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10月のかけらたち


紅葉をたくさんみた。みさせてもらった、が正しいかもしれない。仕事だったり、友人に誘われたりで、紅葉と接する機会がたくさんあった。

池田町のオオカエデ
赤と虫
見上げたら赤

自然の生み出す赤には、どうしてこんなに深みがあるんだろうと思う。蓄積された歴史によるものなのか、堂々たる威厳ゆえなのか。わからないけれど、わからないからこそ圧倒され、言葉を束の間剥奪される。取り戻そうと藻掻きながらシャッターを切り、ため息をつき、ただ、すごいなあとつぶやく。言葉を探すうちにも、葉は風に舞って散っていく。自然の美しさを、そのまま象って伝えたい。昔の人はそんな思いで、和歌をしたためていたんだろう。

誰が見ても綺麗なもの、を象るのは難しい。誰が見ても綺麗だから。文章も。写真も。そのときの感情を超えるもの、肉眼レフに勝るものを残したいのに。でも、自分を通すことで景色が変わる、それを新しい美しさだとしたら。それを、表現と呼ぶのだとしたら。


今月一番、心に跡を残した文章。

久しぶりの感覚だった。文章を読んで、身体の底から波が押し寄せるような感覚。じいいと振動するように鳥肌が立って、静かな衝撃のなかで身動きがとれなくなる。
いのちがけで書かれている、と感じてしまうのに、どうしてこんなに悲壮感がなくて、晴天のようなんだろう。まっすぐ心と向き合った人にしか書けない文章だ、だからこんなに届くんだ。
本をつくることは祈りと似ている。



毎月寄稿させてもらっている詩集の、表紙に名前を掲載させてもらえて、とても嬉しかった。嬉しい。こういう純粋な嬉しさは、大人になるほど失われていく気がする。変なこと言われないかとか、調子のってると思われないかとか、別の誰かを不快にしていないかとか、実力に伴っているだろうかとか……それでも、嬉しかった。嬉しいと感じられたことが嬉しかった。
創作のほうの自分を、いつからか見せるのがこわくなってしまっているな、と思う。どうしても他人の視線を過剰に気にしてしまう。怯えながらも、それでもやめずに書き続けている。どうしようもないくらい、私の核になっている部分。小説を書いてます、と言うこともまだすこしこわいけど、受け入れてくれる人の存在を知るたび、世界を恐れすぎるのはもったいないな、と思う。言い聞かせる。
いつか本にできたらいいな、とぼんやり思っている。つくるなら、大切な人たちと一緒がいい。大切な人たちに届くものをつくりたい。もうすこし書こう。見えるまで書こう。書くことで乗り越えられる不安があることを、私は知っている。



お世話になっている先輩の劇団が、12月に劇をやることになった。私自身がファンなのでとても楽しみ。台本を読んでからずっとわくわくしている。人生は続いていくし、もう演劇は始まっている。


フォルダの整理。足下や目元の写真ばかり撮っていた。

神様が降ってきそうな空だった
ぎゅいーん影
落ちてたハート
不規則のような規則的のような
ひるさがり



結局のところ、何を書くか、どう書くか、それ以前に、自分がどう感じているかを書くことが、文章の本質だと思った。本質というのはときに痛みを伴うけれど、その痛みごと抱きしめられるような大人で在りたいと。



健康診断。身長が伸びていなくて落ち込んだ。豆腐を食べると身長が伸びると聞いて、せっせと食べていたのに。人生はロジックじゃないらしい。
小学5年生頃から、視界の位置はほとんど変わらない。だけど、見える世界はだいぶ変わった。変わってしまった、とも、変えることができた、とも思う。人は変わりゆくもので、どんな生き方をしようがいつか死んでしまう。それは絶望ではないと、今なら思う。思いたい自分がいる。

ちょっとだけ背筋を伸ばして歩いて帰った。街の午後は秋めいていて酩酊。最近、アルパカの毛のニット帽を買った。初雪はいつだろう。

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