【戯言】創作における死と、アンデルセンに対する見解

私は創作物の中での“死”はあまり好きではない。いや、死という演出と言うべきだろうか。また、「好きではない」というのは濁した言い方である。

なぜ好きではないのか。それは死という演出があまりにも簡単にシーンを派手に飾ることができるあまりに、必然性を無視して利用されるからだ。
そのシーンが本当に死でなければならないのか。
その命が本当に死ななければならないのか。
死に代わる演出などいくらでもあるというのに、それらを使わず死という演出で雑に彩られてしまうと感動も薄れるというものだ。
また、死などという誰もが感情を動かされる事象で人の心を動かそうとするなどあまりに軽薄である。
そして、自身の創作物だからと、架空の存在だからと、命を軽んじる行為も好まない。

誰かの死のよって物語が始まる。
名もなき命の死によって物語が動く。
重要人物の死によって物語が転換する。
主人公が殺され物語が終わる。
なんの信念もなくそういった演出が使われれば自ずとその死の重みは失われていく。
死の重みを維持できないなら、死という演出など使うべきではない。
死という演出は本来ならとても強烈な演出ゆえに、正しく使わなければその粗さが目立ってしまう。私はそう考えている。

私はアンデルセン童話が好きだ。といっても幼少期に印象に残っていた作品が多からというのが大きな理由である。
作品を網羅しているわけでもなく、アンデルセンという人物に詳しいわけでもない。ただ、純粋な好意というのはそんなものだと屁理屈を言っておく。

アンデルセン童話は主人公が死ぬことが多いと有名である。
それを知ってなお、死という演出が好きではない私がアンデルセン童話を好むのか。
アンデルセン、キリスト教徒であるから、という説明をよくされるが、私はキリスト教についてよく知らないので、ただの見解を話そうと思う。
 死とは最後である。人間が最後にいかに誠実であり、幸福であるかがアンデルセンの哲学であり美学なのではないだろうか。
どんな人生であろうと、どれだけ誠実であるか、報われるかこそがその人生の美しさと価値を決める。そう考えているのならば、アンデルセンの描く死がどれだけ優しく、慈愛に満ちた、賛辞や弔いにも似た振る舞いに思える。
私の知るアンデルセンは、それは児童向けに修正されたものだったかもしれないが、人の愚かさや醜さを描きながらも、それでも人は美しくいられると、そうすれば報われるのだとそう信じているが故に極悪人を描くことは出来なかった、ピュアで繊細で、そのせいで人を上手に信用できない、信仰心の強い愛国者だ。

だから私は自分の生まれた国を愛していたいとそう思っている。

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