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見えているようで見えない私たち

自己実現のために、生活習慣から変えていこうと言われる。

素敵な人生を歩んでくために、ロールモデルを見つけようと言われる。

他者を介してアイデンティティは形成され、変容していくと言われる。

自己肯定感を高めるために、自分の感情を認めてみようと言われる。


そう思って、尊敬する友人や憧れの大人、そんな人たちの言動や立ち振る舞い、思考の方法を観察し、自分に取り込もうと試みる。

”なりたい自分”になるために、相手の期待に答えたり、慰め役になってみたり、少しボケてみたり、思いっきり楽しんでみたり、真面目になってみたり、息抜きをしてみたり。
自分を自分でコントロールする。

別に嫌じゃないんだ。むしろわくわくするときもある。
ああ、自分、変わっている。きっと前より素敵になっている、
うまくいっている、って。

でも、ふとした瞬間、頭の片隅が黒ずんできて、
慌てて覆い隠そうとするけど、食い止められなくて、
どんどん黒ずみが心臓の方にまで広がってきて、
足にまで到達してしまう。

自分を傷つけてしまいたい。
そう感じてくる。

何を見て、何に反応し、何に嬉しく感じ、何に悲しみ、何に怒りを覚え、何に感動するか。
それまでも評価され、コントロールされているよう。

自分でコントロールしていたはずなのに。


人と人とのやりとりが容易にとれるようになって、
身近な友人も、憧れの遠いあの人も
どんなスケジュールで過ごし、どんなことを考え、どんなものを見て、どんなところに住み、何を着て、何を食べ、人生のどこでつまづき、人生のどこで大成したか、
簡単にわかる。

いや、わかるんじゃない、見えるんだ。

”SNSはキラキラした部分だけ載せているから見ると疲れる”
というけれど、別に全部がそうじゃない。
悲しいことや、怒ったこと、もやもや考えていること、ただの嘆き、宣伝。
そんなことも発信しているから、キラキラSNSが疲れるわけではないんだと思う。
ただ、部分だけが見えすぎて。
部分の組み合わせだけで実像を作り出して。
って、そんなことはわかっているけど、虚像だという確信も持てなくて、
ただただしんどくなる。

そして、自分自身のこともまた、
ただ、部分だけしか見えなくて。
部分の組み合わせだけで実像を作り出して。

って、そんなことはわかっているけど、虚像だという確信も持てなくて、
ただただしんどくなる。


私はどこにいるの?
あなたはどこにいるの?

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