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意味の外へ連れてって

前からスマホを見ながら歩く女の子が歩いてきた。
「このまま真っ直ぐきたらぶつかる!」というところで避けようとした時、彼女ははたとびっくりして、私をくにっと避けてすれ違って行った。

電車を待つホームで、隣の人、そのまた隣の人もスマホを見ていた。
もっと視野を広げると、来る電車の中の人々も、みんなスマホを見ていた。

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※「スマホに見える」と言われる歌川国芳の浮世絵(正解はナスを剥く包丁)※

大学院生の時、学部の授業に毎回出席し、騒いでいる人を注意するアルバイトをしていたことがある。最も大変だったのが「スマホを触る人を注意する」ことだった。こっそり声を掛けるたび、怪訝そうな顔をされまくった。

道、ホーム、教室。いろんな場面で「スマホを見ないように」と言われることが多い。「それなのに何故スマホを見てしまうのか?」ーそんな問いがむくっと沸き上がった。

それとなくスマホを触ってしまう時。自分が何を思うのか、深く深く考えてみたところ、「何かをしていないといけない」という焦燥感に迫られているのを発見した。何もしていない”空欄の自分”を怖がり恥ずかしがっていることに気が付いたのだった。「意味のない私」への恐れ。

「何もしていない自分」でいてはいけない。スマホを見ていれば「スマホを見ているわたし」という役割を担うことができる。

そんな感覚に陥った。

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ただそこに居ることの難しさ。それを感じ取ったのは、いつからだったか。

たくさんの親戚が集まるお葬式で死の意味も知らずに出前のお寿司を運ぶことを求められた時だったか。花いちもんめをして「あの子が欲しい」の中に自分の名前が無かった時だったか。生まれたての自分のままではダメなんだと、何かしらの”意味”を持っていなければいけないんだと、存在意義からのホイッスルに幼い頃から気付いていたように思う。

それは、年を増すごとにどんどん膨らんでいった。
人の輪に入れなかった時に、スマホを触っていれば「人から連絡をもらってあえて人の輪に入らない人」になれていたし、全ての仕事を一生懸命終えたとしても周囲がまだ頑張っているのならば、あえてPCをいじって明日やっても間に合う資料を作っていた。

自分の存在意義や役割をいつも探している。

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「意味」「役割」は時折、すごい怖い。
「私は○○のためにいる」「私は○○するために、ここにいる」など、存在にまつわるアレコレは時折、ペットボトルのラベルみたいにペラペラし、それでいて、強烈に中身を誇示している。それが無ければ、そこにいてはいけないような、そんな感覚に陥ることもある。

「あの人にどう思われているのか」「あの場にとって私は意味があるのか」。自分の存在意義は、いつも他者の目が通っている気がする。

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「意味がある」「役に立つ」というのは、とても素晴らしい。人間の、人類の推進力だ。でも、これが少し歪み、過剰になってしまった時、満たされない心は空虚をもたらしかねない。

「意味」の世界から解き放たれたい時がある。
ただただそこに存在しているだけで、人間はとても美しいのだ。

星野源も、歌っている。

意味の外へ連れてって
そのわからないを認めて
この世は光映す鏡だ
—『夢の外へ』

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今日は、久しぶりに電車に乗った。スマホは全く見なかった。入ってくる風は気持ちよいし、西に行けば行くほどゆるやかさを増す空は素晴らしい。

何もしなくてもここに居ていいよ、と言われた気がした。


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