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奪われた未来、託された未来──『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

 いつもお疲れさまです。

 先日、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観てきました。

 2018年に6期のアニメが放送されて、はや5年。映画館で鬼太郎が観られる日を今か今かと心待ちにしてました!


 そんな期待を胸に秘めつつ映画館へ向かい、本作を鑑賞。真っ先に思い浮かんだ感想は、

(バリバリの伝奇モノやないか!)

 でした。閉鎖的な村が舞台というと横溝正史の小説を連想しますし、代々続く村の怪しげな因習とか血生臭い事件とか薄幸の美少女といった伝奇作品で見受けられる要素が、本作に多く取り入れられています。


(おそらく時麿ときまろって『犬神家の一族』のスケキヨ的な立ち位置(ビジュアル面での)だったのではないでしょうか? そのキャラクター性はあまりに違いますが……)

「figma 犬神佐清」(メーカー:FREEing)


 本編を観ると分かりますが、水木サンのお弟子である京極夏彦氏の作品を連想する要素も出てきます。あの妖怪が出てきた時、「京極堂シリーズ」やん! と思った方は私だけではないはずっ。

 テレビシリーズ6期の時点でもダークな雰囲気は漂ってはいましたが、この映画に関しては小学生の子どもたちに観せて本当に大丈夫なのか!? と心配になるほどダークな色合いが濃くなっていました。なお、本作の映倫区分はPG12らしいです。

 鬼滅や呪術が子どもたちにウケたのだから、ダークな鬼太郎も大丈夫! という判断なのでしょうか。全然だいじょばない気がしてならないのですが……。


 そんな本作を観て、色々と感じることがありましたので、久々にnoteへしたためようと思った次第です。

*以降、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』に関するネタバレに言及します。映画を鑑賞後に本稿を読んでいただくことを強くオススメいたします。

*2023.12.08 映画2回目視聴につき、一部追記しました。





残酷な世界に一縷の希望を

 まずは、本作の残酷な描写について。

 ティザービジュアルを見ただけでも分かるように、本作には残酷な描写が多々見受けられます。鬼太郎の父も水木もカッケェのですが、これホントにPG12で良かったんですか?

©映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」製作委員会


 本編を観ても、次々と亡くなる龍賀りゅうが一族の亡骸は血みどろで惨たらしい有り様でした。鬼太郎の父(以下、目玉だけになる前の姿は「ゲゲ郎」と表記)や水木が闘っている最中も、自分の血や返り血で血まみれになっています。

 テレビシリーズだと、日曜の朝方に子どもでも観られるようにマイルドな作風になっていたため、映画とのギャップはとても大きいです。なぜここまで残酷な描写を取り入れたのでしょうか?

 さらに映画を細かく観ていくと、物語全体を通して「」が一種のモチーフになっていることが分かります。

 先述した内容の他に、水木の勤め先が「帝国血液銀行」である点が挙げられます。水木は、巷で密かに流通する謎の血液「M」の正体を探る密命を受けて、哭倉なぐら村へ入村します。

*余談ですが、血液銀行は実際に戦後日本に存在した銀行なんですね。原作の漫画は読んでいて、血液銀行の設定は知っていましたが、実在するモノだということはついこの間知りました……。


 水木が謎を探っていた「M」の正体は、ゲゲ郎の同胞である幽霊族の血液が原料でした。彼らの血液を採取する「工場」には大樹が生えており、その周りには血を連想させる赤い色の海が広がっていました。

 龍賀一族は幽霊族の血を奪い取り、「M」として日本社会へ流通させることで、日本の富国強兵を押し進めようとする野望を抱いていました。戦場で数多の血が流れたにも関わらず、またもや血を流す羽目に陥るという皮肉がここで垣間見えます。

 加えて、本作では一族の血縁についても重要な要素になっています。作中では、龍賀一族と幽霊族の対比が顕著に示されていたように思います。

 龍賀一族は先述した野望のために、村ぐるみで悪事を働いていました。幽霊族を拉致・監禁するだけに留まらず、「M」の実験のために村の人間を生贄にしており、そのことが村の外部に漏れないよう徹底的に隠蔽工作を図っていたのです。

 その当主が持つ権力は絶大で、村の者はおろか一族の血筋であっても当主に逆らうことはできないでいました。当主・時貞ときさだ(←クソジジイ)は非情かつ横暴な人物で、その毒牙は孫の沙代さよ時弥ときやにまでかけられてしまいます。

 龍賀一族が絶対君主のように君臨する哭倉村において、個人の自由などどこにもありはしません。そんな境遇からどうにか脱したいと願ったからこそ、沙代は水木に助けを求めたのです。

 時弥に関しても、水木から東京の話をせがむなどして、村の外に少なからぬ興味を示していました。ゲゲ郎の話を聴いた時には、自分がこれからの未来を担う存在なのだと幼いながらに自覚していました。

 しかし、二人の子どもの未来は、時貞ないし一族の手によって無惨にも奪われてしまいます。

 このことから、龍賀一族は子どもたちの未来を奪う存在として描かれていることが分かります。

 対する幽霊族はどうでしょうか。はるか昔から地上に存在していた幽霊族は、人間によって狩られてしまい、絶滅の危機に瀕していました。幽霊族の生き残りであるゲゲ郎は、人間のことを激しく憎んでいました。しかし、妻の岩子(←原作漫画での名前より)は人間のことを愛していたのです。

 憎むべき相手である人間に対して愛を持って接しようとする岩子の優しさを知ったゲゲ郎は、次第に人間を赦そうと思えるようになりました。ゲゲ郎が島で妖怪に襲われそうになった水木を助けたのも、ひとえに岩子の優しさに触れていたからなのでしょう。

 そんなゲゲ郎と岩子の愛の結晶として命を宿した鬼太郎。映画の終盤では、親子ともども命の危機に瀕しますが、拉致されていた幽霊族の同胞たちがゲゲ郎に霊力を与えたおかげで危機を脱します。まるで、幽霊族総員が子ども(鬼太郎)の未来を守らんとしたかのように。

 こうしてみると、幽霊族は子どもの未来を守る存在で、龍賀一族とは対照的に描かれていることが分かるでしょう。

 結果として、龍賀一族は村もろとも滅んでしまいました。沙代も時弥も、村を出ることはついぞ叶わなかったのです。一方、幽霊族に関しては岩子が亡くなり、ゲゲ郎は目玉だけの存在、目玉おやじとなって身体を喪ってしまいます。しかし、祖先の想いが詰まったチャンチャンコを託された鬼太郎は今も生き続けています。

 本作における「血」というモチーフは、人間が持つ残酷性を表すとともに、想いを託して未来を築いていこうとする希望も表しているのではないでしょうか。




彼らの「目」が視るモノとは

 もう一つ、本作には気になるモチーフがあります。それは「」です。

 鬼太郎において、「目」というと真っ先に思い浮かぶのは目玉おやじでしょう。ただ、本作では目玉おやじが登場するのは冒頭と結末の部分だけで、その間はまだ身体があった頃のおやじ=ゲゲ郎が登場しています。

 そんなゲゲ郎の左目は前髪で隠れています。息子の鬼太郎も同様ですね。この辺りについては後で触れたいと思います。

 「目」に関して他に気になるところというと、水木の左目ではないでしょうか。水木は戦争帰還者で、体にはあちこち傷が付いていて、左目にも切り傷のような痕が残っています。

 龍賀一族についても「目」のモチーフが窺えます。殺された龍賀一族(時麿、乙米おとめ丙絵ひのえ)の亡骸を見てみると(直視したくはないですが……)、時麿と乙米は左目を貫かれて死んでおり、丙江はカラスに眼球(左目)を摘まれています。
 庚子としこが殺された時の顔がはっきりとは見えませんでしたが、もしかしたら目に何らかの異常があったかもしれません。

*2023.12.08追記
 庚子についても、左目を貫かれていたことを確認しました。ロウソクが左目に突き刺さっているのがホントに痛々しい……。

 時貞に関しては、狂骨に喰われてフン(?)にされる際に両目だけが映されるシーンがありました。他の一族のように片目を喪っていないのは、時貞がまだ死んでいないからなのでしょうか。

 この他、岩子の目も気になりました。龍賀一族の「工場」へ監禁されて、血液を採取され続けたせいで岩子の顔が崩れてしまっていました。その顔を見ると、右瞼が腫れて目が開かなくなっています。

 以上、作中のキャラクターの「目」に注目してみると、何らかの規則性が浮かび上がったように見えます。左目を隠すゲゲ郎・鬼太郎親子、左目に傷を負った水木、片目を喪って死んだ龍賀一族、右目が閉ざされた岩子。この規則性に何か意味があるのでしょうか。




 ここでポケモンの話をしましょう(唐突)。

 なぜここでポケモンの話を出すのかというと、ポケモンにおいて「目」に関する興味深い言及がなされているからです。

 皆さんはネイティオというポケモンをご存知でしょうか?

 『ポケットモンスター金・銀』で初登場した、鳥のようなポケモンです。この目、一体何を考えているのかサッパリ読めないですね……。


 このネイティオの図鑑説明を見ると、「みぎめは みらいを ひだりめは かこを みている」という記述があるのです。


 この記述には何か元ネタがあるのかと思い、色々と調べてみましたがどうにも分かりません。いかにも意味ありげな記述ですから、何らかのルーツがあるように思えてならないのです。


 ネイティオの目に関する元ネタは分かりませんでしたが、他作品で似たような台詞が登場します。それが『カウボーイビバップ』です。


 テレビシリーズの第26話にて、主人公のスパイクが「片方の目で過去をみてもう一方で現在いまをみてた」と語る場面があります。別の場面(第13話)では、「この左の目は過去をみているんだ」と話していたことを踏まえると、『カウボーイビバップ』では「左の目は過去を、右の目は現在を見ている」と言及されていることが分かります。

 先ほどのネイティオとは右目で見ているものが異なりますが、未来とは現在を経て辿り着くものであるため、意味が大きく異なっているわけではないように思えます(多分)。

 ポケモンのネイティオと『カウボーイビバップ』の関連性は不明ですが、単なる偶然の一致と片付けるには惜しいです。

 元ネタがどうとか因果関係がどうとかはこの際置いといて(暴論)、「左目は過去を、右目は未来(あるいは現在)を見ている」という観念を『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』に当てはめてみたいと思います。


 まずはゲゲ郎・鬼太郎親子について。二人は左目を前髪で隠しています。これを先述した観念に当てはめると、ゲゲ郎・鬼太郎は左目(過去)が隠されていて、右目(現在)のみが開かれていると言えます。

 ただ、ゲゲ郎の場合は左目は見えているがあえて前髪で隠しています。彼に言わせれば、この世界は「片目で見るぐらいがちょうどいい」とのこと。
 一方の鬼太郎は、生まれた時から左目が見えなくなっています。(その経緯については媒体ごとに異なります)

 このことを踏まえると、ゲゲ郎はあえて過去(左目)を見ないようにしており、鬼太郎はそもそも過去(左目)が見えないのだと言えます。

 ゲゲ郎が見ないようにしている過去とは、幽霊族を狩り続けてきた人間たちを指します。先述したように、かつてのゲゲ郎は人間を憎んでいましたが、岩子の優しさに触れることで自身の憎しみを抑制するようになりました。
 作中でも「争いごとは好まん」と言って、哭倉村の人間たちに対して暴力を振るわず、ギリギリのところまで対話をしようと試みていました。

 ゲゲ郎は、過去を見ないことによって人間を憎まないという選択を採っているのです。

 鬼太郎の場合はどうでしょうか。彼が産まれた時にはすでに岩子は亡くなっていて、ゲゲ郎は目玉だけの姿となっていました。両親が健在だった頃の姿を、鬼太郎はその目で見ていないのです。その上、幽霊族の同胞たちのことも見たことがありません。幽霊族と人間の因縁についても、哭倉村の滅亡とともに一応の決着がついたために、鬼太郎はその因縁に巻き込まれずに済んでいます。

 ゆえに鬼太郎は、幽霊族の歴史(過去)と断絶した状態にあると言えるでしょう。だからこそ、鬼太郎は幽霊族の憎しみの歴史に縛られることなく、人間に手を差し伸べることができるのだと思います。


 次に、水木について。水木は左目に傷を負っています。左目は過去を示していると考えると、水木は過去に対して傷を抱えていると捉えられます。水木の過去というと、戦争が挙げられるでしょう。

 作中、戦地での記憶がフラッシュバックする水木の姿が何度も描かれています。おそらく水木は「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」=トラウマを抱えているのだと思われます。戦場では常に死と隣り合わせの極限状態に晒されて、多くの仲間が死んでいく様を目の当たりにしていたのですから、水木の心の傷はかなり深いものだったことが窺えます。

 しかし、水木の左目は閉ざされていません。このことから、水木は過去のトラウマを抱えながらも決して目を背けてはいないのだと捉えることができます。

 水木は戦争に対してトラウマを抱える一方で、やり場のない怒りも感じていました。

 かつて戦地にいた水木たち日本軍は、玉砕もやむなしというところまで追い込まれていました。兵士たちは玉砕する覚悟を決めていたところ、彼らの上官は自分だけ玉砕を拒否します。「貴様らが玉砕したことを本部へ報告する義務がある」と言い訳を連ねる上官に対して、水木は失望しました。

 それから、命からがら日本へ戻ってきた水木でしたが、彼を待っていたのは復興とは名ばかりの弱肉強食の日本社会でした。立場の弱い庶民たちは貧しい生活を余儀なくされて、戦争を指導した政治家など一部の富裕層は庶民から富を搾取しては贅沢を極めるという有り様。
 水木は失望を通り越して、怒りを覚えるようになりました。

「こんな奴らに良いようにされた挙句に捨てられてしまう前に、俺がのし上がって見返してやる」

 弱い立場に甘んじることなく、上を目指すことで現状を打破しようと考えていた水木。そんな彼だからこそ、龍賀一族にも果敢に立ち向かうことができたのでしょう。時貞と対峙した際に「アンタつまんねぇな!」と一刀両断した水木の姿はホントにカッコよかったです。

 彼の生き様からは、過去に縛られず、現在を懸命に生きて、未来を築こうとしていた様子が窺えます。


 続いては龍賀一族について──触れる前に岩子の方から見てみましょう。龍賀の「工場」に監禁された時の岩子は、右目が開かなくなっていました。ゲゲ郎・鬼太郎とは逆の目が見えない状態となります。

 右目は「未来(あるいは現実)」を指していることを踏まえると、岩子にはもう未来が見えなくなっているのだと考えることができます。実際、哭倉村を脱出した後に岩子は亡くなってしまいます。(この辺りは『墓場鬼太郎』などで詳しく語られる話ですね)

 ゲゲ郎と再会した時点で、岩子の未来は途絶えていたことが暗示されていたのです。しかし、岩子が亡くなるのと同時に鬼太郎は誕生しました。幽霊族の血を絶やさずにいられたこと、そして何よりもゲゲ郎が身を挺して守ってくれた命(鬼太郎)をこの世に送り出すことができたこと。それが岩子にとって、これ以上ないほどの希望だったことでしょう。


 それでは龍賀一族について見てみましょう。なぜ彼らを後回しにしたのかと言いますと、「左目は過去を、右目は未来(あるいは現在)を見ている」の法則から少しズレていると感じて、自信が無かったためです……。

 殺された時麿、乙米、丙絵、庚子は左目を喪っていたため、過去が見えないという暗示になってしまうのです。死ぬこと=未来が途絶えることと考えるのでしたら、喪うのは右目になるはずではないでしょうか。

 一方、沙代と時弥の場合は目を喪う描写が見受けられません。この二人と他の一族たちとで何が異なるのでしょうか。

 一つは死因が挙げられます。沙代は長田に剣で刺された後、狂骨の炎に灼かれてその生涯を終えました。時弥は時貞に身体を乗っ取られたことで幼い命を奪われました。それに対して、時麿らは狂骨によってその命を奪われています。狂骨は怨念の象徴ですから、時麿らはその報いを受ける形で亡くなったのだと言えます。

 この他、未来に目を向けていたか否かという違いが挙げられます。沙代は哭倉村を出て、龍賀一族の因習から離れた人生を送りたいと願っていました。時弥も、水木の東京の話に興味を抱き、自分がこれからの未来を担う存在なのだという自覚を持っていました。二人とも、これからの未来に目を向けていたことが窺えます。

 それに対して、他の一族たちは過去(龍賀一族の因習)にばかり目を向けていたように思います。時麿は、時貞の遺言によって自分が当主になったと分かった時、「父がいなければどうすることもできない」と泣き喚いていました。乙米は、因習に異議を唱えるどころか、幽霊族への迫害や村の人間を生贄に捧げるなどの悪事に積極的に加担していました。丙江は、かつて駆け落ちしたことで村を出ようとしましたが、結局は村に連れ戻されています。そこで挫折したのか、本編ではやさぐれた姿が目立っていました。庚子は、時弥という「未来ある子ども」を守ろうとしていましたが、それはあくまで自分ごとだからという印象を受けます。時弥以外の人間に対しては攻撃的になる場面が多かったように見受けられます。

 彼らは、一族の因習に囚われるばかりで、自分の力で何かを成し遂げようと、ましてや呪われた因習を打破しようと考えることはありませんでした。それこそが、沙代・時弥との決定的な違いでしょう。


 ちなみに、時貞は一族の中で唯一の生き残りです。ただし、フンになった状態で。
(狂骨の下腹部あたりからあの球体が飛び出したように見えたのでフンと呼んでいますが、本当は違うのでしょうか?)

 フンはフンですから、目鼻口その他の人間らしい部位は当然ありません。件の法則にあえて当てはめるとすれば、左目(過去)も右目(未来)も失われてはいないが、目が見えないことからお先真っ暗な状態、といったところでしょうか。


 ところで、今まで克典かつのり孝三こうぞうについて言及していませんでした。それは、この二人が時麿らのような一族の奴隷になっていないため、あえて切り離していました。また、「目」のモチーフがこの二人には表れていなかったと感じたというのもあります。

(映画の内容を完全に記憶できているわけではないので、見落としがあるかもしれません。もう一度映画を観に行かねばなりませんね……)

 克典に関しては、彼が入婿で村の人間から余所者扱いされていました。加えて、やり方はどうであれ、事業によって哭倉村を変えようとしていたため、沙代・時弥の立場に近かったと言えるでしょう。

 しかし、彼の最期を見る限り、その生き様はあまり肯定的に描かれていなかったようです。村が狂骨に襲われた際、自分だけが助かろうとしてトラックで逃げていました。その道中で村の人間を轢いていて、どこまでも自己保身に走っていました。それが許されることはなく、克典のトラックは木にぶつかってしまい、惨めな最期を迎えたのです。彼の両目は(一応)喪っていませんでした。

 孝三に関しては、岩子を助け出そうとしていたことが明かされています。理由は岩子に惚れたためではありますが、村の因習に対して抗おうとしていたことが窺えます。しかし結果は失敗し、心が壊れてしまいました。そして、彼は克典のトラックに轢かれてしまい、あっけない最期を迎えました。


 以上、一部の例外はあったものの「左目は過去を、右目は未来(あるいは現在)を見ている」という観念は本作にも当てはまるものだと言えそうです。正解不正解は定かではありませんが、「目」というモチーフに注目することで映画をより深く考えることができたように思います。




過去を忘れないで、想いを忘れないで

 ここまで、「血」と「目」という二つのモチーフについて注目してきました。

 最後に本稿の締めとして、「忘れない」というメッセージについて考えてみようと思います。

 映画の結末にて鬼太郎は、狂骨となった時弥と対面します。そこで時弥は「忘れないで」と鬼太郎に言います。

 この「忘れないで」という言葉には、様々な想いが読み取れます。時弥のことを「忘れないで」、哭倉村で起こった悲劇を「忘れないで」、果ては戦争があったことを「忘れないで」。

 『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』という物語の背景には、戦争の存在があります。本編の年代は昭和31年(1956年)で、戦争の爪痕がまだ色濃く残っている時代になります。水木は戦争帰還者で、その時の記憶がPTSDとなって苦しんでいました。血液「M」が造られたのは、戦後日本の復興のためという大義名分があったからです。もし「M」を精製するために幽霊族を拉致したりしなければ、哭倉村の悲劇は起きなかったのかもしれません。

 しかし、そんな「タラレバ」を言ったところで起きてしまった悲劇を無かったことにはできません。喪った命は二度と戻ってくることはないのです。

 本作において、悲劇の当事者は一応の清算を終えています。龍賀一族は滅亡し、哭倉村も廃村と化しました。村に監禁されていた幽霊族たちもみな亡くなってしまいました。

 後の時代を生きる人々にできることは何か。それはやはり「忘れない」ことなのだと思います。二度と悲劇を繰り返さないためにも。
 そのためには、過去に起こったことを知り、後世へ語り継ぐことが必要です。それこそ、本編で山田が哭倉村で起こったことを語り継ごうと決意したように。

 戦争についても同じように、語り継ぐことが必要不可欠でしょう。戦争を体験した水木しげる先生はお亡くなりになっていて、戦争を生き抜いた方々の体験談をお聴きする機会は減ってきています。

 そこで重要となってくるのが、漫画や映画などの「物語」でしょう。

 戦争の記憶を単なる情報として捉えるのではなく、生々しさを伴う体験として捉えられる力が物語にはあります。それは水木先生の諸作品を見ればよく分かります。

 多くの命を奪い、これまで積み上げられてきた人類の歴史さえも破壊してしまう。そんな戦争を二度と繰り返してはならない。そのためにも、戦争があったことを忘れてはならない。

 「忘れないで」という時弥の言葉には、そのようなメッセージが仮託されていたように感じます。




おわりに

 ここまで雑多に映画の感想を書きましたが、やはりこの映画は語りどころが多いですね。X(旧Twitter)のTLを見てみると、私と同じく(どころかそれ以上の愛を持って)本作の感想を書いていらっしゃる方が多いです。グッズも即完売するほどですから、鬼太郎ないし水木作品がどれほど愛されているのかが伝わってきますね。


 子どもの頃、学校の図書室にあった『鬼太郎』の漫画を読んだことをきっかけに、私は妖怪の世界に魅了されました。

 妖怪の歴史は古く、今もなお脈々と受け継がれています。水木サンの亡き後も、後の世代の人たちが妖怪を語り継いでくださいます。それこそ、今回の映画のように。

 これからも、怪しくも面白い妖怪の世界にドップリ浸かっていこうと思います。次はネトフリの『悪魔くん』ですね……(まだ観てない)。






p.s.入場者特典のイラスト、めっさエモくないですか?

©映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」製作委員会

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