【5分小説】最期の詩【純文学】
<あらすじ>
死の床を迎えた老人が、ひとひらの詩を思いつく。しかし彼には、もう筆を執る力がなかった。
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ほんものの詩が、言葉が、今、ひらいたのだ。
ああ、このひとひらの言葉が生まれる瞬間を、生涯、どれほど待ちわびていたことか。
それはまるで、花のつぼみが、血色の花弁をひらくように。そしてその内側から、あたたかな薫香を立ち昇らせるように。
死の床で、彼は目をひらいた。その息づかいは、彼のいのちよりも一足早く、口元で冷たい空気の対流をなしていた。その息が、さざなみのように震えだした。己の内にひらいたことのはの薫りを確かめるために。
乾いた喉は、声の出し方を忘れていた。それでも彼は、喉と舌を上下させ、ひらめいた詩を忘れまいと、声なき声でその響きをあたため続ける。
雪の降りしきる夜だった。夜のなかを雪片が舞っているのか、雪のなかを夜の薄片が舞っているのか、分からなくなるほどの雪であった。医者と、彼の親族とが、彼の床を囲んでいた。
彼の右手が、白い布団のしわをよじらせた。その指が空をさぐり、欠けた体の一部を、すなわち生涯を共にした一本の万年筆を求めた。
詩聖とよばれたこともあった。これまで、どれほど言葉を書き連ねてきただろう。それらは幾度も紙に刷られ、しかし誰の心にも刷られることはなかった。一語一句が金銭になった。己の本が卑しい札束に見えた。それが生業だった。家族を養うため、日々の食い扶持を支えるため、言葉の泉が尽きた時は、己の血肉そのものをえぐり出した。人々はそれも嬉々としてむさぼった。言葉の実質がどうあれ、彼が書いた文章さえ舐めていれば、教養人を名乗れる風潮があった。
しかし、このひとひらは違う。これは苦しみから生まれた詩ではない。これは、これだけは、凪いだ死の床でとらえた、唯一の、たましいを満たす詩だった。
「おじいさま」
枯れ枝のような彼の指が触れたのは、孫娘の手のひらだった。
違う。彼の叫びは喉仏をわななかせたが、その声はもう、誰にも届かなかった。おれがほしいのは、あの万年筆だ。
真っ白い死が降りしきる。彼のいのちに死が舞っているのか、死のなかをいのちの薄片が舞っているのか、分からなかった。
見上げていた天井も、彼をのぞきこむ人々の相も、しだいに色をなくして沈んでいく。今、彼のいのちをそこにつなぎ留めているのは、ひとひらの詩と、指先の感覚だけだった。
書き留めなければ、言葉が消えてしまう。この瞬間のためだけに、これを書き残すためだけに生きてきたのだと、彼は信じていた。そのかたい意志が、いのちの手綱のごとき彼女の手のひらを、一層強く握らせた。いまわと思えぬ力強さに、少女は思わず手を引こうとする。彼は離さなかった。張りのある皮膚の向こうに、あつい血潮を、生命の色を感じた。
書き留めるのだ。彼は朦朧とした意識のなかで、万年筆を取る。ペン先から血色のインクが滴っていた。そうしてすべり出した筆跡が、まぶたの裏の静脈と同じ模様をなぞっていたことに気付かないまま、彼はこときれた。
*
彼の遺体は火葬場に運ばれた。冷えた心臓にひとひらの詩を宿したまま、使い古された肉体は炎で焼かれ、その煙は白とも黒ともつかぬ冬空に混ざっていった。
その煙の粒は、やがて山肌から立ち上った雨雲の一部となり、雫となって地上にこぼれた。
空を見上げていた少年がいた。居場所を失い、未来を失い、途方に暮れていた彼の頬でその雨粒が砕けた時、彼は息をのまずにはいられなかった。
かつて詩人が宿したひとひらの詩が、言葉を越えて、彼の心に染み入っていく。