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たった一冊があなたを救うことがある ―本嫌いな私が編集者になった話―

読書感想文は必要か?

先日、「読書感想文は必要なくない?」というTwitterを見た。
おうおう!ごもとっも!と深く共感した。文字を追って何か考えるということは、非常に難しいことだし、誰かに言われてできるものかと、昔から思っている。

夏を憂欝にする感想文。スイカバーだけ食べていたい。

本との出会いには、それぞれのタイミングがある

私は昔から本が大嫌いだった。本を開いた瞬間からあくびが出た。

国語の問題文で「登場人物の気持ちを考えなさい」と言われた時は、「誰が本人の気持ち分かるんじゃボケ」と常々思っていた。
ひたすら、隠語ばかり調べる暗い国語の時間を送っていた。

そんな私が、本格的に本を好きになったのは、挫折してとてつもなく人生に絶望していた大学生の時だった。

「あーこの玉川上水に入ってしまおうか」と思った瞬間に(現在の玉川上水では死にたくても全く死ねないほどの浅さである。)、又吉直樹さんの『火花』が文學界に掲載されることをふと思い出した。

特にファンだったわけでもない。ただひたすら、「読まなきゃ」と思った。切羽詰まっていた。死ななくてもいいい理由を探していただけかもしれない。なぜか今すぐに読まなきゃと思った。
息を切らして、三鷹アトレの本屋に走った。

どうしてだろう、『火花』を読んだ瞬間から、「文章」と私の命は直結しだした。活字が無いと生きられなさそうだと感じたのはこの頃からだ。
それはまるで、本が私をめがけてきたようなものだった。

本はあなたに会いに来る

私にとっては『火花』という純文学だったが、他の人にとっては聖書だったり、学術書であったり、エロ本だったりするだろう。その人の人生を変える使命を持った本は、必ずあなたの元にやってくる。

本屋の棚を見ていると、これ読んでみたい、とか、これなら読めそう、という自分なりの選び方があると思う。この感覚は間違っていないと思っている。
プロ級になると、本から呼びかけられるらしい。
「彼らはしゃべるのか」と感心した。

私はあの時、『火花』に会っていなかったら今どうなっていたか分からない。小学生の頃に『火花』を読んでいても、すやすや寝ていただろう。
その人の、その年齢の、その時の状況を選んで、「わたくし、行ってまいる」とやって来る。それが、本の不思議な性格だ。

出版社に勤めていた人に昔、お話を伺ったことがある。確かに書籍は、タイミングよくその人の人生の一幕にうまい具合に登場するらしい。
本は相当な使命感を持ちながら、今か今かとあなたの元に訪れようとしている。

本に導かれて職業すら変える

幼少期から10年以上もカウンセリング関係の職業に就こうとしていた私だったが、『火花』に出会って以来、本の言葉が持つ無条件肯定さに魅了され、とんでびっくり、私は出版社に就職した。

やっぱり人生は何があるか分からない。

短期間でその出版社のお仕事はやめたけれど、「またいつか」という気持ちを失ったことは一度もないし、本を嫌いになることは今後も無いだろう。

ただ、縁あって今も少しだけ編集に携わっている。
言葉には書き手の思いが滲んでいるし、読み手の心が反映される。文字を通してコミュニケーションが生まれている瞬間を見ることはとても、快感に近い幸せだ。(〆切は守ろうぞ)

そして、その一文が誰かの人生に関与することに至上の喜びを感じる。

もし、今、何か願いがあって、それを叶えるために「本」を介したいと思う気持ちが少しでもあるならば、マスクして本屋さんに15分だけ行って欲しいと思う。
少しだけでも惹かれる本棚、表紙、題名があったら、パラパラめくる。
「なんとなく気が合いそう!」と思ったら、目次の中でも特に興味のあるところだけ読む。「もっといけそう」と思ったら、その本はあなたのために生まれてきた本だと思う。

「面白い」と思うことすべてが決して正解ではない。
「間違っている」と思うことも、本の醍醐味だ。

その本が、特に何かをあっけらかんと解決してくれるわけではないが、あなたの心には、見えない何かが必ず作用する。

それはすぐかもしれないし、10年後かもしれない。
本たちは長期のスパンで、あなたの人生に寄り添ってくれる。


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