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あなたは決められるのか──患者の自己決定権をめぐる悩ましい問題

私たちは勉強熱心でものわかりがよく、意見を口にしても医師の説得に対して従順な患者だろうか。体調のつらさや不安を抱えているとき、そんな患者になれるのだろうか。

調査・構成・図版・タイトル写真
加藤文

その問いはGoogle Mapのレビューから

 グーグルが提供する医療機関のクチコミレビューを見てみましょう。

 あるクリニックについてレビュー者Aは、
「あれこれ勝手に決めてしまい、こうしてほしいという要求を聞いてもらえず、寄り添ってくれる医師ではありません。二度と行きません(要約)」と低評価をつけ、
レビュー者Bは、
「とても親切で、採血などもスムースに行ってもらえ、治療の提案がはっきりしていて、こちらの事情に沿って治療することになりました(要約)」と高評価をつけていました。

 AとBで対応がちがったのではなく、レビュー者Aは願望を否定され、レビュー者Bは願望通りの治療を受けたか医師の説明に同意した結果、クリニックへの評価が正反対になったのでしょう。


私たちは自分で決めなくてはならない

 私たちには、他人からの干渉を受けることなく、自分自身の生きかたについて決定をくだす権利があります。

 これは幸福追求権と呼ばれるものですが、私たちが患者となって医療を受けるとき何をどうするか、どうされるかを常に自分で決断しなければならないこととも関係しています。

 では、体調のつらさや不安を抱えているとき、あなたは治療について最良の選択ができるでしょうか。

 私は常に最良の選択をする自信がありません。誤診、転院と検査の結果また誤診、長期間におよぶ無駄な治療、転院によって病名が変わり再び長く続く治療を経験しました。こうなったのも診断が正しいかさえ判断がつかず、医師の提案に従うほかなかったからです。

 いっぽう独自の考え方で医師の診断と治療方針に異を唱える人がいます。たとえば川島なお美さんや小林麻央さんは、がんが見つかったあと標準治療を選択肢からはずしたため治療のタイミングを逸して亡くなられました。


反ワクチンも自己決定権の行使

 自己決定には、次のような例もあります。

 新型コロナ肺炎の蔓延を抑止するうえで、国はワクチン接種の可否を国民の自己決定に委ねましたが、専門家や医師たちの勧めを拒否したのが反ワクチン層の人々です。

 反ワクチン層を取材すると、このとき彼らはコロナ禍の不安に直面して情報の選択を誤ったか、不安をごまかそうとして自分の願望や行動の正当化に有利な情報ばかりを集めていたことがわかりました。そして自己決定したことが重要になって、ゆえに彼らは説得されるのを拒んで態度を変えようとしません。

 私たちは態度を決めるとき、決断の根拠にできそうな情報を探します。でも、これだけでは決断できません。どの情報が正しく有益か判断しなくてはなりませんが反ワクチン層はここで失敗をしました。

 がん放置療法やいんちきなニセ医療を選択した人を取材しても、医学について何ひとつ知らないに等しい患者が情報を収集したことで選択を誤っていました。このとき自己決定したことが重要になって方針を変えにくくなっていたのは反ワクチンの人々と同じです。

 知識と経験の非対称性が著しい以上、患者の自己決定権はあまりにも非力で稚拙なものでしかなく、医師の判断にすべてを委ねるのが無難だと多くの人が考えるのは無理もないことかもしれません。これが医療の現場で徹底されている「説明と同意」インフォームド・コンセントの実態です。


インフォームド・コンセントの限界

 医師が病状や治療について説明して患者が十分に理解し、どのような医療を選択するか同意するまでのプロセスをインフォームド・コンセントと呼びます。治療方針の決定者は患者です。

 インフォームド・コンセントを説明するうえで「医師と患者は対等」と言われ、両者の関係は患者をドライバー、医師をナビゲーターとして例えられることがあります。でも前述のように関係の非対称性はあきらかで、主体的にハンドルやアクセルを操作するドライバーと案内役のナビゲーターに例えるのは現実を無視していると言わざるを得ません。

 前出のレビュー者Aはインフォームド・コンセントの経過を「要求を聞いてもらえず、あれこれ勝手に決められた」と言い、レビュー者Bは「治療の提案がはっきりしていて、こちらの事情に沿って治療することになった」と言っています。

 AとBは診察室で告げられた診断と治療方針を、医学的な知識を前提に評価したわけではありません。判断のしようがなく医師にすべてを委ねても同意であり、願望や思い込みを裏切られて治療を放棄してもインフォームド・コンセントを済ませたことになります。

 それでも医師は「あなたがたは知識も経験もない。治療に同意するのも、拒否するのも相応の理解がなければ無理だ」とは言えません。なぜなら医療における患者の自己決定権は、患者側が勝ち取った揺るがしがたい権利で正義とされているからです。

 インフォームド・コンセントは1957年にアメリカで行われた医療事故裁判で、はじめて法律の原理として用いられた概念(法理)です。ナチスの人体実験に端を発する反省に基づいていると言われることがありますが、誕生のきっかけはアメリカの法廷にあったと言ってよいでしょう。

 医療事故裁判で生まれた法理だけに、訴訟回避の意図がちらつきます。医師の説明と患者の同意という手続きが重視され、患者にとっては判断のしようがないまま「はい、はい」とうなずく儀式になるか、思い通りにならないため業を煮やし誤った選択をする人があとを絶ちません。

 これがインフォームド・コンセントの現実であり限界です。


前時代的と否定されるパターナリズム

 『通院がいやになったとき 主治医が信じられなくなったとき 読んでほしい患者11人の証言』で患者と医師のすれちがい例を紹介しました。すれちがいをもとにしたトラブルの多くは、知識と経験で優位な立場にある医師が劣後する患者の利益のために、当人の意思に反して介入や干渉をしなければならなかったため発生しています。

 この介入や干渉を、前掲の記事では「患者の願望を打ち砕く」ものと表現しました。これは強者から弱者への干渉としてパターナリズム(または医療父権主義)と批難されてきたもので、自己決定権の尊重と対極にあるアプローチです。パターナリズムのアプローチでは、医師は治療について説明し、患者の意向よりも自らくだす治療方針を優先します。

 グーグルマップにクチコミを書いたレビュー者Aは、医師が治療方針を変更できないと判断したことを「あれこれ勝手に決めてしまい」と言い、これがパターナリズムへの拒否感です。

 適切に治療すれば寛解する可能性が高い患者が、「薬を飲みたくない」と医師に訴えた例が取材したなかにありました。

 医師は投薬の必要性を説明するだけでなく、たびたび説得を行いましたが患者は不満を募らせるいっぽうでした。このとき医師は患者の意向に干渉せず、投薬を打ち切ればよかったのでしょうか。断薬しなかった医師はパターナリズム的で、インフォームド・コンセントにも反していると批判されなければならないのでしょうか。ちなみに、この患者は医師の説明を受け入れず治療を投げ出して症状は悪化の一途をたどりました。

 インフォームド・コンセントは手続きを重視するもので、現実的な解決策としてパターナリズムなアプローチが行われています。自己決定権を放棄してうなずくだけの患者や願望通りになることを要求する患者がいて、理想と正しさを追求する建前の裏に、現実に即さない空理空論が横たわっているのではないでしょうか。


SDMでも変わらない

 レビュー者Aとレビュー者Bがくだした判断に、インフォームド・コンセントパターナリズムにかぎらない、患者の自己決定権をめぐる空理空論へのむなしさを感じずにはいられません。

 インフォームド・コンセントとパターナリズムそれぞれの限界から、現在SDM(Shared Decision Making/意思決定の共有/協働アプローチ)が提案され推進されています。

 インフォームド・コンセントとパターナリズムの欠陥とされた情報の流れと意志決定の一方通行を改め、双方向性を取り入れたのがSDMです。

 SDMはさも新しいアプローチのように語られますが、多かれ少なかれ現代の医療はSDM的な説明と意思決定のプロセスで運用されています。つまり純粋なインフォームド・コンセント、純粋なパターナリズムはほぼ存在しないと言ってよいでしょう。しかし、多かれ少なかれSDM的な医療の場で、治療方針のすり合わせができないのはレビュー者Aをみてもあきらかです。

 すりあわせが不可能なのは、患者が自らの志向で願望を固めたとき、医師の道理や論理は噛み合いようがないからです。反ワクチン層はワクチンを打たないと自己決定したことが重要でした。標準的な治療を放棄したりニセ医療に傾倒する者にとっても、自分が判断したことに価値があるのでやすやすと方針を撤回するはずがありません。

 SDMで想定されている患者像は、勉強熱心でものわかりがよく、意見を口にしても医師の説得に対して従順な人物が無意識下で想定されているようです。しかし実際の患者は判断のしようがなくて医師の提案を受け入れるイエスマンか、医療の道理や論理がわからず他人の指示に従わない人々でしょう。

 

患者はいったいどうしたらよいのだろう

 インフォームド・コンセントやSDMで想定されている、『勉強熱心でものわかりがよく、意見を口にしても医師の説得に対して従順な患者』の自己決定のプロセスを流れ図にすると以下のようになります。

 いっぽう標準治療を放棄したり、いんちきなニセ医療を選択した人は次のようなプロセスで決断や決定を誤っていました。

  人は思い込みをもとに情報を集めます。セカンドオピニオンを受けようとする人は期待通りの答えをくれる医師のもとへ向かいます。当人の嗜好や志向によって決断や決定がくだされます。

 嗜好や志向とは何でしょう。

 ある患者は薬は化学的に合成されたもので受け入れがたいと言い、別の患者は肉親が抗がん剤治療で苦しみ抜いて人生の喜びをすり減らして亡くなったことがトラウマだと言います。彼らの主な情報源は書店にならぶ健康関連本や、これらの著者である医師たちが登場するさまざまなメディアや講演会でした。

 ある反ワクチン主義者は自粛続きで仕事が傾き、生意気な態度で指示を出す医療の専門家の悪意に対抗しようとしたと言い、別の忌避者は(その人にとって)常識的ではないことをしたくない考えのもとワクチン接種情報を集めるうち、のちに陰謀論団体に参加するほどの過激さを帯びました。彼らの主な情報源はテレビ番組と、番組の主張に共鳴したSNS(会員制情報サイト)の集団でした。

 嗜好は親しめるものや好み。志向は心が向かい目指すところ。これらが彼らにとっての道理や論理になり、自己決定権が行使されて願望が実現されています。なぜいんちきなニセ医療が跋扈するのかと言えば、患者には自己決定権がありニーズを汲み取る医療まがい行為が求められるからにほかなりません。


私たちは自分では決められない

 

 自己決定権はたいせつな私たちの権利です。賢くなくては最良の医療を選択できません。しかし医師と患者の間に、医療の知識と経験の圧倒的な非対称性が横たわっています。賢くなるための情報収集や勉強が可能だとして、そのルートへ誰がいつ誘導し、誰がいつ教育するのでしょうか。誰かに導かれなくても自習できる者がどれだけいて、その人たちは病気のつらさと不安のなか合理的な判断ができるのでしょうか。

 SDMで想定されていた、勉強熱心でものわかりがよく、意見を口にしても医師の説得に対して従順な患者像は、きれいなパターナリズムを実現するお為ごかしに感じられなくもありません。

 この記事の結論は「私たちは(ほぼ)自分では判断できない」です。それが同意であっても拒否であっても、誘導された結果でいいではないかとする考えもあるでしょう。それならば、これを前提に患者と医師の関係を再構築すべきです。

 すくなくとも私たち患者は「ほぼ自分では判断できない」と意識したほうがよいように思います。これは諦めや開き直りではありません。判断の限界を知り、自己決定したことが重要になりすぎて態度が硬直するのを防ぐため重要です。

 きっと異論があることでしょう。患者の自己決定権について考えるきっかけになれば幸いです。

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