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”どうしようもない私”を赦すこと│自己愛と自己肯定感について

 「自分に自信がある人」と聞いて、どんな人を思い浮かべるだろうか。太陽のように周りを照らし、何事にも果敢に立ち向かい、常に自信に満ち溢れていて恋愛も仕事も何もかもうまくいく、というような人?あるいは自分のことを素晴らしい人間であると思える人?

ポジティブなことは基本的にいいことである。だから、 自信のある人はみんなポジティブ、みたいにイメージしてしまいがちである。何事にも常に前向きで、自分の長所を活かしていける人には憧れるし、自分に自信の無いときは、そういったマインドを持ちさえすればうまくいくような気さえしてしまう。

でも、元から自信がなくて「自分はダメだ」と思っている人が、いきなりひとつ飛びに「自分を素晴らしい人間である」と思い込もうとしても、必ず綻びが生まれる。だからこそ、その前段階として、「ネガティブな自信」が必要になってくる。
 ネガティブな自信とは何だろう、その言葉自体がかなり矛盾を孕んでて、想像しがたい。私は必ず待ち合わせに遅刻する自信があるとか、道に迷うことに確信を持っているとか、部屋を散らかすことおいてには才能があるとか?

そのどれも似ているが違う。極端に言えば、「ネガティブな自信」とは、「自分はクズで何の役にも立たないが、何とか生きていける」という最低限度の自信である。そして「ネガティブな自信」 を定義付けるとするならば、自分の負の性質を自分のものとして受け入れることによる、自己存在への確信である。これに近い概念が、「自己肯定感」で、それとは異なっているが混同されがちな概念が「自己愛(ポジティブな自信)」である。

自己愛と自己肯定感の違い

 自己愛とは「自分を愛すること」で、自己肯定感とは「自分の存在自体を肯定すること」である。単純な要約をすれば、自己愛は”条件付きの愛”、自己肯定感とは”条件なしの愛”と言えるだろう。
 たとえば、太っている自分に自信がなくて、痩せてダイエットして、自分は綺麗だと愛せるようになること、頑張って勉強していい成績をとって親に褒められて自分を認められること、これは「自己愛」の獲得であると言えるだろう。このときの自信とは、「◯◯ができる(〇〇である)から、自分は特別な人間である」という風に自分を思えるようになることである。

対して、「条件なしの愛」、つまりは「自己肯定感」は、「自分は何の性質も持っていない(あるいは、良くない性質を持ちえている)が、それでも存在してて良い」という確信を持てることだ。前者が「特別な自分」を想定しているのに対し、後者は「平凡(あるいはそれ以下)な自分」を想定している。

”条件付きの自信”の行く末

 自己啓発本などで唱えられる「自信のつけ方」にありがちなのが、「成功体験を積み上げることによって、自信を得よう」というようなものだ。成功体験を積み重ねることによって、確かに自信は得られるだろう。

条件付きの自信には、「成長」「進歩」「よりよい自分」といったポジティブなイメージが付随されるため、それを無批判に受け入れている人も多い。現在の社会では、「成長」や「向上心」と言った言葉は、良いものとして捉えられているし、経済も社会も、よりよい自分を目指したい、と思う欲望を基にして、回っている。もし人間に向上心がなければ、社会の構造は今とは全く異なっているだろう。

”条件付きの自信”に依存することの弊害

果たして、条件つきの自信の何が悪いのだろうか?
そのひとつには、その際限のなさが挙げられる。「よりよい自分」になることによって得られる自信には、終わりがない。自分の容姿にも中身にも自信がない時は、ダイエットして、整形して、性格を良くして、勉強して、出世して、お金を稼いで、たくさんの友達を作って、素敵な恋人を作って結婚して、余暇も惜しまず”自分磨き”をすれば、自信に満ち溢れた自分を得られるのだろうか?

 否。そんな素晴らしい自分なんて、はなから存在しないのだ。「自信に満ち溢れた素晴らしい自分」という架空の理想を追い求めるというのは一見耳障りがよく聞こえるだろうが、それをずっと続けていても、埋められない理想と現実とのギャップに徒労感が増すばかりである。いうなれば、終わらないパン食い競争に参加をさせられているようなもので、ひとつの目標を達成したところで、次の目標がすぐさま吊り下げられている。 言葉を良いように言い換えれば”成長”であるといえるだろう。短期目標を細かく設定し、それを何度も繰り返すことは、端から見たらとても成功している人に見える。
ただ、その人が本当の意味で自己を肯定できているかどうかは、他者からはわからない。もしかしたら、成長した自分に自信を持つ一方で、それ以前の自身を唾棄すべきものとして切り捨ててしまっているかもしれない。努力できない他者を見下しているかもしれない。
(一例として、ダイエットや整形で人生が変わりました!という人が、以前の自分の姿を過度に貶したりするなどと言ったことがあげられる。)

 また、”条件付きの自信”の場合、この自信という、パン食い競争で言う所の”報酬”が外部から与えられているものである、ということも言える。
つまり”条件付きの自信”では、他者からの目線が、自信をつけるまでの過程に含まれているのである。巷に溢れている広告などでは、購買者を煽るために、過度にこの”条件付きの自信”を得させようとする。「脱毛して/ダイエットして/整形して/英語を喋って/資格をとって/育毛して/お金持ちになって/肌を綺麗にして」、そうすれば、理想の自分を手に入れられますよ!という風に宣伝される。(最近のYoutubeの早口漫画広告のような感じ)ここでは「現状の自分」を否定し、「特別な自分」を目指すように仕向けることで、「このままではいけない」という不安感を消費行動につなげようとする。なぜなら、「ありのままの自分でいい」というメッセージを出そうものなら、上記に挙げたような消費行動をとることはないからだ。

 さらに、条件つきの自信(自分は◯◯ができるから特別な人間であると思うこと)の弊害として、その”条件”がなくなってしまった時、その自信がぽっきりと折れてしまう恐れがある、ということが挙げられる。「自分は◯◯ができるから特別な人間である」と言い聞かせていたのに、ある日突然、それができなくなる(あるいは自分がそう思い込んでいただけで実際はそうではなかったことに気づく)と、それがすぐに自分の存在価値の否定につながってしまうのだ。勉強ができると思って、そこに自分の存在価値を置いていた人が、レベルが上の学校に進学して周りと比べた自分の能力の低さに絶望し、ドロップアウトしてしまうことなども、その一例だろう。

過剰な自己愛から生じる他者への蔑視

 条件付きの自信を得ている人(かつ自己肯定感のない人)は、その条件から外れる他者に対して厳しい目を向けてしまう、ということもありうる。「◯◯ができるから自分は素晴らしい人間である」と思うことは、裏を返せば、「◯◯ができない人(〇〇である人)はダメである」と、簡単に他者を糾弾する理由にすり替えることが可能になる。

 自己愛の著しい肥大化には自己愛性パーソナリティ障害という病名がついているが、その症状をいくつか挙げると以下のようなものがある。自己愛性パーソナリティ障害患者は賞賛を受ける必要があるため,患者の自尊心は他者からの肯定的評価に依存し,このため通常は非常に脆弱である。

自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
・人の感情や感覚を認識しそこなう
・目標を達成するために他者を利用する
劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
脆く崩れやすい自尊心を抱えている

 ”条件付きの自信”を過剰に持つことによって、自己が(自分は途方もなく優秀である、という風に)歪んで認識され、それが他者への不寛容へつながってしまう。他人を自分より優れているか、劣っているかという尺度で見て、対人関係もうまく築けず、そのくせ自尊心は脆く崩れやすい。

 劣っていると感じた人々に高慢な態度をとることも自己愛性パーソナリティ症状の一種として挙げられているが、社会的弱者を著しく攻撃したがる人は、この自己愛による自信が過剰であるためではないか、というふうにも考えられる。例えるなら、愛国心の強い人がナショナリズムに陥る、といったようなことである。
誇りやプライドというものは、差別や抑圧の温床にも成り得る。そして、それらは簡単にイデオロギーにも利用されてしまう。話は逸れるが、アドルフ・ヒトラーがユダヤ人差別を推し進めるのにドイツ国民の愛国心を煽ったのも、人間の所属による自己愛を肥大化させて他者を攻撃させる一例と見ることもできるかもしれない。

「自分に自信をもつこと」は、その程度によっては、良い側面ばかりという訳ではないことが言えるだろう。それなら、自信をもつことはすべて悪なのか?というと、そうではない。大事なのは、自分の存在をより正しく認め、肯定することだ。

 ここまで自己愛(ポジティブな自信)について批判的に述べてきたが、ここからはその対立概念として、自己肯定感(ネガティブな自信)について考えていきたい。

ネガティブな自信≒自己肯定感

自己肯定感とは:現在の自分を自分であると認める感覚。
(下位概念:諦観・帰属・独立の3つの概念により構成されると仮定)
-Wikipediaより引用

 自己肯定感とは、自分で自分を「素晴らしい人間である」と騙して言いくるめることではない。むしろその逆だ。自分の醜くてどうしようもない部分を丸ごと認めることである。自己肯定感のない人がいくら成功体験を積んだところで、穴の空いたバケツに水を入れるようなもので、結局は満たされない。

  身も蓋もない話であるが、自己肯定感を持てるかどうか、というのは生まれ育った環境にかなり依存する。親からの愛は”無条件の愛”の最たるものだ。
 親からの無条件の愛を与えられず、暴力や虐待、ネグレクト、過度な躾や教育によって条件付きの愛を与えられてきた人は、そもそも「自分は何者にも責められず存在していい」という意識が薄い。虐待の経験はなかったとしても、例えばいじめであったり、他者あるいは社会からの刷り込みによって、自己肯定感を失い、条件付きの自信しか持つことが出来ない、という人は案外多いだろう。自己肯定感を持てないことで、自分のことを受け入れられずに、他者との関係が上手く築けなかったり、外部からの価値基準に振り回されてしまったりする。

倫理的な正しさを超えた先にある肯定

 綾瀬まるさんの著書に「あの人は蜘蛛を潰せない」という小説がある。薬局勤めの28歳独身女性である主人公の梨枝は母親に「みっともない女になるな」という呪縛を受けて育つ。彼女は作中でこう話す。『吐くなら水場、恥ずかしい洋服は着ない、人に迷惑をかけない、大きな声を出さない、みっともないことはしない、そういうものから、出られないの』

 梨枝の母親は、子を虐待してるわけでも育児放棄してるわけでもないが、「みっともない大人になるな」という母の言動から彼女は大人になっても逃れられることはない。でも、きちんと育ててくれた、大学まで行かせてくれた。好きなご飯を用意してくれ、服もなんでも買い与えられる。なので彼女は自分の母親は「いい母親」だと言い聞かせる。嫌いな筈なのに、兄夫婦に適当に扱われる母を「かわいそう」だと思ってしまう。
 この小説では、彼女のそんな屈折した自意識が丁寧に描かれており、親との関係性のうちに育まれる自己肯定感がいかに重要かということが示唆されている。
人に迷惑をかけずに生きなさい、というようなことを躾けられてきた人は、(特に日本においては)少なくないだろう。ただ、人に迷惑をかけずに生きられる人というのはこの世に存在しない。

 産まれたての赤ちゃんを見たらわかるように、そもそも人の手を借りずに生きていけるように、私たちの身体は設計されていない。そもそもこの世に生まれ落ちた時点で、生みの親に、周りの人に、多大な迷惑をかけている。息を吸って吐いているだけで、生きているだけで、人は多かれ少なかれ誰かに迷惑をかけているし、もっと強い言い方をすると、誰かの加害者たり得る。

必要なのは、”他人に迷惑をかけずに生きること”ではなく、”他人に迷惑をかけている自分”に自覚的であることだ。そして、「人に迷惑をかける役立たずの自分」の存在を諦念とともに受け入れること。そうすることで、正しいとか間違いであるとかいったことを超えた肯定が得られる。

 自己肯定感が低く自己愛が過剰な人は、自分より劣っている人を見下そうとするが、反対に、自己肯定感を持っていて自己愛が適切なひとは、社会的弱者を断罪せず、正しいか悪いかという基準を超えてその存在を肯定しようとする。村上春樹の有名な卵と壁のスピーチでは、まさにその「正しさ」を超越した肯定について話されている。

 ”高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ。そう、壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、私の立ち位置は常に卵の側にあります。何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。”

 彼はここで、「弱いものは正しい」というのではなく、「正しいか悪いかはわからないが、それでもその味方に立つ」ということを言っているのが興味深い。この姿勢が、自己肯定感を持つ上での考え方と似通っているように思う。

 こういうと語弊があるかもしれないが、自分への「諦め」が、自分に自信を持つことの第一歩になると思う。全部諦めて丸裸になった時、残っているものは何か?というと、自分という存在、ただそれだけである。

 ここで言う「諦め」というのがとても肝心で、「何の役にも立たないどうしようもない自分」を「まぁしょうがないよね」と言うふうに突き放すこと、あるいは期待しないこと、が自己肯定感を持つ上で重要になってくる。大分前に流行ったアナ雪の劇中歌(話題が古い...)では、「Let it go」が「ありのまま」と訳されていたが、原文の「放っておいて」というようなニュアンスがこの「諦念」に近いのではないかと思う。(参考記事→"Let it go"と「ありのまま」の違い

 自己肯定感を持つためには何か新たな成長のための行動を始める必要はなく、そのままの自分を放ったらかしにして、考え方だけを変えるだけでいいのだ。これは自信をもつための最終段階というわけではないが、自分に自信がないという人は、まずこの段階を踏む必要があると考えている。

 基本的に、人間は自分のことを客観視することなどできない。自分が自分を評する時には、絶対に、100パーセント、主観が入り込む。だから、血液型や星座や誕生日で占ったり、心理テストや性格診断を使って、「あなたはこういう人間ですよ」といってもらうことで、安心するのだ。そして、「そうそう、私はこういう人間!」という客観評価を経た主観的評価を、信じ込むことで心の安定を保つ。
 なにが言いたいかというと、自分が自分のことを評する時、だいたいその評価は間違っている、と思っておいたほうがいい、ということだ。 この世にはなんでもできるスーパーマンもいなければ、何もできないダメ人間もいない。「自分には何もできない。」と絶望の淵に立たされた気分になる時、それは自分の理想像を過大評価しているか、自分の成し得たことを過小評価しているかのどちらかだ。

勉強が出来なくても、運動が出来なくても、秀でた才能がなくても、容姿に自信がなくても、恋人がいなくても、友達が居なくても、意地悪でも、怠惰でも、何をやっても上手くいかなくて、自分に自信がなくても。

そんな自分を、無理して愛さなくてもいいと思う。けれど、そっと猫の背を撫でるくらいの愛はあってもいいはずだ。自分を好きになるのは、そのもっとずっと後でいい。

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