せんねんまんねん/蜂本みさ

https://virtualgorillaplus.com/stories/sennenmannen/

読了日2023/08/21

 親友とケンカをしてしまった少女、亀山ちよりは「対話のらっぱ」に語りかける。親友を怒らせてしまった話を聞いてほしくて。すると「らっぱ」は鶴田キヨエとつながった。名字が鶴と亀のふたりは、せんねんまんねんと笑う。それほどの時間は離れていないとはいえ、亀山ちよりにとって鶴田キヨエは過去の人間──第二次大戦のさなかを生き抜いている子どもだった。
 一方、亀山ちよりが生きている時代に流行の「スポーツ」があるという。鶴田キヨエはその「スポーツ」がなんなのか、亀山ちよりの話を聞いて、わかってしまった。そんなものに興奮するのはやめろ、と。

 運動そのものが好ましくないと思う人もいれば、国同士の威信をかけて戦う世界的なスポーツが好きではない……というよりも、その応援にうまく気持ちが乗らないという人もいるだろう。両者である私は単純に運動が苦手なので、その意識で後者の応援に乗り切れない気持ちが引きずられているのかと思っていた。
 そのふたつはまったく別の意識から生まれるものだと気づいたのは、過去にSNSで見かけたとある意見だ。その人もスポーツの応援が好きではない、熱中する人々が理解できないとのことだった。その理由が「これをすなおな気持ちで白熱して応援できる人間が、戦争になったときに国のやっていることに素直に応じられるんだろうな」と。かなりむかしに見たので記憶があいまいになってしまったが、こんな言葉だった。それを見て私自身、そうかだから国の名前を背負って戦うこれらの行為と、それを応援する人々が好きになれないのかと腑に落ちた。きっとこんなことを深く考えず、言語化することもなく、流行に乗って応援できれば人生はもっとずっと生きやすかっただろう。
 亀山ちよりは、そうした疑問を抱かない側の人間なのだろうか。おそらく違う。彼女はもう生まれた時点で、その作中における「スポーツ」である「ASW」はこういうものだと教えられてきたのだろう。なんの危険もない安全なものですよと、洗脳という名前の教育をほどこされてきたのだ。鶴田キヨエのように、いざ戦中になって立ち止まれるかどうかも怪しい。疑問は抱くかもしれない。けれどそこで、おしまいだろうと、一読して思う。それ以上深く考えてはいけないと、亀山ちよりは教育されてきたに違いないのだ。
 深く考えなくていい。それはまさしく、現代の私たちがほどこされている教育となんら変わらない。深く考えなくていいのはラクだ。難しい考え方は頭の良い人が代わりに担ってくれるので、所詮私たちのような一般人は難解な問題を軽量化したスカスカな指示に従うだけでいい。従うのもラクだ。責任を取る必要はないし、難しく考える必要もない。難しい考えで時間を浪費することもないから、自分にとって楽しいことにだけ自分の人生をあてがえばいい。それはもう幸福というやつだ。しあわせでしかない。

 亀山ちよりはまだ幼い。親友であるキリちゃんとケンカをしてしまい、その理由が自分の何気ない発言であるとわかっていても、どの言葉が彼女を傷つけたのかわからなくて、苦しんでいる。謝りたい。でも何に? 何に対して自分は謝れば良いのかわからなくて、とりあえず謝ってみたら突き返されて、また悩んで、鶴田キヨエに話しかける。そのケンカの原因はたしかに亀山ちよりかもしれなかった。けれど遠因はASWのように思えてしまう。亀山ちよりのこの子どもならではの意識とよけいな一言は、大人になるにつれて後悔と失敗の歴史の1ページとして忘れられない過去になるだろう。本来ならばそれだけで良い。亀山ちよりの失敗で終わる話で良いのだ。だが今後、恐らく亀山ちよりの生きる世界では、それがまさしく原因となってケンカの火種になるだろう。

 亀山ちよりは小学生の子どもだ。教育に最適な年齢である。その教育方針いかんで、子どもはどんなふうにも育っていく可能性が随所に示されている。ある程度の教育がその体にしみつけば、概念や思考を固定化させ、扱いやすい駒である大人になるまではもう少しだ。
 どうか彼女たちのような子どもが生まれないようにと願う。亀山ちより、鶴田キヨエ、そのどちらも。

 スポーツなんて私は大嫌いだと、改めて思った。

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