重松清『疾走』と、つながりたいという欲望
最近は重松清の作品を読み進めています。重松清といえば、身近な家族の温かさやほっとするような話が多いのかなという先入観で、実はあまり読んでいませんでした。
ですが、ジャケ買いで『木曜日の子ども』を読み、『十字架』を読み、そして『疾走』を読み…私好みの、ちょっとダークなお話も、実はたくさんあったのです。
ただやはり、アマゾンのレビューを見てみると、ダーク系よりも日常感動系の作品の方が圧倒的に多いですね。そこで今回はダーク系重松作品『疾走』の魅力を書き残そうと思います。
老成した少年〜大人にも子供にもなりきれない悲劇
主人公は、シュウイチの弟である、シュウジ。シュウイチは頼りになる長男で、学業優秀だった。シュウジは兄を頼る典型的な末っ子だ。しかし、成長するにつれて、二人の関係性はいつの間にか逆転する。進学校に入学したシュウイチは、学業不振からいじめに遭い、不登校に。そして放火をすることでストレスを発散していた。
シュウジは、兄ほどの優等生ではなかったが、部活動に勉強に真面目に取り組む中学生になった。しかし、シュウイチが放火で少年院に収容されてから、シュウジたち一家は音を立てるように崩壊していき、シュウジも呑気な子供ではいられなくなっていく。
シュウジの物語は小学生の時に始まり、14、5歳の時点の出来事が中心に語られる。中学3年生は、大人だろうか、子供だろうか。物語の中で、シュウジは性行為を体験し、酒を飲み、煙草を吸い、金を稼ぐ。すっかり声変わりした肉体や生活などのシュウジを取り巻くハードウェアは完全に「大人」だ。
一方で、母親への愛着や、周囲の女性への振る舞いには幼さが残り、子供時代に安心して消化しきれなかった残り滓を抱えたままのソフトウェア=心でいる。そのちぐはぐさが彼の悲惨さを助長しているように見えてならない。
シュウジは家庭でも、学校でも苦境にいる。
しかし、兄が逮捕されたことでバランスを欠いた家庭では、あくまで平常心を保っているように見せ続ける。そして学校でも、陰気ないじめに対してじたばたしたりはしない。彼のなかには、圧倒的な諦念が横たわっているからだ。
本来、経済的にも精神的にも誰かに頼りながら生きていくはずの年齢で、家族を頼れないゆえに老成してしまった少年なのだ。誰も頼ることができない、これから良くなる兆しもないという諦念の行き着いた先は、自己の死というおそろしい考えにつながっていく。そして「死んでも良いや、死んだら良いんだ」という気持ちがさらに諦念を増幅し、自らの命を盾に物語を爆進していくのだ。
シュウジは大人ではなかった。経済力も経験もない彼は、自分の道を自分で切り開くことはできない。自分の前に唯一つだけ残された道を進んでいくことしかできない。ここに彼の悲しさが詰まっていると思う。
シュウジが進める道は常に一つしかない。目の前の草をかき分ければ新しい道が開けてくると教えてくれる大人はいないし、別の道を模索するために一緒に迷ってくれる親友もいない。自分を曲げて群れたり、媚びたりできないように「ひとり」を選んだ彼の宿命だった。
「孤立」と「孤独」と「孤高」、それぞれのしんどさ
シュウジが憧れる女の子は「孤高」であり、シュウジもそうありたいと強く思う。「孤高」は美しく、格好良い。けれども、この物語で終始シュウジが強く求めているのは「ひとり」の強さであると同時に、他者とのつながりでもある。
シュウジが運命を爆走していくとき、そばには必ず誰かがいる。誰かを助けたいと思うときに、シュウジは大きな原動力を得て行動する。しかし、その力は一方的に発信、あるいは他者を守ることにのみ使われ、他者を受け入れたり、守られたりすることを、彼は知らない。
目まぐるしい環境の変化で老成した少年は、頼ることを知らないし、優しくされることも知らないのだ。シュウジを気にかけてくれる人は実はずっといたのに、彼自身が愛情を受信する術を持たないから「孤独」を感じてしまう。
運命に老成を強いられて、生き抜く強さを手に入れた代わりに、無条件に愛され、帰りを待ってくれている存在がいるのに、頼れない。その脆さを抱えることになったのが、シュウジの一番の悲劇だ。そうした不恰好な辛さは自分の中にもあると痛感した。
そう考えると、他者から優しくされるのも、ある種の強さなのだ。他者の優しさを受け入れ、その人が抱える悲しさ、虚しさ、弱さも同時に引き受けるのにも、精神強度が必要なのだと思う。「つながりたい」という欲望は弱さなんかじゃない。
「おまえ」と呼びかける声に応えられるか
本作を読んで最初に気づくのは、二人称で書かれていることだろう。
二人称で書かれた小説とはどのようなものなのか、調べてみると
とあった。
たしかに、語りかけてくるような印象はある。しかし、それよりも気になるのが、誰が主人公・シュウジのことを「おまえ」と読んでいるのかということだ。
シュウジは中盤、名前を呼びたいという不思議な衝動に駆られる。他者とつながりたいという欲望が名前を呼ぶという行為につながっているのだ。
身の回りの人たちの名前を連呼するこのシーンは、この物語のなかでも特に印象的である。「おまえ」と物語の主に呼びかけられるシュウジが、誰かの名前を呼ぼうとする点に意味を見出さずにはいられない。
二人称の物語は珍しいとネットに書いてあった。
しかし、世界で最も読者が多い書物の大半は、二人称で書かれているだろう。聖書である。
聖書は『疾走』の核となる非常に大事な要素でもある。シュウジが出会う神父、そして神父から教えを受けたシュウジたちも、聖書の言葉を何度も引用する。
聖書の「わたし」が「あなた」に呼びかける時のように、物語も「おまえ」とシュウジに呼びかける。ただ、シュウジを「おまえ」と呼ぶ存在は二人いた。
一家全員惨殺の罪で死刑が予定されている神父の弟と、神父の二人だ。
そしてシュウジは神父の弟と会ってから、様子が変わってしまう。深い絶望に落ちて「からっぽ」になった神父の弟と共鳴するように、自分の生に対して投げやりになる。これまで信じてきた「生きなければいけない」という常識が覆り、呪いが解けたことで、シュウジは糸が切れた凧のように疾走していく。
この瞬間、私はこの物語の主人で「おまえ」と語りかけていた人物は神父の弟であり、絶望の底からシュウジに呼びかけているのだとミスリードした。おそらく、シュウジもそう思った瞬間があるはずだ。だからこそ、絶望と諦念に導かれ、命を削りながら焼かれるような痛みの中を進んだのだろう。
しかし物語の終盤で、突如として語り手は神父だと明かされる。
追い込まれて罪を背負ったシュウジは、逃げるために走るのではなく、帰るために走りたいと願う。ふるさとで、シュウジの帰りをずっと待ち続け、シュウジを見守っていた人物こそ、神父だった。
文庫本の後ろに「煉獄の道のりを懸命に走り続けた少年の軌跡」とある。煉獄とは、カトリック教で説く、天国と地獄との間にある所。死者の霊が天国にはいる前に、ここで火によって浄化される、らしい。
救いは、生やさしいものではない
きっとシュウジの心の中から、ありのままの自分を肯定も否定もすることなく受け入れてくれる神父の存在が排除されたことはなかったのだろう。方位を教える星の光のように、ずっと遠くから小さく輝いていたに違いない。その導きがあったからこそ、シュウジはふるさとに戻ってこられたのだ。
シュウジにとってふるさとに戻ることは、罪から逃げ続けていた生活をやめ、ちっぽけで、何者でもない自分に向き合うという贖いでもあった。
「あの頃に戻りたい」という気持ちでふるさとに帰ってきた時、それは懐古的なしょっぱい思いではなく、自分も自分を受け入れるという、新たな痛みを伴う、前向きな決意だったのだと思う。
前へ前へと走り続けることも強さだ。けれども過去に立ち戻り、罪と向き合うこともまた、強さなのだ。
「救いがない」、「今まで読んだなかで一番の鬱小説」という感想も散見しました。ただ個人的には、とても納得のいく、丁寧なお話だと感じました。物語のなかで主人公が背負った罪は、簡単には清算されません。そのぶん、身が絞られるような切なさと、エネルギーを感じる作品でした。
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