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『 金沢出身の元Jリーガーの僕が、今金箔屋の理由 』

プロフィール
皆さん初めまして、先ずは自己紹介をさせていただきます。

僕は石川県金沢市出身の諸江 健太(もろえ けんた)と申します。
1985年5月生まれの現在35歳です。

金沢では諸江町という町名があるほど、金沢らしい名前ですね!とよく言われます。
両親の話では、小さい頃からスポーツ大好き少年だったらしく、幼稚園の頃は特に大相撲が大好きで、まわしをつけて、いつも近所のお兄さんと戦っていました。

当時の僕のアイドルは、小錦関。なんで好きだったのか詳しくは覚えていませんが、恐らくあの体格とキャラクターに憧れていたんだと思います。

その後、野球にはまり、野球を習おうかと思いましたが、坊主にするのが恥ずかしいという思春期によくある理由と野球チームが地元の小学校にはなく、何をしようか迷っていました。


目次
1.プロフィール
2.相撲少年からサッカー少年へ。『できないから、できるへ』
3.中学を卒業後、金沢から名古屋へ
4.当時では珍しい大学生Jリーガーに(名古屋グランパス×中京大学)
5.地元のサッカークラブ、ツエーゲン金沢に
6.大好きな金沢への想い
7.なぜ今、金箔なのか?僕が今、金箔屋の理由

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相撲少年からサッカー少年へ。『できないから、できるに』
そんな時、たまたま通っていた小学校の運動場に行くと、当時、仲良しスポーツ少年団だったコーチが、オーバーヘッドキックをしている姿を見て

「かっこいい!!」

と一瞬でサッカーに惹かれた記憶が残っています。
単純ですが、今でも「かっこいい」という理由は何かを購入する時や何かを始める際の重要な理由です。

それからすぐ、仲良しスポーツ少年団に入団し、サッカー漬けの毎日が始まりました。

最初はとにかく練習について行くことが精一杯で、サッカーが楽しいというよりかは、自分にはむいていないかもしれないと思いながら日々サッカーをしていたように思います。

が、あるときできないことが練習をすることで、できるようになっていく楽しさからサッカーにはまっていきました。

最初はこんなことできるはずがない、こんな人たちに勝てるはずがないと思っていましたが、練習を重ねることで、それができるようになっていく自分がいて、そんなところにサッカーの楽しさを感じていたように思います。

それからしばらくして小学校6年生の時に、石川県選抜に選んでいただき、初めてブラジル遠征に行きました。

ブラジルは、地球の裏側と言われるだけあって、飛行機で24時間程かかるくらい遠く、時差も12時間ほどあり、当時のブラジル遠征の思い出は、ふらふらでグロッキーな状況の自分の思い出が多く残っています。

ただ、サッカーに関しては、初めて体験する海外の選手ということもあり、発想の違いや考え方、文化の違いなど数多く学ぶことができました。

その遠征を終えてしばらくした後、本気で将来サッカー選手になりたいなと漠然と考えていました。

小学校を卒業後し中学校では、部活ではなく金沢サッカークラブとヘミニス金沢の2クラブに在籍。

中学生の時に、移籍を経験。

当時、中学生年代での移籍はとても珍しかったですが、様々な理由から移籍を決断しました。

進む道を決めたら周りが見えなくなる性格だったので、当時は何を言われようが、移籍したクラブで成長し、将来プロになることしか考えていませんでした。

あとから聞くとやはりいろんな声があったようですが、一番大切なことは、自分の目的を達成するために突き進むことが大切だと思うので振り返れば、あの時移籍した決断は正しかったと思います。

中学3年生の時に、グランパスユースに声をかけていただき、練習に参加。

中学を卒業後、金沢から名古屋へ

練習参加で、評価をしていただき、中学校を卒業後、名古屋グランパスユースに入団。

当時は、自分が一番下手くそで、毎日サッカーをすることに恐れていたように思います。

ただ、そんなことを言っている暇はなく、日々サッカーに明け暮れる日が続いていました。

よく、Jクラブの下部組織に入っていました。とお話しすると、高校には行っていなかったの?などなど色々な質問をいただきますが、基本的には昼間は高校に通い、高校の授業が終わってからすぐにチームの練習に向かうというスケジュールです。

なので、当時、高校の友達と学校帰りに遊んだ記憶が数えるくらいしかありません。。

グランパスユースの場合、県外からの選手は、基本的に寮生活となり、門限も設けられていた為、サッカーとサッカーのチームメイト以外の思い出はほぼありません。

そんな環境に身を置いていると、自然に環境に慣れ、入団当初はサッカーをすることに恐れていた自分が、サッカーを楽しんで出来る自分に変わっていきました。

サッカーを楽しめるようになってから急速に自分が成長していったなと記憶しています。

何事もやり始めると最初は辛いですが、ある時期を境に、楽しく感じるあの感覚です。


グランパスユース在籍時は、相手の頭にヘディングをし頬骨を陥没骨折したり、疲労骨折したりと怪我の思い出が多くありますが、トップチーム昇格の知らせを聞いた時は、嬉しいというより、信じられないという想いが強かった記憶があります。


当時では珍しい大学生Jリーガーに(名古屋グランパス×中京大学)


僕の場合、グランパスのトップチームに昇格すると同時に、人間としての幅を広げたいという想いから中京大学にも入学しました。

いわゆる、大学生Jリーガーです。

大学に通いながらJリーグでプレーできるのかその当時は、過去の事例が少なく不安でしたが、挑戦してみました。


今後、大学に通いながらJリーグでのプレーを考えている選手に伝えたい事。

結論からお伝えすると、大学に通いながらJリーガーになることはあまりお勧めできません。

現在のようにオンライン講義を受けられる大学であれば問題ありませんが、オフラインでしか講義を受けられない場合、単位が取れません。

僕が、2年間で取得できた単位は20単位前後だったと思います。

特に、必修の講義は欠席すると単位が取れない場合が多く、大学1年生、2年生の時必修単位は取れていませんでした。

僕はグランパスから戦力外通告を受け、大学3年次から中京大学サッカー部に籍を移しサッカーをしていました。

大学3年生ではあるものの、大学1年次、2年次の必修単位は取れていないため、大学3年次に大学1年次、2年次の必修単位をひたすら取得していたのを覚えています。

講義は、毎日ほぼ全て埋まっている状況でした。

大学生Jリーガーになるとこのような状況が起こる可能性があるので、これから大学生Jリーガーになろうと考えている方は、オンライン講義を受けられる大学への入学をお勧めします。

ただ、大学に行ってよかったなと思うことは、たくさんの仲間と出会えたこと。

それが全て。

大学の卒業は、大学1年次、2年次の単位取得の少なさが響き、半年延びましたが無事に中京大学を卒業できました。


地元のサッカークラブ、ツエーゲン金沢に

大学卒業後は、FC刈谷を経て、地元金沢にある、ツエーゲン金沢(当時北信越リーグ)に入団しました。

当時のツエーゲン金沢は、北信越リーグに在籍していた為、環境的にはとても恵まれていたとは言えませんが、「地元金沢の為に!」という強い想いがあったので、そんなことは気になりませんでした。

ツエーゲン金沢はその年、北信越リーグからJFLに昇格。

JFLの入れ替え戦では、過去に在籍したFC刈谷と入れ替え戦だった為とても複雑な気持ちでしたが。

なんとか、北信越リーグからJFLに昇格でき、今までにない感情が湧き出てきたことを思い出します。

それは、


今までは『自分の為にサッカーをして自分が満足できればいい』と思っていた僕が、JFLに昇格できたことで『地元、金沢の方が喜んでくれたこと』に大きなやりがいを感じました。


それも自分が大好きなサッカーを通して地元の方に喜んでもらえた事が本当に嬉しく、その気持ちが、当時のサッカー続ける大きなパワーの源になっていました。

その後、ツエーゲン金沢でJFLを数シーズン過ごした後に戦力外通告を言い渡され、金沢以上に情熱を捧げてサッカーをプレーすることはできないという理由で引退。

当時はツエーゲン金沢への気持ちが強かった為に、戦力外通告を言い渡された後しばらくは、なにも考えることができず、毎日抜け殻のようになっていました。

自分は、現役の時からサッカーを引退した後のキャリアを真剣に考えているつもりでしたが、引退してみると、その考えは甘く、社会の厳しさを学びました。

具体的には、

①サッカー業界以外の世界では、元サッカー選手という肩書きはあまり武器にならない。
②ビジネススキルが圧倒的に乏しい
③サッカー界の常識と社会の常識とのギャップにすぐに馴染めない
④etc.

ようやく、気持ちも切り替えがついてきた時に、これからの人生、自分は何をやっていこうか日々ずっと考えていました。

高校生の時から金沢を離れ、約8年間名古屋で過ごし、その後また金沢に帰ってくることになり金沢生活を送る中で、金沢の良さを感じる事が多くなっていきました。


大好きな金沢への想い

僕が考える金沢の魅力とは、歴史と本物の文化が残る美しい街。そして伝統と革新が混ざり合う街並み。

東茶屋街や兼六園などにも象徴されるように歴史的な建造物や街並みが残っている中、21世紀美術館など現代的な建物などが混ざりあっている金沢が僕は大好きです。

それは、地元が金沢だからということもありますが、中学を卒業し名古屋で過ごす時間や、サッカーを通して様々な地域を観て来た中で、外からみた金沢という視点で金沢の魅力をさらに見つけることができたのだと思います。

そんな大好きな金沢に貢献したいという想いは、選手生活時代から考えていたけど現役を引退した今、次は何で金沢に貢献できるかなと考えていた時、自分のルーツを振り返る中で「金箔」が候補に上がりました。


なぜ今、金箔なのか?僕が今、金箔屋な理由


前置きが長すぎました。

ここ最近は特に、なんで金箔の仕事しているの?とよく質問を多くいただきます。

実は、僕の祖父が2019年で創業150年の箔の製造・卸販売の会社を営んでおり両親もそこで働いています。

祖父はすでに亡くなりましたが、現在も両親は箔の卸会社に勤めています。

北陸新幹線が開業後、金沢が注目されてきたと同時に金箔も話題になり、メディアなどでもたくさん紹介されるようになりました。

が、現役生活中の時から、父親と話をしている中で金箔業界の現状と課題を聞いて、金箔の技術が無くなる可能性があるかもしれないと言った話しをよく聞いていました。

しかし、その当時は金箔よりも自分のやっているサッカーに全てをかけていたので、金箔業界について、あまり真剣に考えてはいませんでした。


※ここで現在の金沢の金箔業界について

ご存知の方も多いと思いますが、金沢は『日本の金箔の生産量99%のシェアを誇っています』

つまり

金箔=金沢 ということです。

金箔の需要は今まで神社仏閣、仏壇仏具や京都・西陣織の帯などに使われていましたが、現代のライフスタイルに溶け込む事ができず、現在はピーク時(平成2年)の約1/6まで生産額、生産量が落ち込んでいます。

金箔は熟練した職人の手作業によって作られています。


現在、その職人は高齢化が進みその平均年齢は70歳近くまで迫っております。これらの状況を踏まえると金沢箔は今後5年〜10年の間でその技術は途絶える可能性がある危機的状況であります。

僕は、金沢にしかない”多くの人に感動を届ける価値ある技術”を、僕はなんとしてでも守り継承すべきだと考え、日々、現代のライフスタイルに生きる金箔の需要を日々探し続けています。


現役を引退してもなお、金沢に何かで貢献したいという想いは強かったので、この金箔業界の現状と課題を知ったとき、なんとか金箔の魅力を沢山の方に伝え ”金沢に400年以上続く、世界に誇る美しい伝統技術を継承したいという想い” から2014年に株式会社ゴールデンバロール(https://golden-valor.com/)を創業し活動しています。


■金沢箔事業の目的
世界中の方に金箔を『かっこいい!美しいと感じてもらうこと』
または、『世界中の方に必要とさせる用途を見つけること』

その上で、以下の目的を達成していきたいと考えています。

①金沢箔の新たな需要創出
②伝統技術の継承
③金沢箔のブランド化
※金沢箔とは金沢で生産される金箔、銀箔、プラチナ箔などを含む箔の総称です。

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※昨年、テレビ朝日・松岡修造の「できる宣言」出演させて頂いた際の一枚

金箔は人間が生きていく上では必ずしも必要ではありませんが、「人の心を幸せにしてくれる、かっこよくて美しい金箔」を未来へ伝える為、現在は金箔屋として活動しています。

現在は、名古屋のフローリングメーカーさんと、金沢に400年以上続く金箔製造技術と、京都に代々受け継がれる箔押しの技を融合して作られた、『日本の伝統技術を集結させ、ワンランク上の特別な空間を演出する金箔フローリング』を開発したり、光にあてると青緑に光る特性を生かした『幻想的で煌びやかに光る金箔照明』など、様々な業界とコラボレーションさせて頂いています。


人は、金箔がなくても生きていけますが、日常に"金のかがやき"がある事で、心が豊かになり、楽しくて幸せな人生を送る為に貢献できればと考えております。

また、かっこよくて美しい金箔を皆さんが使っていただくことで、日本の伝統技術を守り継承していくことに貢献できるよう、繋げていきたいと考えております。


今後も自分が小さい頃から培って来たサッカーと自分のルーツである金箔を通して、皆さんに様々な価値を提供できるように頑張ります。


初めてのnoteでうまく伝えられているか不安ですが、少しでも僕の金沢への想いや金箔、そしてサッカーへの想いを感じていただけたら嬉しいです。


そして、今まで自分が歩んで来た道や、これから進むべき道がきっと誰かの人生に少しでも貢献できると信じて発信していきます。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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