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東京→秋田 移住10年目の日記

2011年7月→2021年7月を振り返って

私たち夫婦と娘1人が東京から秋田へ移住したのが2011年の7月なので、今月で丸10年が経過しようとしています。せっかくの節目の時期なので、これまでとこれからを一度まとめてみたいと思います。(写真は引っ越して来たばかりの時に撮った記念写真。自分は28歳。妻27歳。長女7か月。)

まずは家族に感謝を。冷静になって考えてみたら、よくぞ決断してくれたなと。2011年に今の家(私の祖父母の家)に引っ越して来たときは、祖父母とも亡くなってから10年が経過していたので、中はボロボロで、まずは一通り住めるようにするまでが一苦労でした。幸い両親は車で1時間半ほどの秋田市内に住んでいたので、毎週のように駆けつけてくれて、片付けや掃除を手伝ってくれていました。

※注意※ このテキストは全部で1万字あります!戻るなら今がチャンス

あきらめの境地の2011年

この土地でゲストハウスをやりたいと思って貯めたお金を持ってきてはいたものの、屋根を直したり、床板を直したり、ボイラーを買って水道管を直したりしているうちにミルミルミルと目減りしてしまって、これは今すぐには宿屋を始められないなぁとあきらめの気持ちになっていた2011年でした。

そこからハローワークで「希望の仕事にはつけませんよ」と言われながら、それでも観光業っぽいものを探し続けて1か月、国民宿舎森吉山荘の求人を見つけて8月に就職。しかし当時の支配人に馴染めず11月にスピード離職。その後12月~3月までの3か月間は美大卒の経験を生かして独立開業の道を模索するも断念。またしてもハローワーク通いの毎日。2012年3月に社団法人東北建設協会(現在は解散)へ就職。自宅から車で5分のダムでの管理支援業務に従事することになりました。

はじめてニワトリをハヤシた2012年

そのダムで毎年行われている「紅葉まつり」が2021年現在も行っている「マタギ体験ツアー」の原点でした。私たち家族が暮らしている根森田集落では、そのイベントに「だまこ鍋」を出店しているということで、前日の準備に呼ばれたときのこと。野菜を切ったり、お米をつぶしたりという準備を想像していたのですが、現場に行ってみると、そこには2羽のニワトリが。これが衝撃的だったのです。初めて羽をむしり、ハヤシて(さばいて)、そして出来上がった鍋は最高に美味しかった!!この体験は、他のお客さんにも喜んでもらえると思ったのが最初の記憶。でも、それをどう売れば良いかが分からなかった2012年。

初ツアーで惨敗した2013年

悶々と過ごしているうちに、秋田県では日曜朝に放映されていたカンブリア宮殿で、神子原米で有名になったスーパー公務員の人が出ている回を見ました。その人は「今は日本酒の飲める女子大生を呼んでツアーを行っている」と言っていたのです。映像にもキャピキャピの女子大生が映っていました。これをいつかパクろうとすぐにメモに残しました。

そうこうするうちに、この根森田地区で年間10万円の予算で何か事業をやれないかという提案が県地域振興局のTさんからあったのです。そこで、根森田の農村体験ツアーを提案したのが一番最初でした。1日目にはニワトリをハヤス(さばく)ところからの、きりたんぽ鍋づくり。そして、様々な日本酒を用意して利き酒大会と地元民との交流会。2日目は、奥森吉の滝などを巡るメニュー。対象はもちろん、日本酒の飲める女子大生限定、です。

当時は、ターゲットは絞った方が良いという情報を鵜呑みにしていたので、日本酒が飲める女子大生という思い切った選択をしていました。協力をお願いする根森田のおじいちゃんたちのヤル気も誘い出したかったので、若い女性を集めたいという魂胆もありました。しかし、目論見はものの見事にはずれてしまったのでした。

まず、学生さんはお金がない。ここがまだ分かっていませんでした。このツアーは2泊3日で通常15000円ほどかかるものを補助金を活用して8800円にまで下げていました。それでも、学生さんには高いと言われてしまったのです。いくらなら来るかと聞くと「3000円」という答え。その当時は、色々な学生サークルがあり、大学生に声をかければ人は集まるよと言われていたのですが、それは無料での話。学生に頼ろうとした自分が愚かだったと後から気が付いたのでした。結局あわてて、女子大生縛りをやめて一般募集に切り替えたのですが、人が集まらず初年度は4名。1家族プラス1名。どちらも知り合い。惨敗でした。しかも、県の担当者が未経験の方だったこともあり、最初はどれでも補助金は使えますよ、レシートだけ取っておいてくださいとのことでしたが、終わってから、あれも使えません、これも使えませんが始まり、結局大赤字。心にも家計にもダブルパンチで撃沈した2013年でした。

マタギと一緒の山歩きをはじめた2014年

翌年は、前年の反省を生かして、使えるお金の幅が広がるように県と市と共同の事業となりました。しかし、補助金という性質上、補助を受けるのが根森田集落単独では良くないということで、地元の民宿組合も入れて、4者でのスタートとなったのです。予算は合計で20万円。

2014年は変なこだわりは捨てて、今一番この地域に来てくれている50~60歳代をターゲットに、まずは人が集まるものをベースに考えました。外せないものは、ニワトリをハヤス(さばく)ところからのきりたんぽ鍋づくり。そこから、初年度は太平湖等の観光地を巡っていたものの、今回は予算の関係もありバスを借りられなかったため、地元の山を散策してもらうことに。ツアーをやると、頭を悩ませるのがこのバス代です。予算が20万円あってもバス代で11万円が消える計算でした。

そこで初めて、タダの山歩きではなく「マタギと一緒に山歩き」としたことは収穫でした。でもそのときは、マタギと大々的に宣伝はしていなかったのです。なぜなら、マタギという言葉には阿仁地区の人が過敏に反応してくるので(当地域は森吉地区)、あくまでも農村体験が主で、マタギとの山歩きはオマケという位置づけでした。

でも、ツアーを実施してみると10人ほど集まった人のほとんどが「マタギとの山歩き」が一番面白かったという答えだったのです。キノコを採ったり、出てきたマムシをひょいとさばいて胸ポケットへしまい込む様が忘れられないということでした。このツアーは大成功だったものの、根森田集落の人たちから、別の団体とは一緒にやりたくないという意見が出たため、次年度からは私ひとりが根森田集落代表として参加することになってしまったのでした。一番近くの集落の人が一番のライバルという田舎の法則発動。

「観光」と「教育」の分離を味わう2015年

2015年は農村体験ツアーを2回連続で開催した年でした。この年は観光課以外に市の教育委員会からも打診があり、子どもたちを対象にしたマタギ体験ができないかという話をいただいたからでした。でも、スタッフを担う住民の意向としては、1度の準備が大変なので観光と教育を合わせて1回の実施にしたかったのですが、観光課と教育委員会の予算は一緒にはできないということで、それぞれに実施することになりました。さらに、本当は秋に教育ツアー、冬に観光ツアーのつもりが学校関係者の集客に苦労をして、どちらも1月開催になってしまったのでした。毎週のように雪山を駆ける生活。ここでのつながりが今でも生きているので、災い転じて福となしている部分です。教育を主としたマタギ体験ツアーで来てくれた関東の子どもたちは翌年のツアーにも参加してくれました。この教育委員会との事業は後に市の公式な事業として格上げされ、年間100万円ほどの予算で現在も行われているツアーに発展してくれています。

はじめてインバウンドを意識した2016年

これまでの3年間の経験から、日本人はきちんと募集すれば、きちんと集まって、ツアーに対する満足度も高いということが分かったので、2016年からは当時話題になっていた外国人観光客を対象にしたプランづくりを第一に検討を進めていくことになります。

そこで、秋田大学の留学生に協力を依頼して、モニターツアーを実施してみました。外国人を相手にするために、マタギ文化を説明する英語の冊子を用意したり、DVDを上映しながら寸劇を交えた説明をするなど、様々な工夫をしました。参加してくれた外国人は7人7カ国、言葉もバラバラ。トルコ、ジンバブエ、中国、モザンビーク等々。イスラム教の人もいて、食事内容も制限される中、すごく楽しい時間を過ごすことができました。やはり見るポイントが日本人と違っていて、とても参考になりました。この地域のポテンシャルはまだまだ奥があると感動したことをよく覚えています。

結果、外国人にはニワトリをハヤス(さばく)ところよりも、山歩きが最も効果的だったことが分かったり、地元の人も「別に英語が話せなくても外国人の相手はできる」という自信につながった良い体験となりました。

教育委員会主催の子どもたちを対象としたマタギ体験ツアーでは、夏の体験としてカジカ獲りやアユ釣り体験、山歩きやキャンプ等、今年も実施される内容が確立した年でした。

2013年のツアーから2016年まで計6回のツアーを実施

マタギ文化自体は東日本全体に広がっていますが、北秋田の根森田地区で何回もツアーを実施していると、お隣の青森や山形とも違う、さらに同じ市内の阿仁地区とも違う、根森田集落だけのマタギ体験ツアーに段々と変化してきたことを感じています。

ニワトリのいのちをいただいた鍋の感動から始まったこの体験ツアー。

2017年からは、いかに利益を出していくか、もっともっと質を高めて若者の雇用に結びつくところまで持っていきたいと思い活動をしてきました。補助金に頼らずに、運営できるように。サスティナブルなマタギ文化を次世代へ伝えていくために。まずは、そのためのベース基地をつくりたいと動き出します。

ゲストハウスが完成した2017年

ベース基地として私がつくりたいと思った「ゲストハウス」という存在を初めて知った原点は、2007年に私が友人と一緒に中国・チベットへ訪れた時。今はなきスノーランドというゲストハウスで異文化交流や、相部屋でのごった煮の楽しみを知りました。(ちなみにその時のゲストハウスで焚いていたお香「Panchavati」が生涯忘れられない思い出の香り。この記事の執筆には書いては消し、書いては消しでかれこれ1週間が経過していますが、その間に衝動的にこのお香を楽天で注文して、今もそれを焚きながら書いているところです)

そこから社会人となり、将来的に古里でのゲストハウス開業を夢見るものの、いきなり非観光地での開業は難しいと考え、静岡の富士宮や広島の尾道でのゲストハウスを目指していました。ところが条件面で折り合わず、東日本大震災も重なり、前述したように2011年7月に何のあてもなく北秋田市へ移住することになります。宿屋を始めようにも、引っ越した祖父母の家は、9LDKの広さはあるものの、床が抜け、水道管は破裂し、屋根は雨漏りしている状態。補修費用で無一文となり、宿屋の夢は一旦おあずけとなりました。 

それから6年。2017年10月にゲストハウス構想10年の宿が完成。
ちょうど秋田県から最大500万円の開業支援金が出る事業に採択していただいたことが大きな転機となりました。完成のお披露目(内覧会)は11月に行い(設計デザインをお願いしたコマド意匠設計室の柳原さんに素敵なチラシも作っていただきました。その節は大変お世話になりました!)、2018年1月に本オープンとなりました。ご予約は下記URLからどうぞ!唐突な宣伝!

森吉山麓ゲストハウスORIYAMAKE
https://www.airbnb.jp/rooms/2608196?s=51

宿屋1年目でリスタートの2018年

このゲストハウスを起点として、さらに自分の目指す地域活性化(最適化)を進めて行こうと意気込んでいた2018年。ゲストハウスの外装は深藍色。入ってすぐ囲炉裏と熊の敷物がお出迎え。縁側は従来のガラスサッシを取り払い、突き上げ式の扉になっています。親戚の叔母さんが来た時に「新しく直してると思ったら、古くなってドデン(驚愕)した」と言ってくれていたので成功したな(笑)と嬉しくなったものでした。開業のために用意した2000万円をパーッと使い果たし、また無一文からのスタート。

この年は1年間で150人ちょっとの方が泊ってくれました。そのうち外国人が100人強。市内に宿泊する年間の外国人の数が400人台の時代でしたので、約4分の1の外国人がウチに宿泊するという極端な偏りがあった年でした。

ゲストハウスを開業してから、あんまりイベント事をやらないようになってきたと思います。それまでは、多い時には毎月1度のイベントを半年以上連続で行っていたのですが、イベントというのは関係性を構築する機会にはなっても、継続的な地域活性に結びつけるのはかなり難易度が高いぞと気が付いたからでした。今になって振り返ってみると、イベント運営をしながらも、その間にDVDを3枚リリースさせていただいたり、ダムの関連施設で喫茶店をオープンさせたり、オリジナルメニューを開発したり、打ち上げ花火的なものよりも、苗木を育てるような活動に変化させてきたのかもしれません。

外国人のお客様から外国人との付き合い方を学ぶ2019年

外国人とのコミュニケーションは英語でなければならないのか。宿屋をはじめた当初から色々な人に聞かれてきた質問です。実際に宿屋をやってみて感じたことなのですが、端的に言うと英語をそんなに勉強しなくても、日本語で十分なのではないかという話になります。でもこれは決して英語を勉強すること自体を否定しているわけではないのでその点はご了承ください。

まずはじめに私の英語レベルからお話ししますと、壊滅的に話すことができません。それには悲しい話がありまして、高校の時の英語の担任の先生のことを嫌いだと思い込んでしまい、英語の授業をほとんどをサボっていた時がありました。そのため、私の英語のレベルは中学生で止まっています。よく、ゲストハウスをやると言うと英語がペラペラに話せるんじゃないかと誤解されることがありますが、決してそんなことはありません。奥さんが語学留学をしていたことがあるので、いざとなれば任せればいいやという慢心もありますが、外国の方と接するたびにいつもヒヤヒヤしています。

そんな私ですが、宿泊してくれるゲストと接しているうちに感じたことがありました。それは外国のお客様はとてもよく日本を理解したがっているということです。考えてみれば当たり前のことですが、せっかく日本という東洋の島国に来たのですから、全て英語で表記されていて、自分たちの母国語または第2言語がペラペラに通じてしまうというのは、なんとなく面白いものではないのかもしれません。

特に私のゲストハウスは、築70年の古民家を改装しているので何でもかんでも英語で表記しているというのは、雰囲気も壊れてしまうと思っています。時々、拙い英語でコミュニケーションをしている時でも「これは日本では何という意味ですか?」、「これは日本語で何というのですか?」ということをよく聞かれます。彼らは日本を知りたがっているのです。もちろんその時に難しい日本語、専門用語を話しても伝わらないので、小学生に話すような簡単な日本語で伝えると、とてもよく理解してくれています。

いざとなればスマートフォンの翻訳アプリで会話をすることも出来ますし、私の中学生英語でも、単語の羅列だけでも、この北秋田の端っこまでたどり着くことのできる外国の方は、理解する能力を持っていらっしゃるので、安心してコミュニケーションをすることができています。これはとても幸せなことで海外からの旅行者と話すことのできる「やさしいにほんご」の重要性は高いですが、それに甘えることなく自分自身ももっと英語を勉強したいと思っていますし、英語以外でも地域の文化や、日本そのものをもっと理解していただけるような努力もしていかなければならないと思っているところです。お客さんから言われたひとこと「君もハワイに来て、日本語で会話ができてしまったら少しつまらないだろう?」

うちの宿はお客様から教えてもらったものが全てで、お客様が宝物だと思った2019年。1万円売り上げをいただいたら、その1万円で新しい枕を買ったり、ストーブの数を増やしたり、徐々にバージョンアップさせていきました。お客様の声を反映させていけば、勝手に宿は良くなる説を提唱。

COVID-19の中で もがき続けた2020年

ようやく宿屋事業が軌道に乗り始めた2020年初頭。2021年現在も続いている暗黒時代の襲来です。外国人観光客は激減してしまったものの、コロナ禍をきっかけとして新しい事業、新しい仲間に出会えたのも運命の巡りあわせ。この年の出来事は別のnoteにまとめてあります。

忘れられない2021年

さて、ここからは(ここからも)備忘録。

移住してから10年。コロナ禍の2年目。宿屋の4年目。狩猟者の7年目。

今年4月に実父が66歳で亡くなり、6月には母方の祖母が96歳で亡くなりました。まだまだ、父親やおばあちゃんには教えてもらいたいことが沢山ありましたが、それらは残された自分への宿題として背負っていかなければなりません。今まで家の周りの草刈りだったり、冬囲いだったり、任せっきりだったところもやっていかなくては。父は宿に泊まりに来たお客さんと一緒に話しながらお酒を飲むことが大好きでした。ずっと居座るので迷惑に思っていたのですが、死んでしまうと、これからもっともっとこの地域を輝かせて、もっともっと地域の人やお客さんに喜んでもらうところを見せたかったのに見せることができないのが残念で仕方ありません。喉のガンで、発見が遅かったため、闘病は3か月ほど。あっという間でした。慌てて所有している山の場所を確認したり、畑のことを聞いたり。もっとしっかり話を聞いておけば良かったという後悔がずっと残っています。

自分は6月で38歳。あっという間の10年間でした。そろそろ、東京に住んでいた時に働いていた会社(SODアートワークス)の人たちにも会いたくなってきた頃です。いまだに連絡を取り合っている人もいますが、音信不通になってしまった人もいます。そんな人でも、いつか宿にフラッと来てくれたらいいなぁと思って、今日も床を拭いて、窓を開けて換気をしています。

ここで根を張って暮らしていく中で、振り返ってみると色々な方にご迷惑をかけてきたなと思います。移住した当初は、まず自分の居場所をつくりたかったのと、都会の目になっていたので、SNSで色々と生意気なことを書き散らかしていたのを反省しています。今でも市政や観光政策について、間違っていることは間違っていると思いますが、様々な事情があってそうなっているのだなということを学んできたので、文句にはせず「じゃあ自分で出来ることは何か?」を考えて、少しずつ少しずつ自分でやることにしています。

例えば、私が大切にしている考え方のひとつに、自分自身を含めて「住んでいる地域がこれから成長するために必要なものは全て持っている。既に揃っているのだ」という考え方があります。

ご先祖様から先祖代々引き継いで来たものがあるはず。大地から引き継いでいる大切なものがあるはず。

まずは足元をしっかりと確かめて、真っ直ぐな目で自分たちが今握っているものは何かを見つめていきたいのです。そして、それらを組み合わせ、未来へ繋いでいければ良いのではないでしょうか。

遠くからやってきた人が陥りがちな「地域に足りないものは何か」という思考では、永遠に足りないままだと思います。実はもう飽和しきっている状態なのではないか、とも思うのです。宝物に埋もれて溺れて窒息寸前。何も足さなくても、よくよく見てみると余りものがいっぱいです。自分が新しいことだと思って発言してみても、実はそれはずーっと前から言われてきたことだったり、みんな気が付いているけど面倒で後回しにされていることだったり。いい気になって発言していたことを思い出しては赤面しておりますが、これからは今あるものを紡ぎ合わせていくフェーズだと思って、精一杯がんばっていきたいと思います。

これからの計画を少しだけ

ここらへんで一度、やりたいこと、やれることを整理して、振り返るためのセーブポイントを作っておきたいなと思い、キーボードを叩いてきました。もうすぐこのテキストも終わります。色々な人と夢を語り合い、沢山のやりたいことが山積みになったままですが、人生の残り時間を考えて、絞っていかなければならない時期だと思います。

まず地域固有の文化を伝えるための【ゲストハウス】を中心として、日帰りにも対応をする【森吉山こども自然塾】を軌道に乗せることが第一です。これを主と副と考えてまずは引き続きやっていきます。

何をどう頑張るのかというと、手をかけない安宿を維持しながら、各種体験をセットにした富裕層ターゲットの少人数高単価な宿へのシフトチェンジを仕掛けていきます。

夫婦が運営する宿で、毎日お客さんを相手にしていると、やっぱり疲れます。それに自然の恵みを使わせていただいているので、人が多いとそれに比例してダメージも大きくなっていきます。それを回避するためにも、人は少なく、もらうお金は多くしていく必要があるのです。

その次に私たちと同じような小規模な宿屋を、この地域全体に増やしていきたいなと思ってきたのが最近です。「小粒でキラリと光る」そんな個人経営の民泊、農泊が増えてくると、もっと訪れた人が楽しめるなぁと思うのです。私はマタギ文化に興味があったので、マタギ文化を伝える宿屋ですが、薬膳に興味がある人は薬膳を伝える宿屋。秋田内陸線(ローカル鉄道)が好きな人は内陸線の魅力を伝える宿屋ができると思います。まずは、私自身が夫婦ふたりで経営できる宿屋の規模や、軌道への乗せ方などのノウハウを溜めて、それらを公開できるようになったら、今度はどんどん開業を支援する側に回りたいと思っています。それが野望のひとつ目です。この地域で生きていきたいという若者と一緒に、各宿が連携し合って分館のようにお客さんを泊める場所を増やしていければ最高ですね。今日はAさんの宿、明日はBさんの宿みたいな感じで、地域全体で1週間ぐらいの長期滞在をしていただけるように持っていきたいと思います。当宿は定員が8名とキャパが少ないこともありますし、今後は宿を選ぶ基準のひとつとして今まで以上に宿主の個性、どんな人が運営しているかという部分が大きくなってくると考えているので、様々な個性の宿主がそろってきたら楽しそうだなぁと思っています。

2つ目は狩猟・野生動物との共生に関する分野。この10年のうちにも狩猟者は減少を続け、私の住む根森田集落では自分1人だけになってしまいました。所属する猟友会も、かつては200人近くいたそうですが、今は20人。あっという間に10分の1です。その影響は各所に出ていて、熊の有害駆除でも人が足りません。

山と里との境界がなくなってしまった状態を実感しています。そして、これからはますます、里山の保全者としての猟友会の役割が増してくることと思います。その中で、現在はほぼボランティアで行われている有害駆除にも予算が割かれるようになるはず。(そうでなければ、もう続けられないところまで来ています)猟師が宿をやり、その副収入として市からの委託を受け野生鳥獣の保護および管理を行うこと。この地域の宿の在り方のひとつとして定着させるためのモデルを作りたいです。

そして、駆除された命の再活用も考えていかなくてはいけません。現在、熊皮は誰も欲しがる人がおらず、山に埋められることがほとんどです。各家庭に熊の敷物が5~6枚あり、置き場所に困っている状態。加えて、皮の加工は他県の業者に依頼するためナメシ加工だけでも6~7万円。そうすると販売価格は10万円前後となるため買い手がつかない状態となります。これは勿体ないと思い、熊皮を譲っていただいていますが、皮なめしを教わる人がいないため、ネットと睨めっこをしながら試行錯誤中です。これは、熊の敷物という現代的価値観から外れてしまったものを、例えば熊皮のiPhoneケースに仕立て上げる等、今の人が手に取りやすい形に変えていきたいと思っています。その際にも、皮と肉とをバラバラにしてしまうのではなく、皮革製品と同一個体の肉を食すという体験を行いたいと思っていますが、それはまだ先の話になると思います。

あとは、マタギのお父さんたちは自分の道具は自分で作っているので、独特な形状のものが数多くあります。そこの部分「マタギの知恵」から古くて新しいアウトドア用品が生まれそうな気もしているのですが、それは未知数です。

3つ目は耕作放棄地を活用した山野草の栽培です。山野草栽培は、休耕田を活用したり宿主の収益強化を目的とした取り組みです。一般的な野菜ではなく、少し特徴のあるもの、例えば行者ニンニクやヤマユリ等の山野草をメインに考えています。なぜ山野草かと言えば、普通の作物では手間がかかりすぎるというのも大きな理由のひとつです。宿をやったり、狩猟をやったり様々な活動をしていく中で、ある程度ほったらかしでも育ってくれる作物でなければ成り立たないと考えています。育った山野草は、ゲストハウスに宿泊した人が刈り取り夕食に召し上がっていただきたいですし、直売所での販売も視野に入れています。まずは、データ収集・栽培法の確立を目指します。

4つ目は森吉山をぐるっと1周するトレランコースを開発して、年に1回のレース「奥秋田マタギトレイル森吉山」を開催することが大きな目標です。マタギ文化を育んだ森吉山には素晴らしいコースがい~っぱいありますが、一般の方が歩くコースは極端に限られていて、とてももったいないなと感じていました。それらの各コースを全部つないでみたら総長で約40キロほどになり、実際に自分で歩いてみたら思いのほか達成感があって楽しかったので、これはいけるんじゃないかと密かに企んでいるものです。しかしながら、山のエキスパートやトレランの大会関係者の方に相談していると、越えなくてはならないハードルがめちゃめちゃあるので、これはもう少し後、これから先10年を見据えながら進めていくものかもしれません。

以上、長々と移住してから10年間とこれからについて書かせていただきました。とりとめのないことを、だらだらと書いてしまい恐縮です。

あっという間の10年間。これからの10年もあっという間に過ぎてしまうと思いますので、ビス止めしておきました。

乱文乱筆を読んでいただいた皆様に感謝いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。

森吉山麓ゲストハウスORIYAMAKE
織山英行 拝

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