キレる女 懲りない男/黒川伊保子
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480066978/
読了日2019/10/16
田舎民なので新聞は当然地方紙である。
そのため、よその(出回っている大手の新聞社)の新聞は読んだことがない。
だから他の新聞にも、読者の投稿欄というものがあるのかどうか知らない。
あるの?
うちの新聞には読者の投稿欄があって、色んなことが投稿されている。
多くはご高齢の方々だが、ここ数年は小学生くらいの子が投稿しているのを見る。
学校で書かされているのだろうか。
学校で書かされているにしろ、家で欠いて自発的に投稿するにしろ、その子は文章の書き方というのをおそらく学校で習ったのだろう。
私も習った。
作文の書き方として習ったか小論文の書き方として習ったかは忘れたが、とにかく習った。
まず結論を述べる。
私は〜〜と思います。
次に意見を1つ以上、多くても3つほど述べる。
1つ目は〜だから。
2つ目は〜だから。
3つ目は〜だから。
すると説得力が増すので良い文章になる、というのだ。
実際、新聞の投稿欄にもこのように、もはやテンプレートと化した書き方で投稿されている小学生の文章をよく見かける。
わかりづらいことはないのだが、どうにもなんだか、つまらなく感じる。
なぜ?
理由が判明したのは、本書を読んでからだった。
女の脳と男の脳は、どうやらかなり違っている。
というのは、生まれたときから自分の性に揺るぎない自信を持っている人々なら一度は感じたことがあるだろう。
私はある。
間違いなく女として生まれてきた証に、
毎月の血みどろ生理痛でこの世のすべてを悲観し、
結婚や出産を済ませた友人たちに心からの嫉妬を寄せ、
お見合い大作戦みたいな番組で「あの女は絶対ヤバい何かを持っているというのが女は直感でわかるのに騙されるバカな男」を見て心底、男ってなんてバカなの!
と思うくらいには今日も絶好調に女として生きている。
そのため「なんでこうなの!」という男への文句は尽きない。
ブスにも言う権利はある。
人権だ。
同時に言われる権利もあるが、聞き流す。
聞く権利はない。
だが女とは五官から仕入れた情報のすべてをほぼ記憶する恐るべき能力が宿っているらしい。
ふつうに怖いな。
というのも、我々女がもし子育てをするにして、その子が発熱した場合。
熱の上がり方、顔の色味、直前までの食欲、そうしたことを思い出しつつ、対処法として自分は母親にどんなことをしてもらったか、母親教室でどんなことを習ったか、ママ友から受けたアドバイスはどうだったか、そうしたことを逐一現状と照らし合わす。
そうしなければわが子を救えないのだ。
女の脳というのはわが子のみならず、
自分にとっての大切なものを守るために、
それらの周辺情報までも無意識に蓄積して異常事態が生じていないか常に確認を続けているなんとも出来た脳であるらしい。
私のそんなに出来てねえ……。
まあ思い当たる節はある。
女は何年も前のことを鮮明に思い出し、後になってグチグチ言うというが、私はまさしくそれだ。
そう言うところが嫌だと身内に言われていたが、それこそまさに私が女の脳を持っている証でもあったのだ。
と同時に、誰かが「あれ食べたい」「あれ欲しい」といった言葉も私は忘れない。
ささいなことだが忘れない。
これは重要だ!決して忘れられないぞ!ということは真っ先に忘れるにもかかわらず、そうした細々としたことは覚えている。
執念深さにも良い顔と悪い顔があるというわけだ。
そして女は100本のバラをもらうよりも、大きなダイヤをもらうよりも(今時くれるやつがいるのか知らんが)、
良かったことに対して褒める言葉がひとつあるだけで、いつまでもその言葉を糧に生きていける。
わかる。
誕生日プレゼントとか交際一年記念とかよりも、何気なくもらったメールの方が大事に保存して取っておきたくなるもんだ。
今はLINEかな。
後になって何度でも思い出すし、多分少しずつ美化される。
まあ、これが逆に怖いことにも繋がるのだろう。
女のストーカーが
「あの時私にああ言ってくれたじゃない!」
というアレは、かなり良い感じに美化されて心に残っているのだろうな。
女の忘れなさは大切なものにだけ発揮される分、ストーカーと化したときには最大限の力を生かせるのだろう。
出来る女の脳とはいつストーカーになってもおかしくないのだ。
で、冒頭の話に戻る。
文章はまず結論からはじめ、情報がいくつあるか(理由は1〜3あります)提示する。
これはどうやら男性脳へ向けたわかりやすい文章のようである。
男性脳とは逐一ゴールがないとうまく動かせない。
無駄なくゴールまで行きたい、というのが男性脳らしい。
ゴールが分からない、情報がいくつ提示されるか分からないというのは、男性脳にとっては非常に苦痛であるようだ。
と考えると、私(及び新聞の投稿欄で見かける子どもたち)が習った文章の書き方というのは、男性へ向けたわかりやすい文章でしかないということではないか。
たしかに今でも社会は圧倒的に男性的であるし、資本主義はいかに効率よく回すかが重要なので男性脳が活躍する場でもある。
そのため男性脳へ向けた文章の書き方を教わるというのは、この社会を生きていく上でとても重要なことなんだろうと思う。
でも待てよ。
今はもう女性だって働くし(私はまだ)、なんなら一生仕事に身を捧げる女性だって少なくなくなってきた。
となると、こうした文章の書き方はどうなんだろう。
まあ簡潔でわかりやすいのは、女でも好意的に見受けるけれども。
なんだか、読む人のことを考える文章としてわかりやすく、
ではなく、
読む「男の」人のことを考える文章としてわかりやすく書く方法。
という気がしてならないんだなあ。
最近ちょっとジェンダー関係の本を多く読んできた身としてはなあ。
だから私はルールのない小説を書くのが好きなんだなあと思いました。
おしまい。
ではない。
最後に一言。
この本、めっちゃ「分かる」。
好き。
唯一ダメな点をあげるなら(黒川先生ごめんなさい)、微笑はいらない。
年代的に(暗黒微笑)を思い出す世代。
それが私。
この記事が参加している募集
サポート代は新しい本の購入費として有効活用させてもらいます。よろしければお願いします。