雪が解ければ(短編小説)

すべてをいますぐに知ろうとは無理なこと。 雪が解ければ見えてくる。 ヨハン・ゲーテ

 今週末は二十年ぶりの大雪の日なるということだった。大粒の雪の結晶が降っていた。
「雪、大きいね~」四歳になる娘が大きな口を開けて空を見上げた。
「コラ、ちゃんと傘をさしなさい」妻が小言を言った。私たち家族は大雪になる前に家に帰り着きたかった。私はふぅ、とため息をつきながら、傘を前後に揺らし雪を落とした。

 転勤でやってきたこの街で、冬を越すのは初めてだ。しかし、なぜその年が二十年ぶりの大雪になるのか私たち夫婦は自分たちの境遇に可笑しさを覚えた。一方、娘は、お気に入りの赤い傘をさし、降り注ぐ雪の中をスキップした。
 私たちは自宅までもどり、アール・デコ風の傘立てに、三本の傘をさした。傘立てには赤い一本の薔薇が、上から下まで長く描かれていた。妻は薔薇が好きで、数日前に近所の骨董品屋でこれを見つけ購入したのだ。今はその骨董品屋も臨時休業の張り紙が貼られていた。
 妻が夕食の支度をしている間に、私は書斎にこもって、本社に提出する報告書の仕上げをした。少し寒さを感じたので、食前酒のつもりで棚にあったスコッチをダブルで流し込んだ。液体が喉をとおり胃に入った。体の中が熱くなるのを感じた。スコッチウイスキーはもうすでに半分ほどになっていたが、なんとか今年の冬は乗り越えられるだろうと思った。
 夕食には赤身のステーキを食べてから、娘を温かい風呂入れた。そして、体を冷やさないように、そのまま早めのベッドに潜り込んだ。

 翌朝、妻の呼ぶ声で目が覚めた。
「おかしいわね……」妻は首をかしげていた。
「どうしたの?」
「傘がないのよ。三本とも」
「ない?昨日、傘立てに入れたよね」
「うん、入れたわよ。あなたのと、私のと、マリちゃんの」妻は薔薇のついた傘立てを覗き込んだ。しかし、そこには何も入ってない。私はマンションのエンテランスとベランダを確認したが、どこにも傘はなかった。外は完全な雪景色となって、地表ひとつ見ることができなかった。雪と寒さは激しさを増していた。この雪だと、当分どこにも外出できないだろうと思った。

 私と妻は家中を探したが一向に出てくる気配がなかった。傘がひとりでに歩いて行くわけでもないし、玄関には二重のロックがされていて誰かが侵入して盗んでいけるはずもなかった。そもそも、捕まるリスクを冒して、ロックを外し傘を盗んでいく泥棒なんているのであろうか?別の仮説を検討してみる。妻が玄関の外に置き忘れ、誰かがもっていった。右隣さんは、愛想の良いご家族で、奥さんと通路でバッタリ遭遇すると「うちのタロウちゃんは、うるさいでしょう?すいませんね」と謝ってくる愛犬家だ。左隣は空室になっている。そういえば、最近空室が多い……イヤイヤ、話をもどそう。そもそも妻が外に置き忘れたという仮説は口に出さない方がいいだろう。
「あなた、聞いてるの?」妻の声で我に返った。
「今、推理をしていたところ」
「それで、犯人はだれなの?」
「──そうだ、マリちゃんに聞いてみよう」
 娘は画用紙に何かを絵のようなものを描いていた。
「上手だね。何を書いているの?」私は横に座った。
「雪の妖精」娘のペンは止まらない。
「そうか、雪の妖精なんだね。可愛いね」雪の妖精は、女の子ように髪が長く、目が大きかった。そして、蝶のような大きな羽があり、両腕がピンと左右に延びていた。
「この雪の妖精さんが、手に持っている赤い棒は、魔法の杖かな?」妻がニコニコしながら聞いた。
「いや、魔法の杖じゃないよ」そういって茶色いペンで二つの棒を書き足した。妖精の手には三本の棒のようなものが付け加えられた。
「これはね、これはね、パパと、ママと、マリの傘だよ」
 私たちはドキっとしてお互いの顔を見合わせた。
「ねぇ、マリちゃん、さっきパパと、ママのお話、聞いてたの?」
「ううん、聞いてないよ、マリはここで絵を描いてたんだもん」そう言って娘は妖精にディテールを書き加えていた。私たちが話していた玄関から、この子供部屋までドアが閉まっていて音が漏れるはずがなかった。娘が悪戯でどこかに隠した可能性もあったが、大人の傘二本と子供の傘一本を、私たちに黙ってどこかに隠せるはずがなかった。念のために各部屋の押し入れをすべて開けたが、傘はどこにもなかった。
 私たちは探すのを諦め、妻が入れた熱いコーヒーを飲みながら、雪の妖精について話し合った。
「あなたはどう思う?」私がコーヒーをすすると妻が間髪いれずに聞いてきた。
「うーん、なんとも言えないね、でも、もしかしたら『あり』かも知れないよ、妖精に会えるなら会ってみたいよ」
「変なこと言わないでよ、気味が悪いじゃない、だって昨日まであった傘が、今朝3本とも消えちゃったんだよ。人間だろうが、妖精だろうが、捕まえたらとっちめてやるわよ。あの傘、気に入っているんだから」、妻は、この現象自体には興味がなく、傘がなくなったことによって、どれだけ不便になるのかを心配しているようだった。
「すべてをいますぐに知ろうとは無理なこと。 雪が解ければ見えてくる……」
「それってゲーテじゃない?」妻は頭の回転が速い。
「雨が降れば地固まる。種を植えれば芽が出る。雪が止めば傘も見つかる」
「そうだといいけど……でも、今の言い回しは強引よ」
 モヤモヤは残ったが、これ以上、考えても答えがでるはずもなかったから、私たちは、何事もなかったように、いつもの日曜日を過ごすことにした。窓の外を見ると、隣家の屋根にはかなりの雪が積もっており、空からは相変わらず大粒の雪が降り注いでいた。妻は食事の用意を始め、私は家の隅から隅まで掃除機をかけ床を磨いた。冷たい床に、今、横を走り去った娘の小さな足跡がうっすらと残った。一通り磨き終わって、玄関の床で一息つくと、娘より一回り小さな足跡があった。私はふぅーと息を吹きかけてみた。小さな楕円形に、枝のように細い指が三本あった。人間の足ではなさそうだ。片足だけ、指が三本、雪の妖精。私はその場で少し考えて、妻には言わない方が賢明だろうという結論に達した。
 
 この街に、雪は積もっていく。週末が過ぎたあとも、雪がやむ気配がなかった。どこにも出ることができなかったので、先週たっぷり買い込んだ食糧で、温かい鍋を作ったり、熱燗を嗜んだり、娘の相手をして遊んだ。妻は傘がないから不便だと愚痴をいったが、私はたいして気にならなかった。数日経つと雪は止んだ。空から青い空が見えたので、私は娘を連れて外へ出た。
 外は足跡が一切ない真っ白の雪で覆われていて、太陽光に反射してキラキラと輝いていた。娘は雪の上で寝転んだり、丸く固めて投げたりして遊んだ。
「ねえ、マリちゃん。雪の妖精さんってホントにいるのかな?」私は遊んでいる娘にたずねた。
「え?パパ見てないの?ずっと四人でいたじゃない。お鍋も一緒に食べたし、テレビも見たよ」
「残念ながら、パパは見えなかったな。もしかして小さい子供だけが見えるのかもね。ところで、今、雪の妖精さんはどこに行ったのかな?ここにいるの?」
「いまはね。いまはね。もうお空に帰っちゃたよ」、娘はそう言って、両手にある大きな雪団子を私に投げつけた。
「パパは、もっと、もっと、大きいの作るぞ!」
 ちらほら、人の姿が見えた。雪かきをしている人、大きな袋を持って買い出しに向かっている人、煙草を吸っている人、日常が戻りつつあった。
 家に帰ると、妻が興奮して駆け寄ってきた。
「あなた、傘が戻ってる・・・」
 びっくりしているのは妻だけで、私と娘は顔を見合せてニコリとした。
「雪の妖精さんが返してくれたんだね」と私が言うと、
「うん、よかったね!」と娘が嬉しそうに答えた。


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