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★映画鑑賞★『彼らが本気で編む時は、』

血縁と愛について考えよう度:★★★★★
最後胸がちぎれる度:★★★★★

つい先日、ふと「子どもを産みたい」と思った。
魂の底からそう思ったのは初めてだった。それは、今まででは考えられない思考回路だった。嘔吐恐怖症という不安神経症を持っているからだ。(つわりが怖い。)

それだけではない。

「生きていても絶望ばかりだ」と思ってきた自分が、新たな生命体に「同じ思いをさせるまい」と思ってやまなかったのに。どういう心境の変化か?母乳でも出始めるのではないかと焦った。

受けた愛情を、誰かに注ぎたくなっている自分が現れる。


”生まれる”は英語で”I was born”と書く。「be動詞+過去分詞=受動態」だ。
吉野弘の作品に、少年がカゲロウの卵を見て「生まれさせられる」ことに気付く詩がある。確かに私だって「はい!(挙手)」って生まれてきたわけではない。「何で勝手に生んだんだ!」と怒った日も数え切れない。そして同じくらいの量「生まれてきてよかったー!」と感動してきた。

人に出会うたび、自分の足で立つだび。何かを得るたび、何かを失うたび。その感覚は訪れる。


誰かの愛情によって育った人間が、次は愛情を注げるようになるということ。そこに、性別や血は関係なくて、もしかしたらそれは愛だけで紡がれても良いかもしれないこと。こんな当たり前で、抗えなくて、愛おしくて、切ないことを見事に描き切っていると思ったのが、映画『彼らが本気で編む時は、』だ。

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トランスジェンダーのリンコさん(生田斗真)と、その恋人のマキオ(桐谷健太)、マキオの小3の姪っ子・トモ。
トモの母・ヒロミ(ミムラ)はシングルマザーであり、ある日トモを置いて家出する。(親が恋人を作ることは子どもには耐えがたい。それを分かった上で恋愛してね、世の中の浮気するママとパパ。)

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小3にして一人ぼっちのトモは、マキオにしばらく引き取られ、リンコさんと3人で暮らし始める。優しいリンコさんに徐々に心を開いていくトモ。少し変わった家族の時間が始まる。



※ネタバレしたくないので感想だけ書きます!

「いやはや、生田斗真 綺麗だ~~!」で終わる話ではない。トランスジェンダーの社会的な在り方だけを提起しているわけでもない。この映画は、母性と常識をめぐる女の闘いだ。

血がつながってるから必ずしも”母”であるわけではない。男根がついているからって必ず”男”であるわけではない。愛しているからといって必ずしも”親子”というわけでもない。

リンコさんという存在を軸にして、つまびらかになる母娘の関係性の難しさを描いているように感じた。その難しさに横たわる”愛情の切なさ”をピンポイントで。   


リンコさんにとって「編むこと」

リンコさんは編み物が好きだ。丁寧に丁寧にいつも何かを編んでいる。母親のフミコ(田中美佐子)に教えてもらった、得意技だ。

そのいつも編んでいる”何か”とは、男根に見せかけた筒状の編み物。それを108個作って、一気に燃やした暁に「戸籍を女性に変える」という。 

ある時、リンコさんはトモに静かに伝える。

「私はね、悔しくて悔しくて死ぬほど悲しくて、
『ちくしょー!ふざんけんなっ』
そう思った時に編むの。」

劇中、決して言葉になっているわけではないが、恐らく「理解されないこと」が多かったリンコさんである。その都度、編んできたんだと思う。

優しいその手で、トモに丁寧に編み物を教える。トモは、実の母親とは過ごしたことのない、それはそれは穏やかな時間を過ごす。

リンコさんにとって編み物は、自分への誓いであり、怒りと悲しみであり、愛情だ。生半可ではない本気の、彼女の生き方を示している。


愛情だけはしたたるように連鎖する

リンコさんがまだ「リンタロウ」だった高校生の頃の場面が途中描かれる。「自分のおっぱいが欲しいの…」と言うリンタロウに、母フミコは3つのブラジャーと、毛糸で作った「ニセ乳」を渡す。

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母親のまっすぐなリンタロウへの理解は、なんとも美しいリンコさんを作り上げた。彼女はこの経験を通したからこそ、孤独なトモにぬくもりを与えることができる。「理解されること」は「理解すること」へと連鎖していく。

「私は、自分の娘が一番可愛いんだもん」というフミコの言葉はとても印象的だ。

一方で、トモ・ヒロミ・ヒロミの母は、お互いを愛せない「機能不全家族」だ。しかし、彼女たちも”ある1曲の童話”で繋がっている。(この伏線回収はぜひご覧下さい!)
きっとその童話は、彼女たちが通じあった瞬間の証なんだろうな。 


何を教えてくれたら”親”なのか? 

クライマックス。トモを引き取ろうとしていたところに、トモの母・ヒロミが自分勝手にも戻ってくる。そして、「トモは私の娘よ?!」とリンコさんを責め立て、怒鳴りつける。

「トモに生理が来た時、どうやって教えるの?
胸が大きくなった時、どんなブラジャー着けるか教えられるの?
女じゃないあなたは、母になれない。」

それを隣で聞いていたトモは、母をバシバシ叩きながらこう叫ぶ。

「リンコさんは、編み物教えてくれた、ご飯作ってくれた、キャラ弁作ってくれた、髪の毛きれいに結んでくれた!それなのに…どうしてママはもっと早く迎えに来てくれなかったの?」

ああ、なんだか、子どもが親に求めることは、”教えてもらうこと”じゃないんだなぁと言葉にできない気持ちになった。もっと、言葉や知識をはるかに超えたもの。


産みの親を「自分の親」だと自信をもって言えることは、本当に幸せだと思う。そして、それを信じて疑わずにずっと生きていて欲しいと切に願う。

私は残念ながら、親を「自分の親」と100%言えない時がある。愛しているけれど、仕方のないことだと腹を括って5年目の人生である。
心理系の場に身を置いていたことからか?周りには「親を愛せない」という人は、かなり多くいる。理由は様々だけれど、きっと彼らの親は、子どもに向き合う姿勢を見せなかったんじゃないかな?と思う。きっと親にもそれなりの事情があるんだろうけど、それはすごく悲しい。その事実を、私なんかはこうやって書くことで昇華している。きっと、リンコさんの「編み物」と一緒だ。

だけれど、私は親を、本当は心底愛している。子どもから親への愛情の方が意外にも無償かもしれない。それでも「親を親と思わない」とするのは、裏切られるのが怖いから。周りがとやかく言ってはいけない。そう思わざるを得ない子どもが、誰よりも一番辛いのだ。


一時期、私は親戚のおばの家に居候をしていた。実家からの一時の逃げだった。私はおばも自分の親のように愛している。たった2ヶ月で私を精神的自律に導いてくれたおば。実の親ではないけれど、真剣に向き合ってくれた彼女からは、人生の指針をもらっている。


何にも教えてくれなくてもいいの。
向き合ってくれる気持ちがあれば、誰でもその子の親である。


そして、他者へ紡ぐ

この映画のエンディングは、なんとなく編み物の完成をイメージさせる。リンコさんの真の意味での「男根供養」だなぁと思った。とても切ないんだけれど。
きっとリンコさんの母性で、3代に渡る機能不全をトモは止めることに成功するんだろう、と勝手に未来を思う。


本気で生きることは、苦しい。
その分に見合ったエンディングが用意されることを祈ることしか人にはできない。
ただ、その祈りは、周りの人間を確実に変えていく。優しく、強く。


私は「何で勝手に生んだんだ!」と怒ったこともあるけれど、母がやってくれたように、子どもを公園に連れて平和な時間を教えるし、生きる意味を一緒に考えるし、クリスマスにパイを焼くと思う。
そして、おばがやってくれたように、人と対等でいることを教えるし、マフィンの美味しいところを子どもにあげると思う。

そしてまだ見ぬ我が子が、それを幸せと思う未来を祈る。

✱たおやかで、美しい映画でした。様々なところにテーマを置いており、秀逸だなぁと思いました。川上未映子『乳と卵』を彷彿させました。緑子とトモを友達にさせたい。

男の子にラブレターを書いた、トモの友人一家もよい脇役として拵えられています。

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