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「本に呼ばれる」ということがある

「本に呼ばれる」ということがある。

たとえば本棚に雑然と並ぶ本の一群をながめるとき、一冊の本からするどく発される声なき声。人は誰しも、意識の奥底にその孤独な声を聴きわける耳をもっている。聴覚は自身の経験やタイミングと呼応して、「いま読むべき本」との出会いをみちびく。

同じ一冊の本でも、スルスルと流れるように読めるときと、ページをめくる手が全く進まないときがある。「いま読むべき本」は、まるで生涯の友人と初めてしゃべる夜のように、夢中になって読み進めることをつよく求める。必要はいつでも直感が教えてくれる。

むかし養老孟司が「つまらない本は存在しないが、つまらない読書はある」と言ったように、「読書」とは読み手と本との間に生まれる一つの関係性だ。読み手のいない本はただの紙とインクの連なりにすぎず、物語はすでに息絶えた過去の遺物でしかない。しかし忘れられた場所で沈黙する言葉は、人の記憶と出会う瞬間、あざやかに息をふきかえし、雄弁なおしゃべりを始める。

そんなふうに出会った(正確には"出会い直した")のが、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』である。この物語は、いきなり冒頭でニーチェの「永劫回帰」(全ては永遠に繰り返す)」が援用されて、全体のモチーフが明確に予示される。つまり主人公のトマーシュとテレザが事故で死んでしまうという結末が、あらかじめ読者に知らされるのだ。「どうせ死んでしまうのなら一度きりの人生なんて無意味だ!」という近代化された時間感覚ゆえのニヒリズムの影が、つねに読者につきまとう。

ページをめくる行為が時間の経過を隠喩し、ページをめくるたび死に近づいてゆくこの物語はしかし、最後の最後で読者を裏切る。事故が起きる前夜、田舎町のダンスフロアーで二人は寄り添って静かに踊りながら、「ここに今、幸せがある」と言って終わるのだ。「今ここ」に永遠を与える構造の魔法。二人のかけがえのない「今」という時間が、読み手によって何度でも繰り返されるー。

(自分がいま確かに感じていることは、言葉にしなければすぐにどこかへ消えてしまう。今言葉にしなければ、もう二度とチャンスはないかもしれない)

本に書き込まれた言葉は書き手の分身となり、言葉そのものは沈黙しているが、時をこえて「語り直される」= 「出会い直される」たびに、何度でも息を吹き返す。

本として存在することの可能性ー。数十年後、数百年後、まだ存在していないいつかの日。ホコリをかぶった本棚の隙間から、とつぜん、するどい声で、まだ存在していないあなたの名前を呼ぶ、その世界を想像する。

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