メランコリー中毒
可哀想な自分を生かすために生きていた?
「つらいのはみんなおなじ」
なんて言葉大っ嫌いだったよ。
メランコリー中毒
自分は可哀想でもなんでもないと気づいてしまった。
もっと不幸せな人もいること。でも苦しさや痛みなんて比べられるものじゃない、でしょ?
たしかに可哀想だった、わたし。恵まれた環境にあるにも関わらず病んでるし死にたいんだもん。私は私の辛さしか知らなかった。視野の狭さと柔軟性に欠ける頭、可哀想だったね。そりゃキャパオーバーにもなる。
でももう大丈夫。拡散したアイデンティティをかき集めて、匿うふりをして心に幽閉しちゃおうねー
生だけが美しいのかよ
なんで辛くて死にたいかなんて分からないし、もう分からなくてもどうでもいい。
生が尊くて美しくて、死は哀しく哀惜すべきものなんだろうか?
そう世間の風潮に教わった気がしていた。
身近な人を失う辛さをまだ知らないからこんなことを言っていられるのだろうか。
可哀想な自己陶酔
辛いのに頑張ってる自分が好きだった。脳内で悲劇のヒロインぶっていることで心を保っていた。
自分から人に近づかず、自分に近づいてきた人とだけ仲良くした。傷つく確率を下げるために。
自分のことが大好きな自分が大嫌い。
強い自己愛、高いプライドが身の丈に合っていなくて見てられない。私の見下し癖もここに由来するんだろうなきっと。
ただ生きるだけ
案外、生きることなんて大したことないことなんだと思った。
何者かでいなきゃいけないなんてことは無い。それに取り繕ってるつもりでも案外ありのままの自分というのは隠せないもので。
他人のことを考える前に自分のことを考えろ。周りばかり見ていたら、自分に焦点が合わせられなくなっていく気がする。
自分も他人も過信しない。過大評価しない。
事実は事実のままなんだから。
言い換えれば、期待しない。
他人に期待しない
あ、超身近に他人に期待してない人いたわ、両親。この人と結婚して良かったなって思うところある?って聞いたら、「干渉してこないところ笑」「たしかにー笑」と言っていた。
私はこの夫婦の形がとても好きだ。
わたしも、束縛/干渉がいちばん嫌い。
すごく平和だと思う。
でも、好きな人と結婚するってなに?という状態になっているのが少し困る。
恋バナは冷めすぎて退屈。
好きな人、なんて干渉し合ってなんぼだから。私は誰かの為に勝手に苦しまない。
恋というものがすごくすごく遠くに感じる。もはや別の世界のものに感じる。それ故に憧れもある。でもそれは憧れのまま飾っておくだけだ。
もう、タイトル“メランコリー中毒”からは脱線しまくっているが、いや、そもそも私は内容を書いてから最後にタイトルをつける派なのに、慣れないことをしたから本題が定まっていないだけか。
最近思った良い小説とはどんなものか
最近小説を読んでいて思った。私の思う良い小説。
小説は読み手の想像で完成される。でもそれは作家さんの素晴らしい言葉あってのものだけど。
知らないものは想像するのが難しい。でも、少しでも自分に重なるところがあったら?
良い小説は、誰もが“自分もそうかも”と思えて感情移入しやすいものだと考えた。
良い小説の登場人物は、心理の擬人化なのではないか?と思った。
私が小説にのめり込むのは自覚は無くとも“わたしもそう!!”と思っている時のような気がした。
事細かに描写されてしまっては“わたしとは違う”になってしまう気がする。
小説を通して、自分はどうか?を改めて考えられる小説は、良い小説だと思う。
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