ヤノマミ/国分拓

https://www.shinchosha.co.jp/book/128191/

読了日2024/02/06

ヤノマミとは彼らの言葉で「人間」を意味する。
この一文を見てすぐに思い出したのはアイヌだった。アイヌも彼らの言葉で「人間」となる。
他民族はおろか、そもそも自分たち以外の民族という概念がない彼らからすれば、あなたたちは何て名前の民族なのですか? という質問をされたところで答えはないのだろう。自分を形づくるものを見つけるには、自分以外のナニモノかとの比較が必要で、自分たち以外の民族を見たことがない彼らからしてみたら比較対象は植物や昆虫や動物である。それらと比較したとき、自分たちは何なのかと考えた結果の答えが「人間」となり、彼らの言語でそう答える。文明人を自称する私たちは、彼らの「人間」という答えを便宜上とはいえ民族の名前として扱う。
彼らはただ、自分たちが「人間」であると答えただけなのに。なら私たちの名前は「日本」なのか? おかしい話だ。

ヤノマミは、ブラジルとベネズエラのあいだに位置する深い森の先住民族である。
森に暮らしていた先住民族は、「文明人」の「開拓」により人口が何千万人から95%も減ってしまった過去がある。その脅威から森の深くへ逃れたことによって、ヤノマミは今でも原初の暮らしを維持しながら過ごしているという。

彼らの暮らしぶりは、まさしく先住民族の暮らしだろう。男たちは狩りに出かけ、女たちは畑仕事をする。病は精霊によってもたらされるので、シャーマンに追い払ってもらう。

シャーマンは複数人いて、中でもよく登場する「シャボリ・バタ(偉大なシャーマン)」がいる。彼は精霊を扱い、病を治す。彼いわく「精霊を探すために月にも太陽にも星にも行くことがある」。天には精霊の家が数えきれないほどあり、そのなかから病を治すにふさわしい精霊を見つけるため、どこまでも「登る」のだそうだ。
精霊について尋ねられたシャボリ・バタは、自分の死期も見据えていたようである。死後の世界についても語ってくれた。

「地上の死は死ではなく、死ねば精霊となり天で生きる。
精霊にも寿命がある。
男は蟻や蝿、女はノミやダニとなって地上に戻る。
地上で生きて、精霊になり、最後は虫になって消える定め」

ここにもアイヌの死生観との共通点が見いだせる。カムイと呼ばれるものは、アイヌモシリ(人間界)の様子を見に行くために例えば熊のガワを着ていく。そしてアイヌ(人間)に狩ってもらい、手みやげとして持参した熊のガワを獲物として授ける。アイヌは自分たちのところにいらしてくれたカムイに感謝を伝える儀礼を行い、カムイモシリ(カムイの国)への土産となるイナウ(削り花)をたくさん持たせる。人間に丁重に送られたカムイは、カムイモシリで人間に良くしてもらったことを話し、他のカムイから敬われる。そしてまた他のカムイが、様々な動物のガワをかぶってアイヌモシリへと赴く……。

最後こそ虫になるようなことはないが、アイヌの世界における動物たちはカムイモシリだと、アイヌと同じ姿をしているとされる。
ヤノマミにおけるこのあたりの、生き物の姿となって地上に戻る話はもっと深く知りたかった。シャボリ・バタは著者のインタビューもこれきりという約束なので難しいだろうが、遠い異国の先住民族と日本の先住民族の神話観に共通項が見いだせそうである。

ヤノマミはハナナリゥという川で、集落の人間に食べさせる魚をたくさん取る。
ならばずっとそこで漁をすれば良いのに、そうはしない。集落から遠く離れたハナナリゥでの漁には集落の一部の人間だけが参加し、他は残る。彼らの分まであらかたの獲物を取ると、突然ハナナリゥ遠征は終わり、集落に帰る。
食べる分はじゅうぶんに取ったから、もういい。
備蓄のようなことは考えない。その時食べる分だけを獲って、必要以上は取らない。そこに、乱獲を危惧する現代人の感覚はない。彼らはただ、もういいと思ったから漁をやめただけ。

裏表紙の概要にもある赤ん坊の生死については、特に印象深い。
生まれてすぐの赤ん坊は、人ではなく精霊とみなす。
大地から男の精子に入った精霊が女の胎内に入る。そして天から「ヤリ」という精霊が膣を気に入って住み着けば妊娠となる。男の精子の精霊と、天から降りてきた「ヤリ」という精霊との関係が今ひとつわからない。だがそれによって女は妊娠する。その時点ではまだ人ではない、精霊を宿しているということになるだろう。
赤ん坊が人になるのは、母親に抱かれたときだという。出産に夫や男は決してかかわらない。それどころか身内の女、義母や姉妹や実母でさえ立ち会わないこともある。
女は出産が迫ると陣痛をこらえ、一人で森に入って出産する。赤ん坊が生まれてしばらくは、どの女も無感情といっていい顔をしているようだ。へその緒がつながったままの赤ん坊が地面の上で、手足をばたつかせる姿を見て、女が一人で決断する。

この赤ん坊は人の子か、それとも精霊か。

スザナという女性は、やがてバナナの葉を集めてきた。それに胎盤をくるみ、木にぶら下げる。胎盤は白蟻が食う。白蟻に噛まれるととても痛いので、痛みに耐えられるような強い子に育ってほしいという願いがあるのだそうだ。
スザナはそれからやっと赤ん坊を抱いた。その子は精霊から人の子になった。

ローリは十四歳、まだ少女といってもさしつかえのない年齢だ。
ヤノマミでは、初潮が来れば嫁に行けるようになる。娘が生まれた時点で、その子の親に大きくなったら嫁にくれと頼む男や男親もいるという。そのわりには、結婚する相手の男が「嫌だ」と拒否すればあっけなく許嫁の関係は解消される。その後はわりと自由恋愛で結婚する。

十四歳で結婚している女もいるようだが、ローリは未婚だった。おまけにローリを妊娠させた相手は誰かわからない。祭りのときに出会った隣村の男だろうか。精霊だろう、といってしまえばそれまでだが、精霊は男の精子に宿る。精霊を介した男がいるはずだが、ローリにはそれが誰かわからなかった。

ローリは二日も陣痛に耐えた。出産のため森に入ってはひどく泣きじゃくった。なかなか生まれないので、これは悪い精霊が膣に取り憑いているからだと見たシャーマンが祈祷を行う。再度森に入っては、出産場所を転々と変える。出産を導く精霊を探しているという。夫のいない少女の初産だからか、多くの女たちが世話を焼いていた。

四十五時間の陣痛に耐え、ローリは女の赤ん坊を産み、その子の首に手をかけた。

著者はその瞬間、思わず目を背けた。
その様子を見た女たちに、著者は笑われてしまったという。

現代日本で生まれ育った身からすれば、すべて「信じられない」の連続である。

ローリは赤ん坊を精霊として天に返すと、ひとりで決めた。
バナナの葉でくるまれた赤ん坊は、ローリの母親と姉が白蟻の巣に入れた。縦に割られた白蟻の巣は、さながらナ・バタ(偉大な女性=女性器)のようだと著者は言う。赤ん坊がナ・バタに還っていく。人の子ではなく精霊なので、また人の目には見えない存在として還っていくのだろう。

別な女性も、赤ん坊を精霊として天に返した。彼女は赤ん坊を産んでにすぐ首を絞めて、白蟻の巣に入れた。そして手ぶらで集落に戻ってきて、赤ん坊は精霊のまま返したと告げて終わる。夫はそれに何も言わない。ここではそういうものなのだ、という当たり前があるだけ。当たり前の世界では、何かを言う権利や意思がない、というよりそうした発想すら出てこないのかもしれない。

三週間後、彼女は赤ん坊を納めた白蟻の巣を燃やしに森に入った。白蟻の巣に火をつけて、少しずつ木をくべ、ゆっくりと燃やす。白蟻の巣の中で、赤ん坊は白蟻に食べ尽くされている。だから燃えていく最中に巣が崩れても、赤ん坊の肉体はおろか骨もない。何もない。ヤノマミは死んだ人を忘れて生きていくので、本当に何も、何も残らない。悲しみ以外は何も残さない。
かといって、女たちも無感情で赤ん坊の首を絞めているわけではない。産んでしばらくは、毎夜のように泣いている女もいる。そんな妻の泣き声がうるさくて眠れないんだ、と夫は愚痴る。ここで「ならば」「だったら」と反論したくなる気持ちがあっても、そうではない。決めるのは彼女たちなのである。夫たちは何も言えないから、代わりに……と思ってしまうところは、現代日本人の私の感覚なのだろうか。

ヤノマミは狩猟で獲ってきた獲物が雌で、その腹に胎児がいたとしても決して食べない。それはしばらくのあいだ、子どもたちの遊び道具になる。幼い頃から血まみれの、内臓にも似た胎児を扱っているので、女一人の出産もつつがなく終えることがほとんどなのだろう。
その獲物の胎児も、やがては土に置き去りにされる。するとまた白蟻の餌になって、大地に還っていく。
胎児ではなくとも、仕留められた母猿が連れていた生後間もない小猿の母代わりになろうとした少女もいた。前述したローリだ。彼女は小猿に、自らの唾液を与えて保護者のように振る舞った。

ここにもアイヌとの共通点が見いだせる。
アイヌはキムンカムイ(熊のカムイ)を獲ったとき、小熊を連れていたらその子は殺さない。コタン(村)に連れ帰って丁重に扱いながら育て、やがてイオマンテ(熊送り)を行う。
胎児では死ぬしかない運命だが、人間が食するのではなく大地へ還す。そうすることによって自然の循環のひとつとなり、いずれまた何かしらの植物となって動物の餌になり恩恵として返ってくる。

ヤノマミの集落にも、次第に文明の足音が近づきつつあった。もとよりベネズエラとの交通の便を良くするべく、ブラジルは道路開発事業が進み、金銀の採掘のための盗掘者も森に訪れていたこともあり、ヤノマミは文明との接触を余儀なくされつつあった。それは開発を邪魔する先住民族という見方をされてしまい、先住民族の虐殺もあったという。それでなくとも、文明人が持ち込んだ感染症に罹患し、あったという間にたくさんの先住民族が亡くなった。著者が取材のために訪れていた集落の長は、前の妻も多くの仲間も感染症によって亡くし、森の各地を転々とさまよった。

アイヌが日本政府から受けた同化政策のようなものはヤノマミには見受けられなかったが、著者たちが避難所としていた保健所との交流を経て、予防接種や重病の処置など次第に文明が取り入れられていく。やはり若い世代は特に適応力が高い。集落の子どもたちにはあっという間にサッカーが流行り、映画まで見るようになった。獲物の胎児で遊んでいた子どもたちが。
同化政策こそない印象を受けるが、街へと出てきた先住民族を快く受け入れる街の人間は殊の外少ないようでもある。そもそも街の人間たちもブラジルの先住民族だったのに、ヤノマミだけが先住民族として保護すべき対象であることが気に食わないと考えるらしい。ヤノマミ側から街へと溶け込みたい人間も少なくないが、受け入れられるかどうか、受容側にも問題点が山積みとなっているようでもあった。

もしくは彼らヤノマミにポルトガル語を教え、大学で学ばせ、サッカーを教え、映画を見させ、施錠によるプライバシーという概念を教えたことが、見方を変えれば同化政策ともいえる。これらを集落に持ち込んだ青年はすでに、体はヤノマミだが心は白人だとヤノマミの老人に言われている。

先住民族と現代人は相容れないのだろうか。
だがヤノマミには、どうやら時間軸というものがあまり見受けられない。誰かに何かが起きたのも、いつのことなのかはっきりしない。ただそういうことがあった、として記憶されているだけ。それがいつなのか、どれほど前のことなのかはわからない。特定する必要もないのだろう。ヤノマミの生活には乾季と雨季が交互に訪れ、その日の天気と空腹具合で行動を決める。そんなことを彼らにとっては、過去などないのかもしれない。
現代人にとっての「過去」を「現在」もなお生きている先住民族は、まるで若気の至りによる行動を恥じている気持ちなのかもしれない。だが先住民族にとっては「現在」しかない。「現在」をどう生きていくか、が問題であって、過ぎ去った日々に頓着はしない。

しかし彼らにも「未来」はある。先住民族の未来は、現代人なのだろうか。先住民族の「現在」が連綿と続いていく日々もまた「未来」のありようだろう。
文明とうまく共存しながら過ごす先住民族がいてもいいに決まっている。
本書にある先住民族が文明を取り入れたお決まりの悪いパターンの未来や、同化政策のような運命をたどることがないよう、遠くの国の同じ人々を思う。


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