【戦国イクメン】モンスターペアレント化した豊臣秀吉の親心が、秀頼と豊臣家を滅亡させる
現代の晩婚化にも通ずる秀吉の親心
昨今の日本では、晩婚化が進んできており、平均出産年齢が30歳超となっており、私の周りでも40歳を過ぎてから第一子を出産する家庭も増えていると感じています。
我が家も第二子は、40歳で生まれているので、成人式にてお祝いされる頃には、親が60歳で赤いちゃんちゃんこを着せられて、こちらもお祝いされるという状態です。
現代は、医療の発達もあり長命化が進んでいると言いつつも、いつまで子供の成長を見ていられるかの不安との戦いでもあります。
もっと若い頃に結婚していれば、と思う事もありますが、人生をタイムマシンでやり直せない現実を踏まえると、せめて子供が安定した生活を手に入れて、結婚して孫が生まれるころまでは、何とか生きていられたらと願うしかありません。
そんな現代の日本人と同じ悩みを、戦国時代に天下統一を実現した豊臣秀吉も抱えていたのではないかと思います。
57歳で生まれきた息子の未来を憂う秀吉ができる事とは?
太平洋戦争のころまで日本人の平均寿命が50歳に満たないという状況でした。
医療も食糧事情も整っていない戦国時代ならもっと短かったかもしれません。
そんな時代に57歳で秀頼を設けた秀吉の心情としては、自分が間違いなく先に逝く事は分かっているので、生きている間にできる限りの道筋を作っておいてやろうと考えいてもおかしくありません。
それは現代の親と変わらない親心かと思います。秀頼には安定して健やかに末永く幸せでいて欲しいと願ったと思います。
しかし、一つ大きな懸念点がありました。
秀頼誕生の二年前に、甥の秀次に関白の職を譲る事で、豊臣家の正式な後継者として指名をしてしまっていた事です。
しかも、秀吉が実権を握っている二元政治を取っていたとはいえ、関白である秀次を中心とした政治体制が作られようとして、徐々に動き始めておりました。
自分が死んだ後、関白でもある甥の秀次が、最高権力者として、秀頼の生殺与奪の権を握る事になるのは避けられません。
また、秀次の性質として、秀吉に似た女好きによる側室の多さと、秀吉に似ず子供が多い事も、もしかすると秀次の係累の繁栄により、秀頼が淘汰されるのではないかという恐怖を感じさせたかもしれません。
そして、かつては後継者として期待していた身内の秀次が、突如として秀頼および秀吉の敵へと置き換わりました。
老い先短い秀吉が打てる手と時間は、あまり残されてなかったと思います。
秀次およびその眷属、家老を皆殺しという秀吉の選択
日本を秀次と秀頼で分割統治や、日本を秀頼、明(中国)を秀次が統治という非現実的で穏健な案が浮かんでは消えていったようです。
すでに、参謀役であった弟の秀長や千利休も死に、秀吉の行動を諫める事ができる人材が枯渇しており、周りを固めているのは秀吉の意向を忠実に実行処理していく者ばかりになりつつありました。
そして、秀吉はシンプルかつ悲惨な決断へと至ります。秀頼の将来への禍根はすべて断つです。
秀次の切腹に始まり、側室及び子息、乳母、侍女の39名が斬首、家老7名が切腹となり、秀次に関わりの有る者を根絶やしにしました。
また、政務で使用していた聚楽第などの城も破却し、秀次と友好関係にあった大名たちにも処分がありました。
息子の秀頼が秀次に生殺与奪を振りかざされる前に、秀吉がその権利を行使して、最大の懸念を払拭した格好になりました。
しかも、文禄の役での朝鮮半島への出兵失敗の痛手も癒えていない状況で、この秀次の処分が行われたのは、豊臣政権内での不平不満を封じるための見せしめだったのかもしれません。
しかし、この秀次の処分と、文禄・慶長の役は、豊臣政権に大きな禍根を残し、大名たちの不協和音を大きくさせます。
秀頼の藩屏を排除し、秀吉自らが弱体化させてしまった豊臣政権の末路
親族に姉と弟しかいない秀吉には、血の繋がりのある一門衆というのが限られていました。
弟の秀長は秀吉より先に亡くなり、姉の子である秀次は切腹、その弟の秀勝と秀保が前後して病死した事で、秀吉の血族は秀頼のみとなりました。
若くして、甥たちが相次いで病死というのも、何か怪しさがないわけではありません。
しかし、これによって、秀吉の死後に、秀頼の生殺与奪の権を握りそうな一門衆は、すべて居なくなりました。
歴史上で、幼君に取っての最大の敵は、親類縁者であった事は、確かなのですが、逆に、歴史上の創業期において国を安泰にさせたのも、一門衆や一族の強固な団結力でした。
秀吉亡きあとの秀頼は、豊臣家の藩屏と呼ばれる自分を守ってくれる存在のいない環境に放り出されてしまいました。
結果的に、その隙を、百戦錬磨の徳川家康に突かれてしまい、政権を江戸に奪われた上に、大阪の陣において、秀頼の豊臣家は滅ぼされてしまいました。
もし、秀次の処分や対応をうまく出来ていれば、秀頼は家康に政権を奪われることもなく、ましてや滅ぼされる事もなかったかもしれません。
まとめ
結果的に、秀吉の子供想うための過激な行動、まさに現代のモンスターペアレントの最大版的な行動が、逆に豊臣家の力を弱めて、秀頼の滅亡へと導いてしまったのは皮肉です。
しかし、もし自分が秀吉の立場であったとして、どんな方法が残されていたのかと考えると、非常に難しい問題です。
戦国という荒々しい時代に身を置いているとしたら、やはり不安要素である秀次の排除は、方法や手段は色々とあると思いますが、避けられない事かと思います。
ただ、秀次の眷属および重臣たちの根絶やしについては、やりすぎの感があり、大名たちに恐怖心のみを与え、その結果、豊臣家との距離感を空けざるを得なかったと思います。
豊臣に恩のある大名たちの徳川家への擦りよりが始まったのも、この秀次排除の件からと言われています。
豊臣政権への嫌悪感を最大限にした事件かもしれません。
これは、子供の将来を心配する気持ちも行き過ぎてしまっては、その子供に逆効果を生み出すという歴史的な教訓かもしれません。
自分の死後まで見守りたい気持ちはあるかもしれませんが、それにも限界がある事をわきまえて、子供の将来への危惧なども、行き過ぎない程度に抑えておくのが良いと思われます。
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