古今亭文菊 稽古屋・鰻の幇間・お直し

喉が渇けば水が飲みたくなるように、
心がちょっと疲れたら落語を見に行きたくなる

 僕は失った。落語を見る動機や、落語を見て感想を書く動機や、寄席にいてぼんやりする動機を。この2年ですっかり、僕の中からそれらは失われてしまった。
 けれど、心のどこかでは落語に触れていたいという気持ちが常にあった。落語に触れることを止めてしまうと、何か自分にとって大切な『流れ』のようなものが消えてしまうような気がした。
 それは、登山道でたまたま見つけた河に似ている。長く険しい道を進みながら、陽の光を浴びながら細々と下流へ向かって流れている河。こんな場所に、どこからともなく流れている河があることを知った喜びを噛み締める。その河を眺めながら、果たしてこの河の源流はどこにあるのだろうかと気になり、恐る恐る足を踏み出して山を登る。その山登りの途中で、またさらに河を見つけ、次第に河は太くなり、輝きを増し、時に急流となって、時に穏やかな流れとなって、様々に姿を変えて行く。
 その様子に心を奪われていたはずなのに、いつの間にか僕は足を滑らせたのか、それとも、また別の河を発見してそちらに気を取られてしまったのか。しばらくの間、人生という山で見つけた落語という河から僕は離れていた。時折は視界に入れて、その河の流れの音を耳にしていながら、前のように河の美しさにじっと目を凝らすことはなくなっていた。
 
 それでも、2022年7月1日。僕はまた、落語という河の、そのとびきり美しい流れに、じっと目を凝らすことになった。目を向けざるを得ないほど眩しい輝きを放つ落語家の、大事な興行が鈴本演芸場で行われているからだ。

 その落語家の名は、古今亭文菊という。

 誰が何と言おうと、私にとっては『古今亭文菊』以外に、『落語』という河の輝き、その美しさを感じさせてくれる落語家は他にいない。それほどに、私にとって『古今亭文菊』という落語家は、大切な、とても大切な落語家なのだ。
 どれだけ時代が過ぎても、どれだけ世界が変わっても、私にとって古今亭文菊の素晴らしさは1ミクロンも欠けることはない。いつ、どんな時に古今亭文菊を見ても満足できる。それは、大樹のように地に根を張り、決して折れることも、朽ちることもない。

 そんな古今亭文菊の『稽古屋』、『鰻の幇間』、『お直し』を見た。落語の世界に誘われたと言ってもいい。文菊の語りを耳にすれば、そして、彼の所作を目にすれば、そこに立ち上がってくる風景の美しさ、落語の世界の情景というものに、容易くその身を委ねることができる。
 一つ一つの演目の素晴らしさを語るよりも、私は古今亭文菊という落語家に触れてほしいという気持ちの方が強い。そうして、見た者の心に沸き起こってくる言葉こそ、何物にも代えがたい輝きを放つと信じているからだ。
 
 世界は、目まぐるしく変化している。

 ある者とある者は互いに争い合い、
 ある者とある者は互いに秘密を暴き露呈させ、
 ある者とある者は従わされ、無理を強いられ、
 ある者とある者は互いに嫌い合い、
 ある者とある者は互いに深く繋がりあう。

 誰もが理想の世界を思い描きながらも、そうはならない。
 時間がどれだけ過ぎようとも、理想に近づいているようで、離れているようにも思える。
 それでも、僕はただ、静かに座して高座に目を向けて、
 ただ自分の心から沸き起こってくる言葉だけを信じたい。
 その言葉によって、様々な人と繋がっていくことができた。
 だから、今の僕にできることは、
 その繋がりをもっと深めて、落語の世界に身を浸しながら、
 幸福な時間を過ごすだけである。
 雑音に惑わされることはない。
 静かに、穏やかに、ぼんやりと考えるだけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?