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水俣、陸前高田、秩父

水俣、陸前高田、秩父(に寄せたいが自分から寄ってみてもそれはやはり他者であるし、自分である。そもそも寄せてって心をってことでいいんだよね?)

心を寄せたいが、寄せていると大変つらくなってくるためできるうちに打ち込み終えたい。

 私の未熟さでは勢いのままに言葉を連ねることで、震災や公害、基地問題、原発問題、虐殺、戦争、(書ききれない、、)その当事者(線引きをしたくないしできないし私も当事者である場面もあるが)の方には失礼な表現や傷つけかねないこともあるかもしれないが、そのことに気付くたびに立ち止まり考え、必要によっては訂正と謝罪をしたい。大目に見てほしいなどとは微塵も思っていないと言えばウソになる。しかし己の弱さとも向き合う機会として書いたものは公開したいと考えている。

 私は新天地である富山に三日前に越してきた。私は最近ぼんやりと自分がどこにも所在していない感覚で私がどんな状態か自分ではよくわからなくなっている。過去の事を考えればあの時から誰のせいで私はと自分の不遇を他人のせいにしては自分を否定し続けている。そして恋人に依存しては、自分で否定して、そもそもなかったことにしている私の現実を埋めてもらおう、いっそ一から築いてもらおうとわがままをぶつけてしまっている。そんなのは本当に意味がないのだ。鬱の自分自身はぜんぜん前進したくないし、未来丸ごと否定したいのだが、恋人と未来を描きたい純粋な幸せを求めているはかなげな少女のままの自分もいるのだ。しかしやはり根本の自分を否定し、自分自身を信頼できていないところは変わっていないのだから意味がない。
 そんなこんなで私の鬱は払っても払っても付きまとうウジ虫のようで、私の周りにいる人にはそのウジ虫が見えていないように、私の身体は生きているように見えているが私のこころとからだは実質屍であり続け、私以外の誰にも見えないで孤独でいる。と書いていると鬱であるウジ虫たちは屍の私のことがよくみえていてえらいねと認めてやらないといけないな。というよりも鬱がウジ虫だろうがきれいな蝶になるための芋虫や蛹の状態であろうが自分の一部として愛せるようになりたいと心から思っている。自分に思いを寄せるのはひとまずこのくらいにしておこう。

 学生最後のフィールドワーク、秩父。武甲山に見下ろされた街並み。街の中心には絢爛な装飾のあしらわれた秩父神社がある。神社の正面からまっすぐに伸びる表参道では観光客が古い街並みを食べ歩いたり写真を撮り合ったりと楽しげである。その風景から少し目線を挙げるとやはりそこには武甲山がいるのだ。武甲山は晴れて澄んだ青空のをまとって調子がよさそうだが、それでもどこかつらそうな顔をしてこちらを見ている。武甲山は大きいなあ、それにしても初めて会った気がしないよ。近代から現代にかけて人の前進的思想によって本来の姿から文字通り物理的にからだを削り取られ、その残酷な機械的で整然とした人間の感性によって捻じ曲げられた姿でずっとそこにいる。きっとこんな姿で見られたくないだろうに。文句の一つも伝えられない言葉を持てない山がそこにいた。しかし私の屍よりはるかに大きくはっきりと人さまの目には映っているはずだ。秩父へ観光をしに来たひとはひょっとして武甲山の事を無視できるのか。私はこんな大きくてはっきり見える山のつらさを見つけてもらえない世の中で生きて行くのはつらい。そんなのごめんだ。はっきり言って絶望している。この無視できちゃう感じ、沖縄が好きでも基地負担のことには目をつむって生きていける社会構造への絶望に似ている。秩父の武甲山を心に住まわせている人は日々心を削り取られていても東京のコンクリートのなかで生活している人には気づいてもらえないんだ。人ってひとではない物をこんなに思い通りに変えられる力を持っているんだってことを一言、人って怖いね。と人の頭で考え、心は泣き、声帯を震わせてつぶやく。私はただただ悲しい。

 人がその土地に住む人全員の思いに沿って思い通りに創造することなんてできない。私が歩いた陸前高田の話をしてもいいでしょうか。
朝早く仙台駅に向かう。たった一駅を地下鉄に乗ろう(かなり割高)と仙台市地下鉄5:40のある駅でぼんやり駅名票を眺めていた。ほんとうにぼんやり考え事すらせずにただただ目の前に移る像を可もなく不可もない光の情報として目に入れていたのだろう、駅名が思いだせない。ただもう一人同じような状況の反対方面の電車を待つ人がいたことと、うっかり一つ電車をぼんやり眺めたままで、あ、ドアが開いた,閉まった、進んでいくモーターの音、と一つ一つ順を追ってじっくり逃していたのは覚えている。ほんとうに陸前高田に行くのかな、私。その予定を立てたはずでどの電車に乗り何を目指しどう過ごすかもぼんやり決めているはずだけど、どうも自分のことだと信じられなかった。どこかで自分が知らない土地に行くためにやっとこさ調べ、自分が乗ると決めているそれに乗っても、連れていかれるのは自分の日常なんじゃないかって気がしていた。そうだったのかな。そんな気もしなくはないけど。旅に出るとき、誰かの日常に行くだけって気持ちはいつでもあるもの。
 結果として私は自分が乗った電車などによって陸前高田にたどり着いた。そこは誰かの日常というにはまだどこかゆらぎのある場所だった。それでもこの十数年で随分と日常としての輪郭を構築しているんだろうなということは言わずもがなであった。
 さて陸前高田にたどり着くまでの道のりから話したいんだけど、うまくいくかな。朝早起きして仙台駅から一ノ関まで新幹線に乗った。6時台の車窓は自分自身のまどろんだ意識と新幹線の速さと朝霧で幻のように流れ去った。一ノ関からは在来線大船渡線に乗り換え、気仙沼に向かう。朝の通勤通学で二両の列車に乗客がちょうどいい感じに乗り込み、いい天気の乾いた空気は枯葉を巻き込みながら走り始めた電車の後ろでくるくる廻っている。これから学校へ向かうであろう高校生の楽しげな話し声の相まってなんだかわくわくしていた。が、眠気に勝てずマフラーで朝日を遮り、眠った。次にマフラーから顔を出した時、よりまぶしくなっていた。目の前で学校に向かっていた高校生たちが学校に向かうために下りたのにも気づかないくらいには眠っていたんだなあ。ちょっと視界を広げると乗客は発車した時よりほとんどいなくなっていた。各々の目的の駅に降り立っていったようだ。左前に座っていた人は一緒に気仙沼までほとんど眠って乗りとおしたが、通勤のようでこの風景に慣れた気配を醸し出していた。日常だなあ。
 気仙沼に到着し、BRTに乗り換えるべく進路を確認していると、通勤の人は改札へ進んでいくのが見えた。どんな仕事をしているんだろうと考えかけたところで、脇を大きなキャリーケースを引く同年代の人が通り、BRT乗り場に進んでいく。どんな目的地がその先にあるのだろうか。ふるさとなのかな。
 説明の順序が交差してしまうがご容赦願いたい。私が気仙沼駅のホームに降り立ち、一番に思ったことは電車のホームだけではなくBRTの停留所がシームレスにつながっている特殊さである。BRTの説明はひとまず簡単にするとしたらJR東日本が運営するバスで、停留所はGoogle Mapで表示するとJRマークの付いた駅として出てくる。実際、陸前高田駅には駅舎があり、みどりの窓口もあるが停まるのは武骨な電車ではなく赤くてかわいいバスだ。バスだが駅と駅をつなぐものであるためか、気仙沼駅は改札内に停留所があり、そのままほかの自動車の通る道路とは別のBRT専用の道を途中まで進むことになっている。改札を通らないと乗れないバスは戸惑う、それだけで一気に異国に来たような仕組みの違いのように思えた。実際BRT乗り場の列は少ないように見える地元の人、初めて来たような人や大きな荷物を持つ人や旅人のような人が束ねられ、一人一人のぎこちなさを編みこんだ糸のようになっていた。BRTが来ると糸は針に糸を通すようにスムーズとは言い難い様相でバスの入り口からそれぞれの座席に収まっていった。車内は普通の路線バスの座席で二人掛けの席にそれぞれ一人で座ってもちょうど収まるほどの人が居た。
 発車時刻が来るとバスは気仙沼駅からBRT専用の道路をスイスイ進んでいく。最初の数駅は地元の人と思しき人が日常で降りていった。それからバスは、かつてここはかつて鉄道のレールが通っていたんですよ、とやさしくも渋い顔で語りかけてくるような古くて小さいトンネルをくぐっていく。トンネルひとつひとつに印が残っているが今は使われていないのかもしれないな、とこのトンネルをくぐっていた電車への想像に耽る。いよいよ“かつての”日常のおもかげが顔を見せ始めたので心でそっと挨拶をしてみた。こんにちは、新潟から来ました。
 、、、ほんとうに来たんだ、という気持ちになってくるのと同時にバスはBRT専用道路から飛び出し、生活道路を進み始めた。少し進むと大きな道路に出た。バイパスみたいな感じ。見たことない標識が目の前に現れる。「この先津波浸水区域」とそれから黒と黄色で波が描かれたいかにも危機感を煽るその言葉を意味する記号が一定のリズムでちらつき始める。なくなる時もあるので明確な線引きがあることを意識させられる。見えない線が見えるようになっている。その時は見えていたのかもしれないし安全のためには必要な線だろう。がその人を寄せ付けない黒と黄色のしつこさはそれだけでも馴染もうとするやわらかい心が許されていないんだという気にさせる。それでもこのバスに乗っているからにはいくんだと緊張して気持ちを徐々に固くしていくとバスは高速(おそらく無料区間)に突入し、あっという間に高速でワープを果たすと陸前高田に着いた。

続く

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