生きづらさの中から見つけたこと

わたしが糸島半島で暮らすことを決めたのは、1999年、25歳のとき。沖縄や熊本の阿蘇などの選択肢もあったけれど、夫の仕事の関係で通勤圏内であったこと、海や山に囲まれていたこと、知人がひとりいたこともあり、糸島半島に決めた。物件はわたしのアンテナが強烈に反応し、その場で即決した。

それまでのわたしは、幼い頃から何かは分からないけれど、何かが「みんなと違う」と感じていた。例えば授業中に手をあげて間違った答えを言うと、なぜみんながクスクス笑うのかとか、なぜ女子は一緒にトイレに行くのだとか、日常の些細なひとつひとつに何かが自分と違うと気づきはじめていた。


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とりわけ、何の役にも立たないであろうアリの巣やセミの孵化の観察、祖父母が暮らす四国の森を散策する時間。好きな本を1日中読む時間。誰にも邪魔されない自分自身の時間がとても大切な子どもだった。

そんな日々のちいさな違和感を両親に伝えると笑って「そのままでいい」「変わらなくていい」と言われ続け、学期末の通知表に何を書かれようが両家とも祖父母や親戚、まわりの大人たちも逆にそれを面白がっていたので、そんなものかと子ども時代は過ぎていった。

しかし、社会に出ると様相は変わる。わたしの協調性の無さや個性と思われていたあらゆるものは欠点として評価された。わたしは20歳で入籍したこともあり、帰宅すれば山のような家事が待っているので、効率良く仕事を済ませ定時に退社する。成績も社内で常に2位だったが、許されなかった。理由は「みんな残業しているでしょう?」と理不尽以外の何ものでもないものだった。残業をしている同僚は楽しそうにお菓子を食べたり、おしゃべりしていたのにだ。しかし彼らに罪はない。そんな体制を当たり前だと長年続けている会社に問題があったと思った。

その他にも社内外、プライベートにおいても、その時の世の中のスタンダードだと言われてきた物事にわたしの違和感は日に日に大きくなっていく。そして、その後1年間体調を崩す。

この起き上がることすら出来なかった1年間がその後、この今の糸島での暮らしに繋がっていく。あの1年間がなければ、なんとか頑張ることが出来ていたら、今、糸島にはいなかったかも知れない。

その時心に決めたのは、

わたしは世の中のスタンダードには合わない。だったら、自分でつくるしかない。


ということだった。それは口で言うほど容易いものではなかったけれど【自分でつくる】=【自分の人生の舵をとる】ことで、生きている実感がものすごく湧いたし、物事がスムースにタイミング良く進んでいく感があった。その感覚は今でも大切にしていることのひとつだ。





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