのつど不快感や怒りなどを感じ、正義が懲罰を下すのを目にするのだから、人々が法やモラルに対して神経質になるのは当然だったろう。

最近はドライブレコーダーで収録したおかしな運転やおかしな歩行者の挙動が紹介されて話題になる。悪質なものが多いとしても、うっかりやめったにない失敗、むしろ収録した自動車側に問題がある場合もある。それでも「ああいう連中にいつも迷惑な思いをさせられている」という声が集まって正義が暴走しがちだ。

可視化、感情の動き、正義による懲罰。いずれも法やモラルへの意識を変えた。そして、落ち度をきびしくとがめる正義と自分の振る舞いが対立していないか四六時中気にしなくてはならなくなった。

現代のトラブルは当事者同士の問題を超えて、正義がどこにあるかを問わずにはいられないものになったのだ。


正義が生んだ不寛容

アメリカでBlack Lives Matter (BLM)運動が盛り上がる発端になったジョージ・フロイド事件の直後、白人が黒人に罪をきせて通報する様子が動画でSNSに拡散され、通報者の身元が暴かれ失職に追い込まれるといったキャンセルカルチャーが頻発した。

黒人だから犯罪者と決めつけるのも、黒人だからと恐れたり罪をきせるのも正しい行いではない。

だが、こうした正義と正義の鉄槌が下される場面が繰り返された結果、白人が加害者になることを恐れて沈黙せざるを得なくなったり、BLMが暴動化して略奪などの犯罪が発生しても批判できないまでになった。

これは極端すぎる例だが、日本における可視化、感情の動き、正義による懲罰も構造は同じだ。そしてBLMの顛末からわかるのは、正義とは明らかな敵をつくるものだということだ。

軽率だったり粗暴で知恵の足りない人をあらわすネットスラング「DQN」が2000年前後から使われはじめ、1999年の玄倉川水難事故はDQNの川流れと呼ばれた。アイスクリームのケースに入り込むのも厨房で食べ物を弄ぶのもDQNの仕業とされた。

2015年にオリンピック・パラリンピックエンブレム案が著作権を侵害しているのが発覚して、このときの大会組織委員の釈明を揶揄するため「上級国民」という語が使われはじめた。2018年に弁護士が起こした交通事故、2019年の東池袋自動車暴走死傷事故では「上級国民」が連呼された。

2019年頃から道路を遊び場にして平穏な生活を邪魔する人々を「道路族」と呼ぶのが広がり、道路で遊ぶ子供や家族をSNSに晒す行為が広がるだけでなく道路族マップがつくられた。

2020年7月、スーパーの惣菜売り場でポテトサラダを買おうとすると「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と高齢男性に言われたとするTwitterへの投稿が話題になった。その後、コロッケなどで同様の話題が提供された。

BLMでは白人、事故や事件ではDQNや上級国民、日常生活では道路族や老害が正義の敵とされた。いずれも発端は不快だったり悪質なできごとだが敵を固定し、敵を叩き続けるため話題が再生産されている。

ポテトサラダを買おうとしたとき嫌味を言った老人は確かに存在したのだろうが、高齢者の平均像として一般化すべきものではない。だが当事者同士のトラブルを超えて、老人また男性の無礼さや無理解を示すできごととして紹介された。

また道路族が拡大解釈された結果、自宅前のさほど迷惑ではなさそうな場所に子供が集まって話をしたり縄跳びをした様子がネット上に晒され、恐怖で萎縮してしまった家族がいる。同列では語れないものの、子供の声がうるさいと自治体に苦情が持ち込まれ使用が制限された公園の事情と似たものを感じる。

特定の誰かとのトラブルは個別の案件だが、大きな正義のもと敵か味方かに二分された世界は、あたりまえだが不寛容さで満たされた世界だ。


対談/被害者になりたがる人を警戒しなくてはならない時代

・マイノリティーと正義

ハラオカ
「フェミニストを装った愉快犯の三浦よしというツイッターアカウントのプロフィールがマイノリティーの問屋みたいになっていて、いま正義がどこにあるか象徴してますよね」

プロフ在日🇰🇷系のアフリカ系🇧🇪ミックスです。自身の性自認は男性のTS🌈。同性愛者でもあります。ADHD💊の特性あり 、子供👶を育てるためにプラスサイズモデルとして活動しようと考える最近。根っからのヴィーガン🍅。企業及びインフルエンサーのフェミニズム顧問。女性差別を許さない。マイノリティに自由を🦐

三浦よし/プロフィール

ケイヒロ
「あれに列挙されているのは見下されてバカにされていた人たちです」

ハラオカ
「そう考えると、この人の差別意識がよくわかりますね」

ケイヒロ
「見下されていた側に正義があるというのは、あんがい最近のことではないかと思います。玄倉川水難事故いわゆるDQNの川流れと言われた時代は、DQNを見下して正義を語っていました」

ハラオカ
「DQNとは自分以下を指して言う言葉ですよね」

ケイヒロ
「そうです。玄倉川水難事故の被害者は職業を揶揄されたし、低学歴とか在日が通名を使っているのだろうとも言われました」

ハラオカ
「見下されて当然の連中だし、悪いことをするにきまっているという意識ですね。BLM風に言うなら、黒人は見下されて当然の連中だし、悪いことをするに決まっているという白人の意識みたいな」

ケイヒロ
「2000年代は、そんな感じで在日韓国・朝鮮人へのヘイトが続いて、だんだん様相が変わって行きました。2015年から庶民ではないくらいの意味で上級国民と言われはじめて、2019年の東池袋の暴走事故で上級国民が特権階級の意味で使われてからというもの、自分の立場を弱者側に持っていく人ばかりになりました」

・寛容なはずのリベラルが不寛容に

ハラオカ
「被害と加害の位相が変わったのですね」

ケイヒロ
「私はやられっぱなしの被害者だ、という訴えが増えたのです。上級国民は特別扱いで一般人は差別されっぱなしだと言っていたのが東池袋の暴走事故。ポテトサラダの話も、横暴な老害から嫌がらせをされた一方的な被害者の立場です。家事や女性への無理解や偏見がいつまでもなくならないとする主張が底流にあります。やられっぱなしなら、その人は弱者です」

ハラオカ
「道路族もですか?」

ケイヒロ
「被害者たちは、道路族はDQNであると言っているけど、その人たちはお隣さんで同じ階層なんですよ。DQNが下層階級や低学歴の意味ではなく常識が通用しない人の意味でだけ使われています。そうした人に、やられっぱなしだと」

ハラオカ
「何があって、被害と加害の位相が変わったのでしょう?」

ケイヒロ
「国内では反差別運動と在日からの主張。海外からの影響では三浦よしに象徴されるフェミニズムやLGBTとかBLMムーブメント。自分は被害者だと主張して加害者を糾弾する機会が増えた影響ではないでしょうか。動向をGoogle Trendで見てみましょう……」

各キーワードの検索数の変化

ケイヒロ
「被害者ぶる、というのは嫌悪感に満ちたかなり強い言葉です。もっとマイルドで中立的なのが被害者意識。どちらもトピック的な鋭い山が減って、ひたすら増加しています。どちらの言葉も検索数が増えていて、検索しているということは気にしている人や機会が増えたのを意味します」

ハラオカ
「在特会結成の頃から被害者ぶることが注目されてますね」

ケイヒロ
「在特会への抵抗としてしばき隊、ここからツイフェミと運動が変遷しました。いわゆるジャパンリベラル、Jリベラルの潮流です。彼らは正義のモラルを掲げて闘いました」

ハラオカ
「在特会時代より、リベラル運動が盛んになった時代のほうが増加している……。発端は反韓だったとしても、みんなが気になりだして止まらなくなったのは抵抗運動がはじまってからですね」

ケイヒロ
「ついでだから不寛容も見てみましょう。不寛容は否定形の言葉だから寛容についても調べてみます」

ハラオカ
「一致しているように見えます。偶然でしょうか。他の要因もあるとすると?」

ケイヒロ
「偶然はないでしょう。これはリベラリズムの影響かと。本来リベラリズムは自由と平等と寛容を是とする道徳と政治的な立場ですが、リベラリズムの正義を実現しようと敵に対して不寛容になった」

ハラオカ
「リベラリズムが広がっているということですか? 右傾化していると言われますが違うのでしょうか」

ケイヒロ
「この動向だけではなんとも言えないけど、差別的な言動や争いにげっそりしている人は多いだろうし、寛容や不寛容について意識が向いているのも事実で、モラルへの意識だって変わっているのだから右傾化しているとは言えないでしょう」

ハラオカ
「自分は被害者で正義だから不寛容に誰かを罰するという人たちがいて、その人たちから加害者にされてキャンセルされたらたまったものじゃないという人が違和感を感じているのですね」

ケイヒロ
「謎マナーもそれですよ。代表的なご苦労様、了解、お疲れ様を念の為Google Trendで調べてみると……。被害者意識や不寛容のトレンドとそっくりな関心度になりました。リベラル化とは無関係でも、マナー知らずのおまえのせいで傷ついたという被害者ぶりと不寛容があって、マナー知らずの加害者になりたくない意識でみんなぴりぴりして検索している」

ハラオカ
「なぜこんな、そっくりな増え方をしているのだろう」

・Z世代の危機感とポテトサラダ

ケイヒロ
「2010年という年に注目するならスマホの普及。2000年初頭からならデジタルネイティブ世代、Z世代の特性かもしれません。どちらも可視化、感情の動き、正義による懲罰を体験した結果です。自分の身辺のできごとだけ考えていればよかったのが、ありとあららゆる正義・不正義と関わらざるを得なくなってモラルについて神経質になったのではないかな」

ハラオカ
「アメリカのZ世代はモラル意識が高くてリベラル化していると言いますが、じつは高尚な理由より正義がどっちを向いているか神経質になっただけかもしれないし、そうだとしたら日本と同じ現象ですね。正義で罰せられるのが怖いから、そのときどきの正義に神経質になっているのがリベラル化で、これは被害者ポジションで糾弾する手法が行き渡ってしまった結果かもしれません。被害者になりたがっている人を警戒するって、嫌な時代ですね」

ケイヒロ
「敵をつくって叩いて自分の立場を保つなんてことを普通の人がやってたりするから。さっきの謎マナーも一対一の関係で発生するトラブルのはずですが、マナーなんていう大きな正義を持ち出されてやりこめられてしまう。就活や取引の場面で、相手を圧迫したい側が被害者を装う。おまえのせいでどれだけ傷つけられたと思うんだって調子ですね」

ハラオカ
「ポテトサラダの老害の話が高齢者ひっくるめて敵にしかねなかったのはそれですね」

ケイヒロ
「惣菜売り場の体験談が嘘でないなら、できごとを報告した人も共感した人も、それぞれの立場から愚痴をこぼしたり異議申し立てをしたかっただけなんだと思います。でも、加害者はうちの姑ではなく通りすがりの人物だし、その人との一対一の話がいつの間にか変化して、社会を相手にした被害者ポジションから正義を問う声が出てきました」

ハラオカ
「たしかに社会の話に持って行きたがる人がいますね。ポテサラやコロッケの話も、家事の省力化や合理化をスーパーの惣菜で実現していると切り出すのではなくて、不快なできごとの被害者になった話として敵を指差しながら報告するという。こういう話になると人が集まってきて、みんな被害者意識を抱いている」

ケイヒロ
「どうしても被害者ポジションから話をはじめたくなってしまうとか、正しくない自分が嫌われて敵として制裁されないように神経を使う。日常がキャンセルカルチャーなんですよ。私たちの不快、私たちのルール、私たちの正義を被害者ポジションから発信して自分の立場を守ろうとする人がいて、その人たちも礼儀の鎧を身につけて自分を守る。これがわかっている若い世代ほど礼儀正しいし、モラルだけでなく行動原理も様変わりしているんじゃないですか」

ハラオカ
「リベラル化が不寛容化で、被害者ぶりたい人を恐れてみんなぴりぴりしている。耐えられない人の暴発が心配です」


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