月光と紅茶

ムーンライトティーです

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  • 思考の代謝

    メモ、思考、想起、追憶、またそれらの単語の羅列と連なり

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    人形と自創作に対する様々な解釈と見解を綴ったもの。厳密さなどは求めず肩の力を抜いて見てください。

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人形劇-monologue-プロローグ「初恋」

はじめに  書き始めの頃のものなので文章の拙さは多少大目に見るとして…それ以外の演出などに注目していきたい。 焦点が定まっておらず、主張が分からない。  「プロローグ」ということになっているが書きたいものが世界観なのか、劇的な出会いなのか、少年の人間性なのか、どれをとっても全く足りておらず、結局なにも演出できていない。 読者への歩み寄りが足りていない  言葉のチョイスにおいて、かなり主観的な表現が多い。  少年の感性に合致する人間なら(その文章の拙さ除けば)あるいは

    • 寂しさを

      寂しさを覚える時も、忘れている時も、そこに私が在るのなら、私はいつ命に触れるのだろう。

      • 苦痛

        思い出して痛む痛みは本物でしょうか。 結局、苦しみさえ曖昧な私は何処に在るというのでしょうか。 偽れる痛みが、誤魔化せる苦しみが、確かなものだと言えるのでしょうか。 いったい何に苦しみ、何に傷つき、誰が泣いているのでしょうか。

        • 生き方、自由

          私は“私の生き方”がありそれに従った生きている。それを縛られていると言う人も居るだろう。 しかし人間というのは多かれ少なかれ「こうした方がいい」という漠然とした観念に従って生きている。 ならばどうだろう、自身の選択で、意思で縛られている私の方が自由であると言えないだろうか?

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        人形劇-monologue-プロローグ「初恋」

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        記事

          【戯言】創作における死と、アンデルセンに対する見解

          私は創作物の中での“死”はあまり好きではない。いや、死という演出と言うべきだろうか。また、「好きではない」というのは濁した言い方である。 なぜ好きではないのか。それは死という演出があまりにも簡単にシーンを派手に飾ることができるあまりに、必然性を無視して利用されるからだ。 そのシーンが本当に死でなければならないのか。 その命が本当に死ななければならないのか。 死に代わる演出などいくらでもあるというのに、それらを使わず死という演出で雑に彩られてしまうと感動も薄れるというものだ。

          【戯言】創作における死と、アンデルセンに対する見解

          不気味の谷。それから

           「最近になって“不気味の谷”が科学的に立証された。」という話を耳にした。  それから、科学的な言葉ではなかったんだな〜っと、ぼんやり思い、不気味の谷についてもぼんやり考えていた。  不気味の谷は『人間に似たものがより人間に近づくにつれて好感は高まるが、ある地点のみかえって不気味に感じる』と説明される。  確かに表情がぎこちないロボットなどは不気味に見える。  そうすると、ふと思った。表情と言うより眼なのではないだろうか。目をつぶっていると不気味に感じるイメージがわかない。

          不気味の谷。それから

          美しき其の躰

           思い出す、と言うのは相応しくないのだが、やはり貴女を想うと、その時が愛しく恋しく、安らぎであり、高鳴りであった。  しかし、或いは綻びであり崩怪であり、 また、或いは悦びであり祝福であった。  それは停滞であり永遠であり継続であり、一つの生であった。  貴女の紡ぐ揺籃で眠れることがどれほどの幸福だろうか。 それを知ってなお、私は留まれないことを知っていた。 それはもう疾うに切り捨て、諦めた運命であったから。  その揺籃を引き裂いた私に、与えられるものなどなく、叶えられるも

          美しき其の躰

          エッセンス?

          同音異字、色、部首 ——それは或いはフレーバー、エッセンス。 言葉選びと決め台詞。 自分語りか思い出話。 目に見えるもの、読み取るもの、想像するもの。 拡張性のひとつ。 理念、遊び心、思想、意地。 ——そこにある余念。時間の圧縮。概念の混沌。 何処の感情が共感足る深海と成るか。 good night...

          刺繍

          想いを刺繍に込めて 指針が掻く布面から伝う数多 遊泳心地の太陽 陽炎模様の海 光の向かう処、貴方を見た

          感想

          思考の代謝として思い付きをただ書いてみたがいいのだろうか。 特に何か晴れるわけでもなかったが、それでもまあ、文字を書く時間が増えるのはいいことだろう。 最近はどうにも文字を書くことに消極的だった気がするのでこういった行動はいい結果になりそうである。 しかし、私は継続力のない人間であるから、三日後には飽きてしまっているかもしれない。 まあでも何かを話していると少しだけ落ち着くかも知れない。思考の中で作品に昇華できず書き倦ねているものも多くある。それを多少発散するのも悪くない

          代謝

          面白いことをしたい。 面白いとはなんだろうか。 少なくとも私自身が面白いと感じることであり、また、集客し観測者を増やしたいと考えている。 例えば動画配信であったり、何か創作の企画をしてみたり、独自のコンテンツを考えてみたり。 何らかの形で交流を広げたい。 それは私が独断でのインプット・アウトプットに対してあまり積極的ではないからである。 というか、他者に理解できないものを作りたくはないので、どのくらいが理解足りえる塩梅なのかを把握したいというのが主だろう。 現在、制作中の

          問題

          「問題が解決して欲しい」そういった感情は概ねどの人間にも備わっているだろう。 だがその内の多くの人間は問題を解決することに積極的ではないように見える。 そこから導き出される推測は「人間は問題に対して超自然的な力で解決して欲しいと望んでいる」ということだ。 責任を誰かや何か、不特定な概念の所為にして問題が能動的に解決出来るものだという事実から目を背けている。 目の前の問題を解決したいと思ったなら行動するべきである。 上手くいくことなんてないのだと、そう思って生きるべきである

          象徴

          デ・キリコ 塔 三角定規 オブジェクト 象徴 概念 実像と認知。そらから魂 右目 或いは孤独 或いは出会い 雪 創造

          似と

          似という概念。人形という単語。 ドール、ドール、ドール。 dor、dhole、Dole. カリオストロはどの時点で何をもって人になるのか。 オーキスが人形からオーキスになるまで。 非選択性。 人形の性、故に。 人形は選ばない。 人間の性、選択。 それ故、人と似を切り離すことはできない。 train、連なり、選択、放棄 電車、シルフィードール 好感記憶。 印象記憶。そこから考えついたものなのかもしれない。 シルフィードールはその殆どを覚えない。 しかし人間にとって

          操り人形で見る人形の自由

           「人形」「人形のよう」という表現はときに、他者に操作されてるものや誰かの支配下にあるものに対して使われる。 それは人形の無抵抗な様子や、操り人形などの不自由なイメージからだろう。 だが、操り人形はむしろ自由な人形なのでは? という話をしたい。 「操り人形などまさしく人の手で操作されていて、不自由の象徴的なものじゃないか」 そう思うかもしれない。いや、殆どの人がそう思うだろう。たしかに、操り人形はそういった不自由の代名詞として扱われることの多い概念だ。 じゃあなぜ操り人形が

          操り人形で見る人形の自由

          人形劇-monologue-「ダイヤモンド×ダスト」

           初めに言っておくと、この話は文章の接続が上手くできておらず読みにくい箇所がかなり見受けられる。  少し落ち着いた語り口で進んでいくこの話は「人形(機械人形)とは全く関わりを持っていなかった人間が『運命の悪戯』によって人形に触れ、そして——」と要約できる。 『運命の悪戯』によって物語は人間と人形のすれ違い、その先にあるものを描いていく。  運命の中心となる人形(キャロル・ダイヤモンド)は個性的で、それが少しの情報で表現されている。 (彼女の少しの意地らしさと不器用さには愛

          人形劇-monologue-「ダイヤモンド×ダスト」