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母への詫び状

「お母さん、結婚することにした」

ちょっと…またなの?何度したら気が済むわけ?
いちいち籍入れなくたっていいじゃない…。

貪欲どんよくなほど、愛を求め続けたあなた。

母は三回も結婚し、そして三回とも離婚した、リアル ”大豆田とわ子” なのだった。
おかげで私には血の繋がりもなく今では何と呼べばいいのかも分からない、再婚・再々婚相手の連れ子として一時的に兄弟のような関係だった人が何人もいる。
そして父も再婚しているため、そちらにも血縁はないが兄弟というか親族?のような関係の人がいる。大変ややこしい。

母は生涯にどうしてそんなに何度も結婚したのか、それは今も私には理解できるはずもないけれど、でもたぶん、母は寂しかったのだろうと思う。
しかしそんな心の隙間を埋めるための結婚は、やっぱり上手くはいかないものだ。
そして私は、母のそういう情念めいた女の部分を見るのがいとわしかった。

今でこそこんな風に文章に出来るけど、うちはなぜ普通の家じゃないんだろう…と思ってきた。普通というのも何を定義にしているのか曖昧ではあるのだけど。

父は職を転々とし安定しなかった。ヒモではなかったけれど、ちょいヒモくらいな人だった。両親の仲は良くなくて、子供の前で毎日のように喧嘩していた。
働き者で経済観念のしっかりした母がいなければ、我が家は早々に立ち行かなくなっていただろう。
プライドだけは高い父は男のメンツとやらが傷ついたのか、女の人の所に行ったままほぼ家に寄り付かなくなっていった。
子供の頃はお父さんっ子だったから、父が家を出て行ったのは気の強い母のせいだと思っていた。

お母さんの言う通りにしてれば間違いないんだから!と、母は子供をコントロールしようとする過干渉なところがあり、そんな母に私はことごとく反発した。
思春期に入ると母と真正面から衝突することも多くなり、取っ組み合いになって母に突き飛ばされた私が後頭部から窓に突っ込んでガラスが粉々になり(無傷)もう二人ともやめて!やめてえぇーーーっ!と妹が泣き叫んで止める、ザ・積み木くずし的な激しいバトルも繰り広げられていた(でも私は学校では目立たずいい子でした)。

母とはお世辞にも仲の良い母娘とは言えず、18で家を出るまで喧嘩が絶えなかった。同性ということもあり、娘の方が容赦なく母親に手厳しい面もあると思う。
家を出てから、世の中には姉妹の様に仲の良い母娘というのもいるのだと知り驚いたものだ。逆に母親が苦手とか絶縁状態という人も周りには結構いた。

私はすでに小学生の時には、高校を卒業したら絶対にこの家を出る!と決めていた。そのくせ学費はちゃっかり母に出して貰うつもりでいた。「美大なんて行ってどうするの?就職先あるの?」猛反対されたけど、家出して住み込みで新聞配達してでも東京に行く!と脅したり、一年以上もまともに口を聞かず粘る私に、結局、母の方が折れた。
このチャンスを逃したら一生母の側から離れられないかもしれないと私も必死だった。妹には今でも「お姉ちゃんだけ逃げた、ずるい」と言われる。母に逆らいきれなかった妹は家から通える大学へ進学した。
高額な学費を出して貰ったにもかかわらず、未熟で甘ちゃんだった私は大学卒業後なんとか就職出来たデザイン事務所を半年で辞めてしまい、他の会社に転職しても2年ともたなかった。
でも母は何も言わなかった。
私は気まずさと、母の夫と顔を合わせたくないのもあり、いろいろ理由をつけては実家へますます帰省しなくなり足が遠のいていった。
その後フリーター生活の末、当時まだ黎明期だったインターネットの世界を知り、これからはWebだ!と閃いた私は性懲りも無く母にまた、デジタルデザインの学校に行きたいから学費を貸してほしいと頼んだ。不肖の娘にそれでも母は、これが最後だからと言って貸してくれた。

思えば子供の頃から母は、私がやりたいことの大半はやらせてくれてもいた。
歌ったりレコードを聴くのが好きだった私を、情操教育にいいだろうとオルガン教室やピアノを習いに行かせてくれたり、毎日のように絵を描いていた私に、クレヨンや色鉛筆や画用紙だけは欲しいと言えば幾らでも与えてくれた。壁一面に大きな白い紙を貼って好きなだけ描かせてくれたりもした。

母は忙しかったけど、食に関しても手をかけてくれたと思う。夜の仕事をしていた時も必ず夕食を作ってから出勤したし、朝食もお弁当も前夜帰りが遅くても朝起きて作ってくれた。
しかし食品添加物や人工着色料など体に悪いものに煩かった母の方針で、子供の頃は蒸したサツマイモや蒸しパンなどいつの時代だって感じのおやつしか与えられず、外で買い食いしないようにお小遣いも貰えなかった。だから私は面倒見の良さそうな子にくっついて駄菓子屋に行き、可哀想に思った友達のおこぼれにあずかっていた。ヨッちゃんイカや糸引き飴やスモモ漬けなど人工甘味料と着色料いっぱいのお菓子を、隠れてまんまと食べていた。

私は母の言うことに従わず、自分がしたいことは我慢しない我の強い子供であった。母も相当手こずったと思うが、そんな私のことを「三つ子の魂百まで、この子は業が深い」とよく嘆いていた。
母に言われて嫌だった言葉や傷ついた気持ちをふと思い出す時、今でも胸の内にむうっと黒いものが迫り上がって来る。



「あんたは、いつになったら結婚するの。親不孝だと思わないの?」
「孫の顔を見るまで、お母さんは死んでも死に切れない…」
などと、私が30も半ばを過ぎると、母は呪いのような電話を週一でかけて来るようになり鬱陶しかった。よく居留守を使い出なかった。
あれだけ結婚に失敗したのに、どの口が言うか…と私はずっと思っていた。執拗に結婚を勧めるのがとても不思議だった。
母を見ていたら結婚に夢や希望など持てなかったし、適齢期も関係ないし、なんなら一生結婚しなくてもいい、と思っていた。
妹も晩婚だったが、別れた両親とそれぞれの再婚・再々婚相手・連れ子達に苦慮し、結婚式は旦那と二人だけで海外で挙げ、披露宴は本人達には内緒で母と父のために別々に2回も行った。私はそんな面倒な事は御免だったので、式も何もしなかった。

母が入院した時に初めて、当時付き合っていた人(夫)を連れて行った。
母に告知はしなかったが、医者にはもって二年か早くて一年と言われていた。
もっと早く紹介すればよかったと悔やんだが遅かった。
何の前情報もなくいきなり外国人の恋人を連れて行っても、全然母は驚かなくて拍子抜けしたっけ。好きな人の国へ移住するつもりだと言った時、反対されると思ったら、「行きなさい」と言ってくれた。
その時、本当は分かっていたんだよね?もう自分は長くないと。

息子が生まれ、Webカメラの前で対面は出来たけれど、あんなに熱望していた孫をその腕に抱くことは叶わなかった。

お母さん
異国の地で、子供を産み育てる中で
何度、あなたの名を呼んだかしれない
いろんな事を聞きたかった
教えてほしかった


危篤の知らせを受け一時帰国する時、もし持ち直して戻ってからまた危篤になったら、乳飲み子残して国をまたいで行ったり来たりはキツイな…と一瞬思った。実際この帰国を機に息子の母乳育児は断乳になってしまった。
成田空港に到着してすぐ妹から電話があり「さっき、亡くなった」と知らされた。

お母さん
死に目に会えなくて、ごめん
親不孝で、ごめん

普段から健康には人一倍気を使っていたのに、母はまだ60代で逝ってしまった。
母が亡くなった時、遺言書も自分のお墓も全て用意されていた。何でも用意周到に準備しておかないと気が済まない、母らしかった。
それなのに、黒無地の喪服はいくら着物箪笥を探しても見当たらなかった。あんたは喪主だし自分で着付け出来るのにどうして着物を着ないのか、と親戚にも非難がましく言われたが無いものは仕方なかった。
母は私が喪主をやるとは思っていなかったのかもしれない。

葬儀に参列した方から、お母さんは趣味の習い事の会では一人で居る人にいつも声をかけてくれて、気配りのある優しい人だったと聞いて、え?と思った。
ある人には、寂しがり屋で甘えん坊で末っ子気質ねと言われ、私の知らない母の顔があった。

私たち子供から見た母は、我ままな女王様のような面のある人だった。
人は(特に男性は)自分に親切にしてくれるのは当たり前と思っていたふしがあり、晩年、善意で病院の送り迎えを車でしてくれていた友達でも彼氏でもない義弟の父に「疲れた、重いからハンドバック持って!気が利かないわね」とのたまい、後でそれを伝え聞いた嫁の立場である妹は「常識がない!」と憤慨していた。
夫に対して強気で我ままになりがちな私は、自分が母みたいだな…と思うことが間々あり反省したりして、そんなとき母は反面教師だ。

実はこの時の一時帰国には、とんでもないオチが待っていた。
母亡き後、私は妹と出来る限りの手続きを大急ぎで済ませなければならず、悲しんでいる暇もなかった。そして2週間後には夫と息子の待つ居住国へと戻る事になっていた。
しかし当日、空港で搭乗手続きの際に「お客様のパスポートはすでに失効しております」と、衝撃の事実を告げられたのだ。
「ええーっ!どうしても乗れないんですか!?」「ご搭乗いただくわけには参りません。」…絶句。初めての搭乗拒否である。
今だから言えるけど経緯はこうであった。私は居住国で丁度パスポートの更新手続き中だったが、母危篤の知らせを受け慌てて帰国した。そして日本に滞在している間に居住国の大使館で新しいパスポートが発行されたため、日本入国の際に持っていたパスポートは出国しようとした時にはすでに失効扱いになっていたのだ。
オー・マイ・ガッ!
かくして乗るはずだった飛行機は、私一人を残し飛び立った…(号泣)。
しかも間の悪いことに、私の居住国での滞在許可証の期限も迫っており、10日後に移民局で更新手続きの予約をしていたのだ。もし更新出来ずに滞在許可の期限も切れた場合、今度は居住国へも入国出来なくなり、とんぼ返りで強制送還されてしまうのだ!!
嘘!マジッ!!ど、どうすればいいのーーーーっ!!(パニック)。
私は空港から飛行機に置いてかれたことを泣きながら夫に国際電話し、友人の家に泊めてもらいながら、外務省と大使館に電話しまくり謝り泣いて頼みまくり、髪振り乱し駆けずり回った末、関係各所の温情とご協力により、大使館にある発行済みのパスポートは破棄してもらい、緊急渡航の名目で新たにパスポートを作らせてもらってなんとか期日迄に居住国へ戻り、滞在許可証の更新手続きもギリ間に合ったのだった。(※現在は上記のようなアクシデント防止のため、更新時は現行のパスポートは預けることになってます)

「全く、あんたは何やってるの?」
母の声が聞こえた気がした。
これって親不孝の罰が当たったのかもしれない…と思った。

何も親孝行と言えるような事は出来なかったけど、一度だけ母と二人だけで岩手県花巻市へ旅行した事があった。それも、妹は何度もお母さんを旅行に連れて行ってくれたのにあんたは、と母に愚痴られ行く流れになったのだ。
旅館も新幹線も私の方で予約し、奮発してタクシーを一日貸切って宮沢賢治ゆかりの地を周ることにしていた。
旅館に着いてもうすぐ夕食の時間だというのに、突然イチジクの甘露煮をバッグから取り出し、あんたの好物作ってきたから食べなさい、と言う母。夕食楽しみにしてるし入らなくなるからいい、と言うとヘソを曲げてしまった。それから母は私が止めるのも聞かずお酒を飲みすぎて翌朝寝坊してしまい、迎えに来たタクシーの運転手さんを30分以上も待たせてしまった。でもお金払ってるのはこっちなんだから、とぜんぜん謝らず澄ましている母…。
相変わらずであったが、母と二人だけの旅はこれが最初で最後になってしまった。

お母さん
あなたに会った最後の夏、
家に居る時も化粧を欠かさず、いつも身だしなみに気を配り胸を張っていたあなたが、もう毛染めする気力もなくなり総白髪の老婆になって、赤いマニキュアが剥がれた爪を見た時、胸をかれた。
だからといって、急に優しい言葉をかけることも出来ず。
私がすっぴんでいると、眉毛くらい描きなさい、歩く時は背筋をシャンと伸ばして、といつも言っていたね。

私はお母さんみたいにはなりたくない、と言った時
お母さん、悲しかった?

あなたに聞きたいことがある
幸せだった?

今ならわかる
あなたは、あなたなりのやり方で
不器用ながらも愛してくれていたのだと

親の心子知らずを
今、私も自分の子に実感しているよ
ほんとに笑っちゃうくらい
息子は私に性格がそっくりだよ


お母さん
最後に、ありがとうと言えずに
ごめんなさい







母が亡くなってから早いもので今年で十三回忌だった。今では母の命日を忘れてる年もあったりつくづく自分は親不孝だなと思うが、それだけの年月が経ってようやく母との日々を静かに思い返せるようになった。私は本当の意味で母から解放されたのだろう。

親子の確執を超えて母が私にしてくれたのと同じくらいのことを、私は息子にしてあげられるだろうか。その自信は今もないけれど。



長年自分の内でふつふつと醗酵していた母のことをここに書かせてもらいました。
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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