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【小短編】今からアマゾン行ってきます

 朝起きて会社に行き仕事をして帰って眠り、他人に見劣りしないように、暮らす。冬には春を待ち侘び、就活地獄では内定、新入社員では定年に憧れる。
 いつもご褒美のニンジンは未来に先送りされていて、ようやく達成して食べても、またすぐに次が吊るされる。
 旅行やら趣味やら結婚やら、年相応のライフイベントをこなして、カレンダーにバツをつけていくうちに、年齢が増えていく。

 この早送りの空想ムービー以上のホラーを、俺は今のところ観たことがない。けれども、これが常識で、妥当で、俺の人生の義務だと親戚中が口を揃える。「良かったじゃない、あんな一円にもならない大学?に行って、正社員になれたんだから、あんた、ラッキーよぉ。」

 大学の頃は、昆虫学を専攻していた。コンビニと居酒屋と引越屋のバイトを掛け持ちして、南米と研究室を往復しては、蝶の研究に没頭した。ボリビア、ペルー、エクアドル。南米のフィールドワークに行くたびに、同業の友人や師匠が増えた。生態系やバイオの研究テーマをお互い学術用語を頼りに粗末な英語で朝まで語り明かし、アマゾン川で涼を求めて泳ぎ、アンデス山脈で熱いコーヒーを汲み交わし、教養教育がモットーの教授の炉端では、自国の詩を朗読しあった。熱帯で蝶を追う生活は、地球の生命の渦の真ん中で、人種も国境も文化も混交して、豊潤そのものだった。

 そういう暮らしの中、父母が交通事故で死んだ。

 慌てて帰国すると、見慣れた我が家には叔母が居て、家や車、教育ローンなどの我が家の「浪費」を整理していた。
 「いらっしゃい。」と言われて、反射的に「お邪魔します。」と言って跨いだ実家の敷居の立体感は、今も生々しい。
 昆虫学者になるまでのコストと、なったあとの収支計算を示され、諭され、嘲笑を浴び、以後、経済効率を最優先するように指示された。
 実家売却の日、ゴミ袋に入れられて渡された、父が飾ってくれていた子供の頃からの昆虫の標本箱の数々。

 あの踏み絵を俺は一生忘れないだろう。かくして合理的選択により、賢く就職した俺は、毎日、砂を噛むように暮らしている。

 待ちに待つのは昼休み。いそいそと会社の屋上に出て、本日二回目の空を拝む。一回目の空は満員電車の人熱れの隙間から。
 煙草の代わりに夏の空の青を、肺に深く吸う。 
 薄曇りだが、昔観た映画のように、スーツを着た天使たちは、厳かに、植物のように顔を太陽に向けて、寸暇を惜しんで光を浴びている。

 そのうちの一つである俺の顔に、不意に人の影が差した。
 眼を開けると、同じ課の先輩が、缶コーヒーを振っていた。笑顔で会釈をして、腹の中では、昼休みくらい一人にさせてくれと思う。
 案の定、先輩は隣に座った。
「コーヒー、コンビニのクジで当たったんだ。あげるよ。いつも飲んでるよね、コーヒー。」
「あ、どうも。有難うございます。」
 先輩は近所の店で買ってきたという総菜パン片手に、どうでもいい世間話を、呑気な調子で話し始めた。
「ここらのパン屋だとあの店が一番旨いなって俺は思ってて。」
「へぇ、そすか。」
早めに飯を食べて、音楽でも聴きに席に戻ろう。諦観の念でサンドイッチのフィルムを割いたときだった。

「うわ、おぉ、まじか、ルリウラナミシジミ!」
 先輩が突然、耳元で素っ頓狂な声を上げた。
 その単語の一音一音が、耳の粘膜の柔らかいところから、体中を撃った。
 中空を見上げた先輩の、視線を辿って、捉えた。

 鮮やかな青い蝶。ビロードの黒。翅のふちの曲線。羽搏き。翅が受ける風。

「本当だ。ルリウラナミシジミ…。」
 舌先に、その音を載せた、その瞬間、五歳の俺が夕陽が暮れたのにも気づかずに眺めた図鑑の感触と、二十歳の誕生日の朝の熱帯雨林の濃厚な霧と土の匂いが、一緒になって、足元からぶわっと立ち上がった。
 興奮した俺の顔を見て、先輩が笑う。
「知ってる?!嬉しいねぇ。俺も大好きなのよ、蝶々。」
 蝶々。
 一銭の得にもならない蝶々。

 でも、やらないで一生後悔するより、ずっといい。
 俺の人生を、俺だけは見捨てない。
 ぐっと拳を握りしめて、答える。
「はい・・・。俺も、人生賭けるくらい、大好きです。」
 先輩が笑っている。この人は、始終仏頂面の俺にコーヒーをわざわざ届けてくれるほどの菩薩なのだと、今更、気付く。

 ずっとずっと南国に住む青い蝶が、東京の空を飛んでいる奇跡を、奇跡と分かる人間が、二人も目撃した。
 人生は、何が起こるか分からないと言う。
 そうは言っても、何となく読めると思っていた。
 でも、本当に、分からないのかもしれない。

 だとしたら、それは、途方もない自由じゃないか。

 髪にべっとりと付着して乾いた綿飴のような叔母の呪詛が、少し剥がれて、空に溶けて流れ出るような気がした。

 蝶の羽搏きで、竜巻が起こるのだ。
 原因と結果を、単純に結ぶことなんて出来ない。
 目が覚めるような蝶の青は、世界のどこで見ても、相変わらず美しかった。
「先輩・・・。」
「うん?いーもん、みたなよぁ。」
「先輩・・・、俺、昆虫学者になるので、ちょっと、今からアマゾン行ってきます。」(終)

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。