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「なんで家族を続けるの?」内田也哉子 中野信子 対談集〜家族、夫婦、春馬くんのこと

だいぶ前に電子書籍で購入したままになっていた、内田也哉子さんと脳科学者の中野信子さんの対談集『なんで家族を続けるの?』をやっと読み終えた。
電子書籍でも積読つんどくってしちゃうもんですね…買ったのに読んでない本がいっぱい。嵩張らないぶん余計にそうなるのかもしれない。
私は樹木希林さんのファンで、娘である也哉子さんも常々気になる人であったが、この本のタイトルとリード 「私たちは“普通じゃない家族”の子だった——」という一文を読んだだけで、これは自分が読まなければならない本のような気がした。
ここでは私の家族については割愛するので、ご興味のある方は過去記事を読んでいただきたい。


私も一般的に"普通"と認知されている家庭では育っていないので、この対談集では也哉子さんの葛藤に共感しつつ、中野さんの解釈に也哉子さん同様慰められた。
也哉子さんについては、あの樹木希林さんと内田裕也さんという壮絶な二人を両親に持ちながら、常識的で落ち着いた文才のある方という印象を持っていた。この対談をした理由の一つに也哉子さんは次のように書かれていた。

私たちをひとつの「標本」、「世界の数十億家族分の一」として、例えば、脳科学という道を通し、客観的に分析して頂くことで、何か思いがけない気づきを得たり、長らく抱えてきたもどかしさを消化できるかもしれない。

「なんで家族を続けるの?」

家族のかたちと子育て

人間界だと、やたらと「変わった形態のお父さん、お母さん」というふうに言われるんだけれど、とご両親について言う也哉子さんに中野さんは、アホウドリのカップルの三分の一はレズビアンで子孫を残すためにオスと浮気するが子育てはメス二羽でする、別にオスとメスで育てなくてもいいという例をだし、樹木希林さんと内田裕也さんの結婚生活のほとんどは別居婚だったが、生物界から見ると意外とノーマルと語っていた。
また親子について「血縁」と「生まれたときからずっと共有してきた時間」については、育ててもらったお母さんの影響が大きい、というラットの実験結果を出していた。
そして、知性は母から情動は父から受け継ぐ、という興味深い話もされていて、也哉子さんは穏やかなように見えて実は、内に裕也さんのような激しさを秘めていることを自ら認めていた。
そう言われてしまうと、認めたくはないが私も確かに、自分も父のようにいつか家庭を自らぶち壊してしまう行動に出るんじゃないか…という怖れのような気持ちが昔からあり、しかし親のようになりたくない…という一心で踏みとどまっているような部分もあるのだった。

他にも、人間の脳が子育てに適した状態になるのは40代ぐらいというデータもあるそうだが、私はまさに40代で出産し子育てが始まったが自分の未熟さを未だに日々痛感している。個人差もあるだろうが私の脳は40代でもまだ適した状態になっていなかった気がするし、自分は結婚したり親になるのはやはり向いていないのでは…という思いも未だに拭えない。
しかし生まれてきた息子を今更お腹に戻すことも出来ないわけで、このまま成人するまで育ててゆくのは最低限の親の義務だとも思っている。

夫婦のかたち

人間はやっちゃいけないと言われたり思っていると逆にそちらに進んでしまう、自分はお父さんみたいな人とは結婚しないようにしよう、と思っているとそういう人と結婚しちゃったりすることもある、という話は私も以前からきいたことがあった。
也哉子さんにとって裕也さんはミステリーな存在過ぎて、こういう人と結婚しないようにしようと思うほど父を知らなかったために、真逆の本木さんのような人と結婚できたと語っていた。
それは私も似た感じかもしれない。父は今もよく分からない理解できない人であり、夫はまったく違うタイプだ。
也哉子さんはダンナさんと常に共感することに憧れを持っていたが、本木さんは違うから面白い、という考えだそうで、なるほどなぁと思った。
うちも也哉子さん夫婦のように性格も正反対で、趣味も生まれ育った国さえも何もかもが違い、それが原因で小競り合いが絶えないのだけど、お互い違いを認め合い楽しめるようになったら、もっとラクになれるのかもしれない。
しかし中野さんも也哉子さんも、"会話のない親"より"ケンカの絶えない親"の方を選ぶということで一致していた 苦笑。ケンカが絶えないのは、それほどお互いをほっておけない存在なのかな、と也哉子さんが言っていたが、うーむ…そうなんだろうか。
"ケンカするということはまだ相手に期待しているということ、期待しなくなったらケンカも会話もなくなる"というようなことを、離婚した何人かの友人知人も語っていたが…。
也哉子さんの、惰性で今も夫婦でいるのかもしれない、という発言にはちょっと驚いたが、中野さんは「惰性で続いている」というのは収まるべきかたちに収まったということ、と肯定していた。
そうなんですか?これでいいんですか?と自分にも当て嵌めちょっと安心した 笑。
中野さんの "水を流すと留まるべきところに留まる、自分の意思で水を止めたり、無理のあるところに留めようとしたりしても、あまりいい事が起きないような気がする"という言葉には何か納得するものがあった。

こちらの対談は一部オンラインでも読むことが出来ます。


人恋しいのに少し遠くにいてほしい

也哉子さんから中野さんへの質問で、人恋しくて、でも、いざ人と会うと、会った後からドッと疲労感が襲ってくるので、自分から気楽に友達を誘うことができない。家の一階に例えば家族とか、心を許せる誰かがいて、私はその誰かの気配だけ感じながらひとりで二階にいるーーこれこそが最高のシチュエーションに思える、という話には共感しかない。まさに私もそういうのが一番安心できるタイプだ。
夫の実家に帰省した時などは上記のことを実践している。
夫家族と24時間何日も一緒は疲れるので、適当な所で輪から抜けて私は二階で本を読んだりSNSを見たり一人で好きなことをして、義両親と夫と息子は1階でテレビを見たりゲームをして過ごす。食事時になると義母が、ご飯よ〜と下から呼ぶので階段を降りて皆と一緒に食事する。帰省時に夫や義母に何か家の事を手伝うように言われたことはなく、私も最初の頃は少しは気が咎めたので、何か手伝おうか?と聞いたこともあったが、いいからいいからと言われ、まるで引き篭もりのようなこの状態を何も言わず放っておいてくれる義両親には感謝している。
この国では、嫁だから〜しなければならないという考えはないので、帰省も夫婦それぞれが自分の実家に帰るという人もいたり、縛りがないのはありがたいことだと思う。
中野さんは、"ひとりの空間を確保したい、けれど孤独は嫌だ"というダブルバインドは実はヒトの特徴でもある、と言っていた。
ストレスをどういった面で感じるかは、幸せホルモンとして馴染みのあるオキシトンの受容体の脳内密度によって決まり、満一歳児で実験したところ、母親と引き離しても泣かず再会しても無関心で孤独を好む「回避型」、母親と離されると泣き再会するとホッとして抱きつく「安定型」、再会してもなお激しく泣く孤独であることにとてもストレスを感じる「不安型」、「回避型」と「不安型」を行ったり来たりする「混乱型」などに分かれたそうで、生後6ヶ月〜1歳半までの時期に受容体の数で決まったタイプは生涯90%は変わらないといわれているそうだ。
この中で一番当てはまるタイプを選ぶとすると私は「回避型」なのだと思う。今この記事を読まれている方は、自分をどのタイプと思っただろうか?

春馬くんのこと

この対談は2020年というパンデミックが始まった年に何回か行われており、春馬くんが亡くなった翌日にも行われていた。
お二人とも春馬くんを悼む想いから、その死について、かなり踏み込んだ部分にも言及しているのだが、やはり今読んでも辛い記述がある事を前提に下記に要約してみた。
以下、読むのが辛そうな人は飛ばしてほしい。

中野さんは、"死を確実に達成するにはいろいろ準備しなければならないから面倒だったはずなのです。強い意思があったのだと思います。" と言っているが、5月末に緊急事態宣言が解除され、またタイトなスケジュールで仕事が戻ってきた最中に、春馬くんは本当にそんな準備をし成し遂げてしまったのだろうか…と、またぐるぐると感情が堂々巡りしてしまった。
脳科学的な視点で、何かわずかでも助ける手はないのかしら?という、也哉子さんの問いかけに中野さんは、残念ながら脳科学は無力でむしろアートのほうに可能性があるかもと前置きしながらも、自死の原理は脳科学で説明出来ると思うとして、

"三浦さんはすごく真面目な人だったのでしょう。すごく真面目な人というのは、一増えるハッピーよりも一増える苦しさのほうがずっと大きく感じる。九十九人が絶賛しても、一人が攻撃してきたとか、皮肉を言ったとか、それだけで大きく感じてしまう、そういうこともあるんですよ。そういうことを知っていてもらうことが、助けになった可能性はあったと思うんです。
「一けなされても九十九褒められているじゃないか」今、苦しんでいる自分は不当に苦しめられ過ぎなんだと、知っていてほしかったと思う"

「なんで家族を続けるの?」

と答えている。
死を疑似体験する方法にも触れており、感受性の強い人だからこそ、その想像力で疑似的に死を体験し生まれ変わってくれるとよかった…という趣旨の対話もあり、涙が出た。
春馬くんが本当は何を思っていたのか、何に苦しんでいたのか、払い除けようとしても払い除けられないような何かが、その身に降りかかっていたのか、というようなことは私たちには分からないし、これからも分かる事はないのだろう。
しかしそれでも、僅かな救い、違う未来がある可能性はなかったのだろうか…という想いは、三回忌を迎えても、この先もずっと消えない。
個人的には春馬くんの死を肯定も否定も出来ないと感じている。
訃報を知ってから今も春馬くんを責める気持ちにはなれない。命を粗末にしてはいけない、その選択は間違っている、などと言えるほど自分は自分の人生や命というものに真摯に向き合ってきたとは言えない。
あれだけいつも前向きに時間を無駄にせず懸命に、命を燃やし生きた春馬くんなのだから…たとえその選択をしたのだとしても、それさえもすべて受け入れてあげたい、愛したい、と思ってしまうのだ。

幸せのカタチを微分で知る

人は自分の幸せを何かと比べないとわからない。「自分の以前の状態と比べる」これがつまり微分ということなのだそうだ。
例えば、生まれた時に100持っていたものがだんだん減少して80歳で0になるAさんと、生まれがマイナス100で少しづつ増えて60歳でプラスになり70歳の手前でAさんを上回りさらに上がり続けるBさん、どちらが幸せなのか?
幸せは目標に向かって上がっているときに感じる。だから出発点がプラスであればあるほど、少しでも下がると辛く思う。そっちの方がハードな人生ではないか、という話はとてもよくわかった。
幸せの絶対量など、どうやっても測れない。脳は変化分・差分を検出するしかない。そう知っていた方がたしかに楽なのだと思う。
そして幸せの頂点では、次は落ちてゆくだけだと不安になる人もいる。私もまさにそのタイプだ。
夫と入籍して一年も経たぬうちに息子も生まれ、ああ、私はついに自分の家族を手に入れた!40過ぎにして自分はなんてラッキーなんだ!幸せだ!
…幸せ過ぎて……怖い…。これ以上に最高なことは、もう私の人生には起こらないだろう…これからは緩やかに落ちて行くだけなのだと、幸せの絶頂のはずなのにちょっと苦しくなったのだ。
也哉子さんのように頂点で素直に「よかった」とそれだけ思える人は、日本人には珍しいタイプらしい。頂点で心配になるのが日本人的で、中野さんはおみじくじを例に出していたが、宝くじで大金を当てると心配になり自分は一生分の運を全て使い果たしてしまったのではないかと恐れる、などもいい例かもしれない。

二○四十年、日本人の半分が結婚を選択しなくなる

中野さんは終わりの章で、日本は少子化が加速しているが、婚姻関係にこだわらないフランスのような仕組みの方が出生率が高く、仕組みとしては成功しているのではないかと書いていたが、私が住む国でも若い世代ほど事実婚の割合が高く20〜30代では半数を超えており、事実婚でもパートナーとして登録すれば法律婚と同等の権利と社会保障を受ける事が出来るため、子供が生まれたとしてもそのまま入籍しないことは珍しくない。そして離婚率も高いのだが再婚率も高くステップファミリーも多い。それは元々人口の少ないこの国の出生率を押し上げることにもなっていると考えられる。ちなみに同性婚も法的に認められていて、養子を迎える事も珍しくはない。
2040年には、日本でもほぼ半数の人が結婚を選択しなくなるという試算があるそうだ。実際に生涯未婚率も上がっているときく。
日本もこれから社会通念がどんどん変わり、様々な形でのパートナーシップを認める多様性のある社会になってゆくのだろうと思う。


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