まぼろしの森

ファンタジーとの向き合い方 〜アースシーを旅して〜

この間、ようやくゲド戦記全6巻を読み終えた。長い旅だった。半年かかってしまった。

中学生の時に、1巻「影との戦い」2巻「こわれた腕輪」を読んでから10年以上間が空いてからの再読だ。
今一度1巻から読み直し、6巻まで読んでみようと思うに至ったきっかけのひとつは、作者アーシュラ・K・ル=グウィンの訃報だった。

訃報のニュースをみて、わたしは初めてこの物語の作者が女性であったことを知って驚いた。2巻までしか読んだことのなかったわたしは、ずっと、男性が書いたものだと思い込んでいたのだ。


そして今からここに書くのは、わたしの読書感想文だ。

|ゲドの武勲、そして旅の物語(1〜3巻)

中学生当時、わたしはハリー・ポッターに夢中だった。そこにでてくる数々の魔法に魅せられ、魔法の呪文を覚えたりしていた。
ゲド戦記も魔法使いや魔女が出てくる物語であるし、魔法使いのための学院(ローク)もでてくる。
しかし、そこに登場する魔法は、ハリー・ポッターのそれとは全く趣が違っていた。

魔法使いたちはとても慎重に魔法を使い、ハリー・ポッターのようにいたずらごころに魔法を使うなどということは良く思われない。
むやみやたらに、いたずらに魔法を使うことは、世界の均衡を崩すことになる。それがこの世界の考え方だ。石ころを目くらましでダイヤモンドに見せかけるのではなく、本物のダイヤモンドに変えるにはどうしたらいいのかと、まだ幼いゲドが長に尋ねると、手わざの長はこう答える。

「この石ころを本当の宝石にするには、これが本来持っている真の名を変えねばならん。だが、それを変えることは、よいか、そなた、たとえこれが宇宙のひとかけにすぎなくとも、宇宙そのものを変えることになるんじゃ。」

「その行為の結果がどう出るか、よかれあしかれ、そこのところがはっきりと見極められるようになるまでは、そなたは石ころひとつ、砂粒ひとつ変えてはならん。」

とにかく魔法を使うことに対する姿勢が厳格で、そのひとつひとつの行為に重みがある。砂粒ひとつに、宇宙の重みだ。

しかし、その重みに、魔法の哲学に、当時のわたしはリアリティを感じていた。そこに出てくる魔法の重さには、どこか真実味があった。それはハリー・ポッターにでてくるアグレッシブな魔法とは全く違う面白さがあった。

心踊る冒険譚とは言えないし、華やかなラブロマンスもない。
一巻で自らが呼び出した影に追われ、影に怯え逃げ惑うゲドは、とにかく孤独で、読んでいるこちらも苦しい。舟旅が多いのも特徴で、大海原にぽつんと漂うはてみ丸の姿は、想像するだけで心許なく、寂しく侘しい。

ただ、1〜3巻に共通するのは、旅の終わりは、いつも2人ということだ。

このことに、わたしはすごく強い意味を感じていて、非常に孤独を感じるシーンの多いゲド戦記だが、何かを成し遂げる時、人は一人ではそれを成し得ないのだと感じる。

たしかに「影との戦い」で、最後自分を追ってきた影を抱きとめ受け入れる時、ゲドは一人であったかもしれない。でも最後のその旅路についてきていた(はてみ丸に残って待っていった)エスタリオルの存在がなければ、彼は影に食われていたかもしれないと思うのだ。


2巻では、墓所の大巫女として育てられ、外の世界とは隔絶され、孤独に生きてきたアルハ(テナー)が主人公だ。テナーは墓所の地下迷宮の暗闇の中で出会った魔法使いゲドに心を動かされ、最終的に彼についていくことを決める。その時ゲドはこういうのだ。

「とうとう、わたしたちふたりを自由にしてくれたね。」
「ひとりでは、誰も自由になれないんだ。」

そうして墓所を脱出し、晴れて自由の身になったテナーはしかし、初めてみる海の上で、自由が怖くなって泣いてしまう。

ー彼女は悪の奴隷となっていたずらに費やした歳月を悔やんで泣き、自由ゆえの苦しみに泣いた。彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。(中略)自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択はかならずしも容易なものではないのだ。

初めて読んだ中学生当時、このシーンは衝撃的だった。わたしはまだ子供で、自由というものに対して憧れしか持っていなかった。そこに重さがあるなんて想像もしなかった。

だけど、自分の全ての過去を断ち切り、初めて見る海を渡り、言葉も通じない世界へ向かおうとするテナーにとって、自由とは得体がしれず、非常に苦しいものに感じたことは想像できた。

実感としてはまだわからないまでも、「自由の重さ」というその言葉は、その当時のわたしにもズシリと静かにのしかかったのを覚えている。


そして、3巻「さいはての島へ」では、その旅路は最初から終わりまで、ずっと二人だ。旅の連れは、まだ若いエンラッドの王子アレンだった。

「あなたはいつもひとりだった。いつも、ひとりきりで、旅に出てゆかれた。それが、こんどに限って、なぜ、連れを求めなさる?」

そう呼び出しの長に問われると、ゲドはこう答える。

「今までは他人の助けはいらなかった。」「ところが、ここへきて、格好の連れが見つかったんだ。」

的確な答えはないまでも、何かを予感していたのであろう。
そして旅が進むにつれて、若い連れに大賢人はこう語るようになる。

「自分は供を連れてきた、とそう思い込んでおった。だがな、アレン、ついてきたのは、わしのほうだった。わしがそなたについてきたんだよ。」

そう、実際に「さいはての島へ」では、主人公はアレン(レバンネン)なのだ。しかしこれも、ゲド一人でもアレン一人でも、どちらかが欠ければ旅は終わるどころか始まることができなかっただろう。

3巻の旅は非常に長い、そして様々な島をめぐる。読者は巻頭についているアースシーの地図と見比べながら、その旅路をたどることになる。海の上で、何度も日が昇っては沈んでいく。星が瞬いては、消えていく。そんな描写がとにかく多い。そして気づく、この若い王子は昇りゆく太陽なのだと。そして老成した大賢人ゲドは、沈みゆく太陽なのだと。

そして二人の舟旅は、世界の均衡が崩れ始めた原因を探りながら、「生」と「死」についての問答を繰り返し繰り返し進んで行く。

そして物語の終わり、石垣の向こうの「黄泉の国」を通過し生きて帰ってきた二人は、アレンはレバンネン王となりハブナーの玉座につき、ゲドは全ての力を使いきり、魔法の力を失い、杖も舟もさいはての島へ置き去りにしたまま、竜の背に乗って故郷ゴントへと帰っていく。

昇りゆく者と、沈みゆく者。獲得する者と、失う者。それらと「生と死」というテーマが重なり合っていきながら、物語は完結する。

長い長い旅を終え、地図の果てまで行き着いて、哲学的な問答の末に、アースシーという世界は完全なものになったのだと、そう感じた。

この3巻までが、アースシーの世界の中で語られている「ゲドの武勲」の内容だ。
つまり、ここまでは、大賢人ゲドの「英雄譚」でありアースシーの中の「伝説」なのだ。

しかし、物語はここで終わらなかった。

|ファンタジーの解体、そして再構築(4〜6巻)


●英雄のその後

あまりにもきれいな幕引きだったので、正直このあとにさらにまだ3冊残っていることにわたしは困惑していた。これ以上この世界で何を語ることがあるのか。番外編的な物語ならば蛇足なのではないかという思いもあった。そのくらい、3巻までの物語は完成されて、強かった。

3巻が発売されてから4巻が発売されるまでには、18年という間が空いている。

実際リアルタイムで読んでいた読者たちは18年もの時を経て続編が出されたことに戸惑っただろう。

実際3巻を読み終えて数週間しか間をあけていないわたしですら、戸惑った。そこには、3巻まで積み上げてきた世界の価値観を、一からひっくり返すような物語があった。

なぜ魔法使いは男しかいないのか、女の力は卑しいものとされ、女で力を持つものは村のまじない師になるか、魔女になるしかないのか。
ロークに入って学べるのは男と限られているのはなぜなのか。
竜は一体、何ものなのか。
女の力とは、男の力とは、そして竜とは、人とは。
石垣のもつ分割の意味とは。再び、生と死とは。

哲学的な問いかけともに、今度はそうした社会的、政治的な問いがアースシーという世界を根底から揺るがせていく。

4巻「帰還」の主人公(語り手)はかつてアチュアンの墓所からゲドに救い出された少女テナーである。あのあとゴントに移り住んだテナーは今や二人の子供を育て上げた寡婦であり、強姦され暴力を振るわれたあげく火の中に放り込まれ大火傷を負った子供テルー(テハヌー)と暮らしている。

3巻まで英雄として語られていたゲドにはもう、何の力もなかった。魔法は使い果たされ、その力はすべて失われていた。彼はもはや魔法使いでも、ましてや大賢人でもなかった。ただ一人の年老いた男になってしまっていた。

それだけではなかった。

力を失ったゲドが落ち着きがなく、何かを恐れている様子なのを不思議に思ったテナーが村のまじない師であるコケばばに相談すると、コケばばはこう答えるのだ。

「やっぱり、年寄りが15の男の子でいるってのは妙な感じのするもんでしょうよ。」
「あの人たちは自分にも魔法をかけてしまうんです。なかには、結婚はもうやめたとかなんとか言って、誓いなんか立ててね。そうやって力を手に入れる人もいます。」

なんと、魔法使いの多くは、彼らは自らを去勢することで(女と関わりを持たないようにすることで)力を保とうとしていたのだという。煩悩退散と悟りに入る仏陀さながらだ。

たしかに3巻までにラブロマンスの要素はない、といえばない。
2巻で、ゲドがテナーに「暗がりに浮かぶあんたは、美しかった」といい「今はすべてのものをあんたにあげよう。わたしの真の名はゲドだ。そして、この名はもう、あんたのものだ。」と言い、ふたつに割れたエレス・アクベの腕輪を合わせ、その腕輪をテナーの手首にはめる様はまるでプロポーズじゃないかと思っていたが、二人は抱き合うこともキスすることもなく、また、ゲドはテナーをゴントに置いて、再び旅へ出てしまう。

この「帰還」において、ようやくゲドとテナーは体を重ね合わせる。

完成され、完全だと思われたものに足りなかったもの。英雄譚を完全にせしめる上でこうした「色恋」や「女の魔法(女の力)」といった要素は卑しいものと、俗っぽいものと意識的にか無意識的にか排除され、物語はどこか去勢されていたのかもしれない。



●新しい風、テハヌーとアイリアン、そして恋人たち

読み返せば一巻の冒頭から「もろきこと、女の魔法のごとし」「邪なること、女の魔法のごとし」という言葉が出てくる。

ゲドの師匠、オジオンでさえも一巻ではこう言っている。
「女が仕えておる力は、わしが仕えておるのとはちがうんだ。女が何を考えておるか、わしにはわからん。だが、よいことをたくらんでいるのではないことだけはたしかだ。」

だけど4巻を読むまでそんなこと気にも留めなかった。魔女が卑しい力をもつものとして描かれることはおとぎ話ではよくある話だったから。

3巻までの世界観には、そうした女の力を邪なものとみなし、ラブロマンスを俗っぽい低級なものを見なすような視点があるように感じていた。

わたしが昔ゲド戦記を読んだときに何となく「作者は男性だ」と勝手に思い込んでいた要因は、おそらくそこにあったのだと思う。

しかし、18年の月日を経て、ル=グウィンはそうした自らが作り上げた世界を、(王なき間その政治の中心であった)ロークの学院を、解体していく。

ゲドが大賢人出なくなったのちのロークでは、新しい大賢人を選出できないまま月日が経っていた。そしてまぼろしの森で開かれる長たちの会合の中で、様式の長のアズバーは突然カルガドの言葉で ー彼はテナーと同じカルガドの出身でこの世界ではマイノリティとされる白人であるー ひとつの予言を口走る。

「ゴントの女」と。

それは長たちに衝撃を与えた。なぜなら、彼らにとって「女」が大賢人になることはもちろん、ロークに関わることすら考えられなかったからだ。
ロークの学院に女を入れてはならない。それは彼らにとって揺るがぬ掟だった。

5巻「ドラゴンフライ」で女人禁制のロークに学びにやってきたというアイリアンは長たちの物議をかもす。アイリアンは「自分が何者なのか知りたい」のだという。しかし、呼び出しの長を始めとする5人の長に反対され学院から追い出されてしまう。

その後、まぼろしの森でいく日か過ごしたアイリアンは、自分の味方でいてくれる様式の長であるアズバーに、こう告げる。

「ひょっとしたら、わたし、あの人を滅ぼすために来たのかもしれない。」「もしかしたら、ロークをこわすために来たのかも。」

アズバーは青い目を輝かせ、それに答える「やってごらん!」と。

4巻以降に登場する、力を持つ女性たち、やけど痕のテハヌー(テルー)とアイリアン。
そして、妻を亡くした(正式な魔法使いではない)男まじない師のハンノキ。魔法の力を持ちながら、愛を失くさなかった男。彼が、石垣への道案内人となるのだ。

そう、ここでは、これまで卑しいものとして排除されてきた力が、新たな世界を切り開いていく。

女たちの力は度々、「大地の力」と結びつけられる。
しかし、その力あるテハヌーとアイリアンは最後、竜となり「天」を舞うのだ。

男と女、人と竜、天と地。そうして分けられていた、分断されていた力がひとつに統合されて新しい風を生み出す。新たな風は、分割のための石垣を壊し、ロークの壁を壊していく。石垣で分かたれていた恋人たち(ハンノキとユリ)は手を取り爽やかにかけていく。

そして、2人の女性は今や竜となってアースシーに新しい風を吹き込んでいく。

そうして風が吹き抜けたアースシーは、今や見慣れたあの巻頭の四角い地図にはもう収まらないのではないかと思う。竜たちは、そして石垣の向こうに閉じ込められていた亡霊たちは、あの地図の外へ飛び立ったのだと、わたしには思えた。


●ル=グウィンのまなざし

ここまで緻密に(こんなにもしっかりした地図まで用意して!)作り上げた世界を、堂々と壊していく、ル=グウィンその人自身が、もはや竜だったのではないかと思ってしまう。

わたしは一応作品を作る作家のはしくれであるから、一度完成したものを壊すことの恐ろしさも難しさも、そこからもう一度再構築していくことの困難さも、少なからず理解しているつもりである。

だからこそ、あの4巻「帰還」を書き、6巻「アースシーの風」までを書き上げたル=グウィンという人に、尊敬の念を抱かずにはいられない。

1巻から続く魔法の力に対する慎重さも、ロークを壊しにきたというアイリアンの炎のような激しさも、ル=グウィンその人の、ファンタジーに、アースシーに向き合う真摯な姿勢そのものだったのではないだろうか。

竜の炎を内に抱え、しかし砂粒ひとつの重みを忘れることなく、ファンタジーに向き合うまなざしを、わたしはこの物語に感じたのだ。

きっとこの人は、ゲドがはてみ丸を降りたその後、自分も舟を降り、アースシーの土を踏みしめ、歩き続けたのだろう。4巻以降の物語にはたしかに、そうした足の裏の確かな触感があった。

アースシーという異世界のひとつの現実をわたしたちに物語るために、彼女はこの地を何度も何度も、歩いたのだろう。わたしは5巻「ドラゴンフライ」のまえがきがとても好きだ。

アースシーにもどってみたら、まだそれはそこにあって、わたしは大喜びしてしまった。なつかしかった。だが、変わっていた。今もなお変わり続けている。起こるだろうと予想したことと実際に起こっていることはちがっていた。人々も、わたしが考えていた人々ではなかった。すっかり頭に入っていると思っていた島々で、私は道に迷い、途方に暮れている。
というわけで、これは私の探索と発見の報告書である。


ファンタジーという現実との向き合い方のヒントが、ここには書かれている気がするのだ。


(こちらもどうぞ。続きです→「ファンタジーとの向き合い方② 〜魔法を信じるか?〜」


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