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「オマエの存在は間違っている」と言われて。

 中学生時代、私は級友たちから「死ね!」と言われ続けた。なので、これはみんなの言うことなのだから、自分は死ななければならない、と割と真面目に思い込んでいた。
 なぜなら私の周りの世の中は民主主義で、物事は多数決で決められていたからだ。
 とりわけ、「オマエの存在は間違っている」と、みんなから言われ続けたときには、本気で自分は消滅しなければいけない存在なのだと思っていた(or思い込まされていた)。

「自分の存在が間違っている」として、その間違った存在を生み出したのは誰なのだろうか、としばしば考えた。
 両親のしたことが間違っていたのか、それとも両親(のどちらか)の存在が間違っていたのか、もしそうなら祖父母や祖先のうちの誰かの存在が間違えていたのか……などと良く考えたが、はっきりとした答えは出なかった。

 で、小学生のときに、アカの先生から、
「天皇制は間違っている。天皇の存在は間違っている。」と教わったのを思い出して、もしかしたら、私は日本人だからその存在が間違っているのだろうかな、と思った。

 私は考えた。日本人の存在が間違っているのなら、他の民族はどうなんだろう?
 もしかして、人類の存在そのものが間違っているのではないか?と思って、当時、自分の知り得た世界を見渡したら、世の中の存在そのものが間違っているように思えた。
 人類と世の中の存在を消すことができるのは、おそらくは神様しかいない(と思われる)けど、その神様が間違ったことをやっている(人類を存在させている)のであれば、神様に頼ることはできないと思った。

 人類は互いが互いに向けて核兵器の照準を向けているから、このまま自滅すればいいと思った。

 で、結局、自分と周りの存在を消すには、自分は何もしなくてもいいという結論に達し、そのまま惰性で生きてきた。
 存在の間違っているとされている自分が。

 でも神様(かどうかはわからないけど)の創ったものが間違いで、神(?)が創った世の中が間違っているということはわかった。
 だから私にとっては、空が青いのも、太陽や月や星が輝いているのも、地球が存在することも、地面から草や木が生えてくるのも、人間や動物や鳥や昆虫たちがいるのも“間違い”だった。
 だから、綺麗な花を見ても、
「これは間違いなんだな」と思い、ときどき摘み採って始末をしたり、可愛い動物を見ても、
「これは間違いだから●さなければいけない」と思ったりした。
 当然、生き物を愛でたりすることはなく、地面にカマキリがいたときには、
「この存在を消す必要がある」と思い、それを踏み潰したりもしたこともあったし、可愛い赤ちゃんを見たときには、
「この存在は間違いだから早くこの赤ん坊が●にますように」と思ったりもした。

 何というか、我ながらおぞましいというか、心の闇どころではない、心のブラックホールというべきか、要するに当時の自分にとっては、この世の森羅万象は“間違い”だったんだけど、そのなかにあっても自分は、《正しいこと》をやろうと思っていた。
 ただ、その《正しいこと》をしようとすると、人間の作った法律やら倫理やらに抵触してしまう。
 その乖離が、とても辛くて切なかった。

 たとえばこんなふうに、特定の考えに嵌(はま)ると、自分の情とか感性とか一切超越してしまう。
 というか、そうした情とか感性といったものを、そもそも間違っているものと認識していた。
 なぜなら、私の存在は“間違い”なのだから。

 ほんとうは、そんなふうに考える私の考えが間違っているんだけど、誰もそんなことを指摘してくれる人はいない。
 妄想といえば妄想というか、同級生たちに洗脳されたと言われてしまえばそれまでなんだけど、まず、そこのところを正さなければいけない。

 でも私のような、独特の思考パターンを持っているものにとっては、いちど間違ったことを教え込まれてしまうと、カッコウに托卵された親鳥のように、大事にそれを育んでしまう。
 そしてそれはなかなか、自分では修正が効かない。

 先に述べた、アカの先生から受けた「天皇制は間違っている」という洗脳についても、毎回、先生が同じ話を繰り返すものだから、やがてそれは私のこだわりとなり(それを具体的に書くと政治的言説となり、ノンポリ中立のスタンスが崩れるので端折る)、それが原因となり、私は周りの日本人たちと馴染めず、社会性を棄損する大きな一因となったし、また、テ■リズムまがいのことを考える切っ掛けにもなった。
 そしてそれが上記の破壊的思考を誘導する動機にもなったりした。

 やはり、真っ直ぐな子どもにあらぬことを教えると、あらぬ方向に真っ直ぐになり、それとは知らずに歪んだ考えをすぐに自分のものにしてしまうのである。
 そういう意味では、特定の政治団体が主導する義務教育は極めて危険かつ有害だから、テロを規制するのと同様に、テ■リスト的思想を植え付ける学校教育の規制も併せて必要だと思う。

 その考えを緩和できたのは、幼少時から自分の母親と(自閉症なりに)良好なコミュニケーションをとっていて、間違った考えを、母親の言葉で、かなりの程度、修正できたからだと思う。
 私にはまともな両親が居て、本当に良かったと思う。

 もし、家庭での良好なコミュニケーションが存在せず、人間関係が学校生活だけだったなら、そういうわけで、私の人間性は酷く歪んでいたと思う。

 家族に限らず、間違った考えを(叱責や非難や糾弾によらず)自然に修正してくれる人は貴重だ。

 例えば、筆者が今から20年前に母親を亡くしたとき、それを聞いた近所の人は、「3・3・7拍子!」と私に言った。
 それで私は、人が亡くなったときには、「3・3・7拍子」をするものなのだと、ハナから思い込んでしまった。

 もちろん、母を亡くしたときにそのように言われたことは、自分にとってかなりショックな出来事なはずだったのだけれど、言われて心理的にダメージの大きい言葉ほど、自分のなかに深く入り込んでしまい、それを無意識的に機会あるごとに(悪意なく)真似てしまうようだ。

 そしてそれを、私はその4年後の父の葬儀のときに、実践しようとした。
 私は、親戚の集まった席で、「3・3・7拍子」をやろうとした。
 ところが、集まったうちの一人が、大声で携帯電話を掛けている。
 私は、「3・3・7拍子」をやろうとしたのだが、その人の電話は、いつまでたっても止まないまま、親戚一同は解散した。

 後で、私は別の親戚の一人に、
「人が亡くなったら、3・3・7拍子をするものなのだよね」と言ったら、
「えっ?」という感じに言われた。私は、
「私の母が亡くなったときには隣人からそのように言われたんだけど」と言ったら、
「それは間違っています。間違っていることを信じてはいけません。自閉症の人はそういうことで誤解してしまうのが可愛そう」と言われたりした。

 普通なら、誰かが亡くなった人のことで3・3・7拍子をやったら、それを「人でなし」「ろくでなし」「人間じゃない」と言うと思うんだけど、そういった批判や糾弾めいた激しい注意の仕方ではなく、ちゃんとその経緯と自閉症のことをわかってくれたうえで温和にやんわりと注意された。
 そのお蔭で、私は間違った思い込みを正すことができた。
 もし激しい注意の仕方をされていたならば、私は絶対にパニックを起こしていたと思う。

 そういうわけで、誤学習にはくれぐれも気をつけなければいけない。
 とりわけ私のようなものの中には、まったくの悪気なく、とんでもない奇天烈なことを真面目に思い込んだり、他者の言動が自分の意志にかかわらず自分の中に勝手に入り込んでしまう傾向がある人がいるようだ。
 それを取り除くことができるのは、普段から理解ある人とのコミュニケーションを良好なものにしておくことと、自分でも努力して見識を広く持ち(私の場合、この点、ネットの果たした役割が大きい)、常に意識して教養を高め、いろいろな考え方があることを知識としてストックしておくことが必要だと思う。◆

追記:
 最近、「ホームレスの命はどうでもいい」などと発言して炎上した人がいるが、私が中学生時代だった当時と同様、時代を問わず、その手の発想をする人は常にいるんだな、と思う。
 そういう意味では、40何年前と、日本はぜんぜん、変わっていないと思う。
 ただ、そこら辺を考察し、深く掘り下げようとすると、おのずと日本人へのヘイトになり、“反日プロパガンダ”呼ばわりされかねないから、止めておこうと思う。


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