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役に立たない存在。

以前、
室内に入って来たカメムシを、

恐る恐るホウキにつかまらせて、窓の外に出したことがあったんですね。

そのとき、それを見ていた人が一言。

「その虫、なんの役にたつの?」とのこと。


わたしは咄嗟に、

循環、生態系のことを言いたくて

「役に立ってない虫はいないよ」とあっさり言ったのだけど(ほんとあっさり)

でも、
そのあとしばらく
わたしの心の中に、なにか引っかかっている感じが残った。


循環。


人間が、本来なにも手をださなくても、

雨と蒸発を繰り返す水の循環、森林による空気の循環、微生物たちによる土の循環など、

これらの環境循環で何もかもがめぐりめぐるこの地球で、

いまは多くが失われ、

循環力が失われつつある地球だから、

いまは

循環型社会(3R、リデュース・リユース・リサイクル等)と、

環境循環の

この二つを合わせた暮らしを守り暮らしていく意識が

ひとびとの中で高まっているのは確か。


環境循環に想いを馳せると、

ほんとうに見事なそのサイクルに、どうしようもないたまらない、足元から這いあがってくるような豊かさを感じずにはいられない。


で、
あのカメムシの話に戻ると、

どんくさいわたしが、「役に立ってない虫はいないよ」と言ったあとに覚えた違和感の正体をつかんだのは、しばらくしてからだった。


あのときのわたしのほんとうの気持ちは、

『役に立ってなかったら、なんだってぇんだい?』というものだった。急に江戸っ子。


役立たず


もし目の前に、これまた人間に勝手に「ヤクタタズムシ」みたいな名がつけられた虫が、

テクテク歩いてたら。

その虫は、例えばなにかを捕食もせず、そして他者から捕食もされず、なにかの役に立っているようにも見えず、何にも影響をあたえず、だれの得にも邪魔にもならず、寿命もなく、繁殖もせず、ただ永遠に生きているだけの循環から外れた虫がいたら。

例えばそんな虫がいたら?

いないけど、そんな虫。


で、そんな虫の存在が、それでもやっぱり生態系に影響とかあるのか分からないけれど、
仮にの話しとしてそんな虫が一匹、テクテク歩いていたら、それこそがそれで完結していて、ただその虫が、テクテク歩いてるだけで。

それ以上に、なにを望めばいいってぇんだい?と思う。また江戸…。


そんな虫がいたらいたで、また、『世にも珍しい虫』だとかって貴重がられるのだろうけれど。そうなると、「フロウフシムシ」とか「シシラズムシ」とか「キセキムシ」とかの名前になるかもしれん。


循環の偉大なる神秘さは、紛れもない事実。豊かさそのもの。

でも、

テクテク歩くテクテクヤクタタズムシがただ生きていることが、もうそれでよくて、なんなら循環がおまけに思えてくるような、そんな感じさえするんです。

わたしにとってたとえプラスでなくても、ぜんぜん接点なくても、地球の裏側のどこかも分からないところで、生命が、生を活動している。

役にたたないからって、なんだというのだ。(そんなものはこの世になくとも)

役に立つからって一体、それがなんだと言うのだろう。(ありがたいけれど)

ということを、ちらりと感じずにはいられないんですね。

循環が素晴らしければ、素晴らしいほどに。


どっかで虫が鳴いて、

どっかでイルカがジャンプして、

どっかで象がおならして、

どっかでオーロラがゆらめいて、

それがぜんぜんわたしに関係してなくていい。し、していてもいいし。


それらの命の活動が、そこでそうしてくれているのが、誰にとっても本来はいっちばん最高なはずなんじゃないかな、と思う。


否、書いていてきれいごとみたいで怖くなった。なぜならふだんわたしは欲の塊だから。

半径5メートル以内の他者に勝手に期待して、勝手にがっかりして。


なのでそれらの反動で、珍しくそんなことを

思ったのかもしれない。


役に立ってなくてもいい、という言葉も、べつに誰がそれを決められることでもないし、

循環って素晴らしいとかって、本来評価する誰もいないように

ただ世界を、ただヤクタタズムシのように

ただテクテクと歩けたら、それこそ健全な生な気がするし

そんなテクテクヤクタタズムシが可愛いと思うんじゃないかな。(思わないって?)

そしてきっと勝手に人間が「ボッチヤクタタズムシ」とか命名するんだ。

それを本人(ボッチヤクタタズムシ)は、そんなこともツユ知らず、

知る必要もなく、アジサイの葉っぱの上を、歩く。テクテクと。

清々しく。


ちなみにわたしの好きな虫はゴミムシダマシです。(知らん)

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