見出し画像

「残酷な世界で命を繋ぐ、たとえ歴史の一部でも」―『進撃の巨人』完結編・前編 備忘録

人は、死に方を選べない。

『進撃の巨人』のファイナルシーズン完結編・前編を見終えたあと、一番最初に心に浮かんだ感想が、これでした。

『進撃の巨人』を追い続けて10年。この凄絶な物語から私は、たくさんのメッセージを受け取ってきた。

「選択と後悔」。「人を突き動かす執念」。「対話しようとすることで得る、希望と絶望」。「世界は残酷で、とても美しい」。

宗教観、歴史、戦争、貧富、家族、愛。教科書にできそうなくらいテーマがあり、一つひとつ語っていけばきりがない。

そんな私が、完結編前編からいちばんに受け取ったのが、「死に方を選べない絶望」と、「死を無意味にしないのは生者」というメッセージだった。

見終えてから感情を言語化するまで、時間がかかってしまった。でも、ちゃんとまとめて残しておきたかったのです。

この物語を映像化してくれた方々に、敬意を込めて。感想をまとめました。あくまで、自分の感想です。みなさんの感想もぜひ聞かせてください。

ネタバレをたくさん含むので、まだ観ていない方は、ぜひ本編を観てから読んでいただけるとうれしいです。

※台詞などは思い出しながら書いているため、すこし異なっている場合があります。

絶望を前に人は

ファイナル・シーズンは、地ならしの絶望感とともに幕を開けた。

かつて、エレンが仲間たちと訪れた街。そこで出会った住人を、無差別に踏み潰していく。当時のエレンの苦しみと懺悔とともに、残虐な殺戮シーンが描かれる。

「いい暮らしをしたい」という、少年の小さな願いも。当たり前のように続いていくはずだった日常も。夢も。すべて、巨人により蹂躙されていく。祈りも叫びも届かない。

そんな地ならしを前に、ピストルで脳を撃ち抜いた人物がいた。そのシーンは、トロスト区襲来の際、銃を口内に打ち込んで自害した兵士を想起させた。

「死に方くらい選びたい」

いくらそう願えど、死に方を選べなかった人物は山程いる。誰もが劇的に死ねるわけではない。人しれず、恐怖を感じながら、あるいは感じる暇もないまま、人生を終えた人たちがたくさんいる。

死にたくないと泣きわめきながら死んだミケ。ごめんなさいごめんなさいと叫びながら死んだナナバ。広がる空を眺めながら死んだマルロ。彼らは最後に、何を思っただろうか。思うことすらできなかったかもしれない。

だからこそ、「絶望の中で自ら命を絶つ」という描写が、とても印象的だった。どの死に方が幸せだとか、不幸だとかいう話ではなく。ただ、一つ一つの「死に方」がリアルだからこそ、そのなかで描かれた「自死」が、すごく色濃く映った。死にたくない、でも到底生き残ることはできない、ならば死に方くらい選びたい。その心理描写が、あまりにも鮮明だった。 


ハンジさんの最期

そんななか描かれた、ハンジさんの最期。

何度思い出しても鳥肌が立つ。本当に本当に本当に、かっこよかった。死に際にかっこいいも何もないのだが、ハンジさんは最期まで「巨人好きで仲間思いの姉貴」を貫き通した。

戦いに赴く前のことばも、ハンジさんらしかった。アルミンを調査兵団団長に任命し、唖然とする仲間の前を通りすぎ、リヴァイに声をかける。

「行かせてくれ。今、最高にかっこつけたい気分なんだよ」

ハンジさんは、緊迫した場面を明るく茶化しながらも、いつも周りを見て、正しく在ろうとする人だった。

リヴァイは彼女を止めない。

「また大切な仲間を失う」と覚悟したうえで、「心臓を捧げよ」と敬礼を授ける。

「きみが言っているの、初めて聞いたよ」

そう言ってハンジさんは、地ならしに特攻する。

飛行船のところまで迫りくる巨人を、自身の何百倍もある巨人を、なぎ倒していく。熱い蒸気に包まれながら、調査兵団のマントを翻して飛ぶ。

「やっぱり巨人って最高だな」

最期まで、ハンジさんはハンジさんだった。

燃え尽きたあと、あの世とこの世の狭間の心象風景が描かれる。

ハンジさんは、飛行船がちゃんと飛び立てたかを慌てて確認し、無事空を飛んでいるのを見て安堵する。その周りには、一足先に旅立っていった仲間たちがいる。

「大変だったな」

懐かしいエルヴィン団長の声。ハンジさんは、長らく肩にのせていた負担をそっとおろすように、立ち上がる。相棒のモブリットに手を引かれて。

「大変だったんだよ。エレンのやつがさ」「ああ、ゆっくり聞くよ」

ハンジさん、あなたは最期まで、本当にかっこよかった。

不条理な世界で、常に正しさを模索し、生を貫き、仲間に未来を託した。

どうか安らかに、向こうで、大切な仲間と一緒に、好きなだけ巨人について語っていてほしい。たまに迷惑そうな顔をされながら。そして、これからも生きていく仲間を、気長に待っていてほしい。


ただの「人」としてのアニ

今回のアニは、「兵士」でも「戦士」でもない。ただの女の子として描かれている。戦闘服も一切着ない。部屋着で、弱った表情で、今までとこれからのことに思いを馳せる。

アニに関しては、回を重ねるごとに、「ただの女の子」である描写が多くなっていった気がする。

初期の頃は、「アニちゃん」と呼べる感じではなかった。何かに冷めた目をして、誰にも心を開いていないようだった。

「もう戦いたくない」

彼女は今回、そう言った。疲れ切った高校生みたいに。

そして、幾人もの人が踏み潰されていくことに罪悪感を抱きつつ、アルミンへの恋心を自覚して隠そうとしなかった。

甲板でアルミンと話すシーン。アニは、長らく地下室で眠っていた自分に話しかけてくれたことへのお礼を言う。

「さみしくて気が狂いそうだった」

このことばから、アニが本当に、かつて言っていた「かよわい乙女」だったのだとわかる(本人に言ったら蹴られるかもしれない)。女型の巨人として調査兵団を翻弄し、たくさんの人を殺した。戦士としての重圧と後悔とを抱えながら、秘密を貫くために冷たい棺のなかで眠らなければならなかった。しかし本当はさみしくてどうしようもなかった、そんな等身大の吐露からは、「人間らしさ」を強く感じた。

「どうして会いに来てくれたの、もっと話してて楽しい子いたでしょ」と言うアニ。それに対しアルミンは、「会いたかったからだ。アニに」と頬を赤らめて言う。

ここで、2人が両思いであることがわかる。

残酷なシーンが多かっただけに、このシーンはとても印象的だった。数多の命を背負う二人は、まだ、青春を謳歌するに相応しい年齢なのだと、実感させられた。胸がぎゅっと掴まれたのは、甘酸っぱさだけではなく、これから二人を待ち受ける過酷な運命と、今なお地ならしで多くの人が死んでいるという対比がくるしかったからだろう。

アルミンとアニの恋心に気づくミカサのシーンは、子供だった彼女らが、他人の心の機微に気づけるくらい大人になった、ということを伝えるには十分だった。

アニとライナーとの抱擁シーンも、感慨深かった。

「何度も殺そうと思った」というアニに対し、「よく我慢できたな」と答えるライナー。そのあとの抱擁。暴力なしで2人が触れ合っているのを、初めて見た。

アニはライナーのことを、憎み恨めはせど、同じ地獄を抱えて生きてきた「兵士」であり「戦士」であり「友人」だと思っていたのだろう。

これまでの闘いを経て、アニの「弱さ」を隠す透明な棺が、崩れたのかもしれなかった

後半の内容を知っているからこそ願ってしまう。もういい。アルミンと2人で幸せになってくれ。お願いだ…。


アルミンという人物

ここまで『進撃の巨人』を追ったうえで、一番好きなのはアルミンかもしれない、と思っている。

高校生の頃はリヴァイが大好きだった(当時演劇部だった私は、小道具の刀を使って調査兵団ごっこをしていた)し、ユミルとクリスタの関係性も好きだったし、ジャンの不器用なまっすぐさも好きだった。でも、大人になった今、「誰が一番好き?」と聞かれたら、アルミンと答える。

アルミンは最後まで、「対話」を諦めない人だ。ずっと昔からそうだった。

物語のキーとなる場面で、アルミンはいつも相手と対話しようとする。エレンが初めて巨人化し、人間の敵なのか味方なのかを問われたとき。ベルトルトが超大型巨人だと判明したあと、彼と向き合うとき。勝手にマーレへ侵入していったエレンと久しぶりに対面するとき。まずアルミンは、対話を試みていた。

しかし、対話がうまくいくとは限らない。「ベルトルト、話をしよう」と言うアルミンに対し、「話をしたら全員死んでくれるか」とベルトルトが答えるシーンを、私はどうしても忘れられない。世の中には対話でどうにもならない問題がたくさんある。大半の悲劇は、対話による解決が見込めない場合に起こる。対話しようにも、相手がそれを拒んでいれば対話は成立しない。結果、理不尽な暴力でしか解決できなくなる。ベルトルトの抱えるくるしみが浮き彫りになったシーンだった。

アルミンの強さは、対話を諦めないと同時に、対話が不可能だと悟ったあとも、最善を探して実行することだ。思考力と決断力と勇気がある、それがアルミンという男だ。「何も捨てることができない人間は、何も変えることができない」。アルミンのこのことばが、彼をよく表している。

『進撃の巨人』を象徴する、「超大型巨人」を引き継いだのは彼だった。物語の語り手も、一貫して彼である。

それくらい、彼の存在は物語に大きく関わっている。きっと、最後まで。


飛行船のなかで

ハンジさんの特攻により、飛行船は無事空を飛ぶ。燃え尽きていくハンジさんを見て、涙に暮れる兵士たち。この空間でのやりとりも、心に強く残った。

「お前、つらかっただろ?」

特に、コニーがライナーにそう問いかけるシーン。かつて、ライナーを裏切り者として恨んでいたコニー、仲間を殺すことの罪悪を知り、ライナーの抱えていたくるしみを理解する。

ライナーははっとした顔をする。わかってもらえたという安堵のようにも、わからせてしまったという絶望のようにも、自分の背負った罪を自覚したようにも見えた。

「死に急ぎ野郎」のエレンに対して、ライナーはずっと「死に損ない野郎」だった気がする。精神を病み、自害を目論み、でもできなかった。これで楽になれる、と思うたびに生き残ってきた。生きれば生きるほど、彼の背負うものは増えていった。

「これからもずっと、自分を許せない。贖うことのできない罪を負った」

そのことばには、重みがある。

「だから、救える人類を救おうぜ」

そう、コニーに声をかける。絶望のなかでも一筋の希望を捨てない、彼の強さを見た。


断ち切れなかった憎しみ

場面変わって、地ならしを前にしたマーレの人々が描かれる。ここで地ならしを食い止めるべく、ありったけの兵器を使い、巨人に攻撃をしかける。

「これは、我々大人の責任だ」
「憎しみがあの怪物を生んだ」
「そして今、憎悪を返しに来た」

世界の様々な問題は、憎しみが憎しみを生み、それを誰も断ち切れなかったことで起きている。断ち切るべき立場である大人の弱さと、それに巻き込まれる罪のない人々のコントラストがまぶしく、残酷だった。

しかし、人類渾身の攻撃はあっけなく終わる。飛行船が簡単に撃破されていく。「すまない」と司令官が声を絞り出す。あのシーンの絶望感は、圧巻だった。

進んでくる巨人と、踏み潰されるのを待つ人類。
どちらが被害者で、どちらが加害者だろうか?

世界には絶対悪が存在しないこと、悪を生み出すのは人間だということ、憎しみが一瞬で消えるわけではないこと。それらのメッセージが、巨人の表情とともに伝わってきた。


心臓を捧げよ

長くなってしまった。語ってしまった。

分かりづらい表現、すこし重めの表現も多かったかもしれません。申し訳ありません。ほぼ一筆書きで書いているので、どうか多目に見てください。『進撃の巨人』からどんなメッセージを受け取ってどんなふうに感じるか、いろいろな方の話を聞いてみたいです。

後編ではおそらく、「生きようとする生き物の本能」が、絶望的なくらい鮮やかに描かれる。単行本を読んで、いちばん「どうしてだよ…!」と叫んだシーンがいよいよ映像化される。想像するだけで鳥肌が止まらない。正気でいられるだろうか……。

ここまで『進撃の巨人』を追ってきて思うのは、この作品を好きでいられてよかった、ということ。

世界は残酷で、美しい。不条理のなかで、それでも希望を抱いて生き物は生きて、死んでいく。それが、歴史の単なる一部だとしても。

しばらく余韻に浸りながら、『UNDER THE TREE』を聴いて通勤しようと思います。来たるべき完結に向けて。心臓を捧げよ。







この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?