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ブルーアワー

「またか……」
 企業から届くお祈りメールはこれで何通目だろう? 大学の卒業式を終え、友達は来月には就職して新しい生活をスタートさせる。なのに、私は未だに就職活動を続けている。最初は事務職を中心に就職先を探していたけど、なかなか採用にまで至らず、バイト経験のある販売職やサービス業なども視野に入れて様々な会社の説明会に足を運んだ。それでも、一向に決まらない。  
椅子の背もたれに寄りかかり、自然とため息がこぼれた。
「やっぱり、ちょっと休もうかな」
 疲労回復に良いと言われるハーブティーのレモングラスを飲み、机の上に置いてあるパンフレットに手を伸ばす。それは『川越 日帰り旅行』と題されたもの。休んでいる暇があったら就活を! と意気込んでやってきたけど、一度就活から離れた方がいいかもしれない。
 手帳を開いてスケジュールを確認するが、ほとんど何もない。今回届いたお祈りメールで面接の予定が完全になくなった。また一からやり直しだ。……まぁ、休むにはちょうどいい。
「ブラっと遊んで、また頑張るかぁ」
 そう決めたものの先の見えない不安に、心のモヤモヤが晴れない。レモングラスを飲み干して、マグカップをキッチンへ持っていく。
「茉莉奈、就活はどう? 面接したんでしょ?」
 お母さんがテレビを見ながら訊いてきた。普段、就活の話なんてしてこないのに何で今聞くかな……。
「まだ終わりそうにないけど」
 言ってから、しまったと思った。思っていたよりもトゲを含んだ言い方をしていた。
「じゃあ、着物の着付け習ってみる?」
「え?」
 お母さんは私の言葉のトゲを気にすることもなく、予想外の提案をした。
「就職先がまだ決まってないなら、何か出来ることを身に着けてみたらいいんじゃないの? 着付けだったらお母さん教えてあげられるし、着付け教室で他の人と教わりながらでも出来るし」
「それなら、自分のやりたいことに繋がるものを身に着けるよ」
「何かあるの?」
「……まだ探し中」
 仕事が決まっていない段階で習い事なんて考えられない。着付けは私のやりたいことではないし、何かするにもお金がかかるだろう。
「そういうのは就職してからね」
 早々に切り上げて、私は自分の部屋へ戻った。
 そもそも、うちは母子家庭なのだから好きなことをやっている余裕はない。仕事も生活も安定してやっと考えられることだ。お母さんだって、仕事しながら着付け教室をやっているわけで……。
「まずは稼げなきゃ意味ない」
 そう呟いてベッドに突っ伏した。

「今日は休みなの?」
 翌日、いつもより起きる時間が遅いせいか、お母さんが訊いてきた。
「うん。ちょっと息抜きしてくる」
「そう。たまには休んでおかないとね」
朝食を食べ、支度を終えて玄関へ向かう。
「じゃあ、行ってくる」
 リビングにいるお母さんに聞こえるよう、少し大きな声で言ってから家を出る。お母さんは何も言わないけれど、こんな状況で一緒にいるのは罪悪感しか生まれない。とにかく、今日は色んなものから離れよう。
 地元から近い川越に行くのは電車で三十分と掛からない。駅を出ると、まずは五百羅漢で有名な喜多院を目指して歩く。そんな時でもこれからの自分がどうなるかを考えてしまう。
 職業訓練校にでも行った方がいいのかな。でも、やっぱりお金のことがあるし……。
 気付けば喜多院に到着し、山門をくぐる。右手に五百羅漢が並んでいた。
「すごい、こんなに……」
 多くの羅漢の姿を写真に収め、境内をまっすぐ進んでいく。本堂から書院などを巡り、枝垂れ桜の咲く庭園で私は足を止める。
 今は観光に来ているんだ。余計なことを考えるのはやめよう。
 満開の桜を前に沈む気持ちを振り払って、本堂の左手にある仙波東照宮などの文化財を見て回る。
「次はどうしようか……」
 マップを開いて名所を確認し、小江戸のシンボルと言われる『時の鐘』の前を通って、菓子屋横町へ向かう。
「いらっしゃいませー」
店員の声を聞きながら、芋を使用したお菓子やたい焼き、駄菓子などを買って食べて歩く。
 こういう時は、甘いものを食べるのが一番!
単純な私はお菓子に満足したが、一通り歩き廻った疲れと口の中の甘さで水分が欲しくなり、蔵造りの家が並ぶ一番街で休憩できる店を探す。
「あ、ここがいいかも」
 小さなカフェの前にあるメニューの看板に、抹茶が書かれている。和菓子を堪能した私はそこに惹かれ、カフェに入っていく。
 レトロでおしゃれな店内の奥のテーブル席で、メニュー表を開く。抹茶そばなんて珍しいものも気になったけど、抹茶と上生菓子のセットを注文する。運ばれてきた抹茶を一口飲み、私は一息ついた。
「美味しい……」
 上生菓子は『花便り』という桜の花をモチーフとした練り切りだった。それを口に運ぶと、こし餡の甘さが抹茶とよく合い、思わず顔がほころんでしまう。よし、お土産に和菓子を買っていこう。
 数分休んでからレジで会計を済ませると、店員が言った。
「こちらで提供しているお茶は、本川越駅の近くにあるお茶専門店から仕入れているものですので、よろしければそちらもどうぞお立ち寄り下さい」
 和菓子だけじゃなくて、お茶もいいかも。
「どう行ったらいいですか?」
「一番街を本川越駅に向かって歩いていくと、『ブルーアワー』という看板のお茶屋さんがあります。日本茶だけじゃなくて、紅茶などもおいておりますので、ぜひ」
 私は礼を言って、カフェを出た。途中でお土産用の芋を使った和菓子やせんべいを買い、本川越駅に向かう。
「あっ、ここ……?」
 町屋風の建物に看板を発見し、暖簾をくぐる。中へ入ると意外に女性客が多い。
「いらっしゃいませ」
 何故かその理由はすぐにわかった。お茶を見る前に、声を掛けてくれた店員に目を奪われた。スラッとした背の高い眼鏡男子が女性客に囲まれている。
 優しそうな人でかっこいい!
どうやらお茶の説明を数人の女性客にしているようだったが、女性客はお茶よりも眼鏡さんに興味津々の様子だ。とりあえず、お茶を選ぼう……。
 店内をぐるっと見わたすと日本茶や紅茶、中国茶など様々な種類のお茶があり、コーナーごとに分かれている。レジ横には小さなカウンターと電気ポット、カウンターバックにはカップなどの茶器が置かれている。試飲用だろう。
その中で、私がハマっているハーブティーを見つけた。近付いて見ると、もうすぐ家のものを切らしそうだったレモングラスのティーパックや茶葉もあった。嬉しくなって、それとは別にペパーミントティーやカモミールティーなども選ぶ。
 抹茶はまた川越に来た時に買おう!
 レジへ持っていくと、そこにいた栗毛の髪の男の子が話し掛けてきた。
「ハーブティー、好きなんですね」
店員の栗毛くんの笑顔に思わず、かわいいと思ってしまった。
「あ、そうなんです。今、ハマっていて。自宅のそばにハーブティーを取り扱っているお店がないので、来られて良かったです」
「観光ですか?」
「そんなところです。でも、川越は近いのでちょっとした息抜きみたいなものなんですけど」
「近いんですか……。じゃあ、よかったらまた来て下さいね!」
「はい」
私は提示された金額を支払い、商品の入った袋を受け取る。
「ありがとうございます」
 栗毛くんと眼鏡さんの声が重なった。どちらも素敵な笑顔だった。
 また来よう……!
 お茶屋の店員に癒された後、家に帰って早速、袋からハーブティーを取り出そうとした。
「あれ?」
 袋の中に一枚の用紙が入っていた。広告かなと思って見ると、『アルバイト募集』と書かれたチラシだった。
 あそこ、バイト募集しているんだ……。
 募集要項を確認し、二人の店員の笑顔が脳裏に浮かんだ。買ったペパーミントティーのティーパックをカップに入れ、お湯を注ぐ。三分待ってから一口飲んで、すっきりする。
「ただいまー」
「おかえり」
 お母さんが着付け教室を終えて帰ってきた。途中でスーパーに寄ったのだろう。買い物袋を提げてキッチンへ来ると、私のカップを覗き込んだ。
「何飲んでいるの?」
「ペパーミントティー」
「へぇ~。それ、今まで飲んでた?」
「見つけたから買ったの」
「じゃあ、私にも淹れて」
 しょうがないなと思いつつ、お母さんの分も用意した。買ってきた食材を冷蔵庫に入れ終わると、お母さんは私が淹れたペパーミントティーを飲んだ。
「これ、いいね」
そう呟いているお母さんのそばで、私はじっと募集のチラシを見る。数分の間、悩んだ末にスマホを取り出した。チラシに記載してある電話番号を打ち込みながら廊下に移動し、電話を掛ける。
何度か呼び出し音が鳴った後、聞き覚えのある声が聞こえた。
「はい。お茶専門店ブルーアワーでございます」
 声を聞いた瞬間、眼鏡さんだとわかった。

 三日後、履歴書を鞄に入れて再び川越へ向かった。本川越駅を左手に歩いていくと、『ブルーアワー』の看板を見つけ、入店する。
 平日だからか、三日前よりもお客さんは少なく、眼鏡さんも見当たらない。
「いらっしゃいませ」
今日もレジに栗毛くんがいた。他に店員らしき人がいないので、彼に尋ねた。
「すみません。今日、アルバイト面接をお願いしている高瀬です」
「あ、この間の……ハーブティーのお姉さん?」
 私を覚えていたことに驚きつつ、頷く。
「そっか。応募してくれたんですね。担当の者を呼ぶので、少し待っていて下さい」
 栗毛くんはレジの後ろのバックヤードへ行き、すぐに戻ってきた。
「ちょっと面接やりづらいかもしれないですけど、頑張って下さい!」
 応援してくれたことは嬉しかったが、言葉に引っかかった。やりづらいって……?
 すると、バックヤードから黒髪の男性が出てきた。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
 切れ長の目をしたかっこいい青年だった。三人目のイケメン登場にどぎまぎしつつ、彼に続いてバックヤードへ入る。三日前にはいなかった人だけど、面接を請け負うってことは、この人が店長なんだろうか。
 バックヤードは事務机とソファ、テレビのある事務所兼休憩所のようだった。青年は私に向き直って告げた。
「面接を担当します白石拓人です。そちらにお掛け下さい」
 白石さんに促され、よろしくお願いしますと言って椅子に座る。履歴書を取り出してわたすと、白石さんはそれを確認しながらテーブルの上に置かれてあったマグカップに手を伸ばした。
 えっ、飲みながら面接するの……?
 白石さんは一通り履歴書に目を通すと、テーブルの上に置いた。
「うちの店が、アルバイトの募集をしていると知ったきっかけは何ですか?」
 思ってもなかった質問に少し戸惑った。
「えっと……こちらのお店で買い物をしたときに、レジ袋の中に募集のチラシが入っていたのを見てご連絡しました」
「そうですか……」
 白石さんは眉間に皺を寄せた。私、何か良くないこと言った……?
「チラシに勤務曜日や時間、仕事内容などが記載してあったかと思うのですが、特に問題は……?」
「ないです」
 なんか面接とはいえ、あの二人と違って冷めている感じの人だな。
 白石さんの眉間の皺と淡々とした様子に不安を覚えた。
「……ハーブティーが好きなんですか? 動機の欄に書いてあるのですが」
 私は頷く。
「いずれは商品についての基本的な知識を習得してもらうことになりますが、それはハーブティーだけに限りません。それでも大丈夫ですか?」
「はい。他の商品を覚えるのはもちろんですが、ハーブティーに関しては仕事を覚えていく際に一つの武器になると考えたんです」
「というと?」
「自分の好きなものを突き詰めていくことが、お客様の要望に応えることに繋げていけるんじゃないかと……」
 白石さんの眉間の皺が消えた。
「なるほど。……わかりました」
 白石さんは再びマグカップを口に運んだ。
 もしかして、バイトの面接もダメなのかな……。
 白石さんはテーブルにマグカップを置くと、私を見て言った。
「採用です。良ければ明後日から来ていただきたいのですが、いいですか?」
「えっ……?」
「合格だって! 良かったね。おめでとう!」
 お店の方から声がして振り返ると、栗毛くんが顔を覗かせていた。
「おい、店番ちゃんとやれ」
「今、お客さんいないんだよ」
「今はお前だけなんだ。客がいようがいまいが、関係ない」
 栗毛さんは不満そうな顔をしてお店に戻った。
「……で、明後日は今日と同じ時間に来られそう?」
「えっ、あ……はい」
「じゃあ、明後日に休みの希望を聞くから決めておいて。何か質問ある?」
「いえ……ないです」
「じゃあ、今日はこれで終了」
 すんなり決まったことと白石さんの口調の変化に驚きながらも、彼に続いてバックヤードを出る。
「あ、拓人ごめん。面接替わってくれて」
 お店に眼鏡さんがいた。まさか会えると思わず、目が釘付けになった。
今日も爽やかでかっこいい!
「大丈夫。ちょうど今終わったところだ。採用決めたから」
「え?」
 眼鏡さんの視線が私に移った。はっとして、頭を下げた。
「高瀬茉莉奈です。よろしくお願いします」
 顔を上げると、ふんわりした眼鏡さんの笑顔があった。
「僕は白石宏人です。よろしくね、茉莉奈ちゃん」
 宏人さんかぁ……。ん? 白石?
「それから、ぼくが白石悠人。春から短大一年です! よろしく、茉莉奈さん!」
 こっちも白石?
「あ、えっと……もしかして皆さん、ご兄弟ですか?」
「そうだよ」
 開いた口が塞がらない思いだった。まさかイケメン三兄弟だったなんて。
「僕が長男、拓人が次男、悠人が三男だよ。今、この店は僕達だけで回しているから、新しい方が入ってきてくれて助かるよ」
「タク兄の面接、やりづらかったでしょ? ごめんね」
「いえ、そんなこと……」
 あったけど。
「でも、茉莉奈さん幸運だね。タク兄が面接して受かった子なんて今までいなかったのに」
「おい、余計なこと言うな」
 思わず拓人さんを見ると、拓人さんは私と視線を合わせずに言った。
「今まで来た奴の動機が不純だったからだ。不真面目な奴を雇いたくもないだろ」
「でも、女の子がもっと増えるのは歓迎だけどな」
 女の子と聞いて、不純な動機が何か想像がついた。これだけのイケメンが揃っているのだから、気持ちはわかる。
 私はチラッと宏人さんを見た。好きなハーブティーの仕事も出来るし、これからがちょっと楽しみになってきた。
 帰宅後、一応お母さんに伝えると驚いた顔で言われた。
「そうなの? 良かったじゃない。ひとまずバイト決まって」
 頷いたけど、本当はバイトじゃなくて就職先の報告が出来ていたら、もう少し気持ちが楽だったかもしれない。

 二日後、昼ご飯を早めに食べて支度をし、バッグを持って玄関へ向かう。
「あ、今日はこれからバイトなんだっけ?」
 お母さんがリビングから顔を出して訊いてきた。
「そう。今から行ってくる。仕事は七時までだから」
「仕事、頑張って」
「うん」
 家を出て、電車に揺られながら川越駅に着き、お店に向かう。
「はぁ……」
 アルバイトだけど、初日は緊張するなぁ。
 出てきたお客さんと入れ替わるように入店すると、悠人くんと目が合った。
「おはよう、茉莉奈さん」
「おはようございます」
「タク兄、茉莉奈さん来たよー」
 悠人くんがバックヤードに向かって言うと、拓人さんがお店へ来た。
「おはよう。ロッカーはこっち」
 案内されて、バックヤードへ行く。拓人さんが事務所の奥の右側にある扉を開ける。
「ここがロッカールーム。今のところ、利用するのは高瀬さんだけだから好きに使って。あと、これが制服のエプロン」
 アイボリーのエプロンを受け取る。ロッカールームは小さく、ロッカーが三つとハンガーラックがあった。荷物を置き、エプロンを身に着け、ペンとメモをポケットに入れて事務所に戻る。
「先に必要な書類を渡しておく。なるべく今週中に書いて持ってきて」
 拓人さんから改めて勤務時間や仕事の説明、注意事項を聞き、シフトの相談をしてバックヤードから出る。
 店内には年配のお客さんがいた。その方に、宏人さんが日本茶の案内をしているようだ。
「俺達はそれぞれ得意分野がある。兄貴は日本茶、悠人は紅茶。基本的なことはどのお茶も全て説明できるようにはしているが、特化しているものがあるんだ。これから少しずつ商品のことを覚えていってもらうけど、何か一つ選んで知識を深いところまで掘り下げていってもらえると、こっちとしても助かる」
 それなら、やっぱりハーブティーかな。
「ヒロ兄は日本茶インストラクターの資格も持っているんだ」
「そんな資格があるんですか?」
「うん。僕もこれから資格を取るつもりなんだ」
「紅茶のですか?」
「そう。紅茶アドバイザー。たぶん、茉莉奈さんの好きなハーブティーにもそういう資格が取れるやつ、あると思うよ」
 ハーブティーの資格か……。そこまで考えてなかったな。
「ハーブティーソムリエの資格がある。それを取得するのは個人の自由だから好きにするといい」
「拓人さんは何が得意なんですか?」
「俺は……」
「タク兄はコーヒーだよ」
「え?」
 コーヒーなんて、お店で取り扱ってないよね?
「コーヒーマイスターの資格を持っているくらいだし」
「……まぁ、そうだな。店にはないが」
「だから、ハーブティーが好きだっていう茉莉奈さんが来てくれたのは、とっても助かるよ!」
「悪かったな、コーヒーで」
 そうか。私が採用されたのは、そこが大きいのかも。ハーブティーを極めれば、その分、お店の役に立てるだろうし。
「あ、でもね、タク兄が淹れてくれるコーヒーは美味しいよ。僕は砂糖がないと飲めないけど」
 物の種類だけじゃなくて、美味しい淹れ方も知識として必要になるのか。私は今まで必要な時にネットの情報を活用していたけど、ハーブティーのことを勉強するならそれじゃダメだな。
「ひとまず、最初はレジをやってもらう。以前に販売の経験があるようだからすぐ慣れると思うけど、悠人をつけるから困ったときはコイツに訊いて」
 拓人さんの言った通り、その後はほとんどレジ打ちをしていた。時々、商品の配置を教わってメモを取ったり、悠人くんと雑談をすることもあった。彼が気さくなこともあって、初日から仲良くなれた。
 三十分休憩の時間にバックヤードで休んでいると、宏人さんが抹茶を点てて淹れてくれた。
「お疲れさま」
「あっ、ありがとうございます」
 宏人さんの柔らかな笑顔だけで私は癒される。
「このお茶は商品棚にも置いている抹茶なんだけど、狭山茶だよ。独特で強い香りだけど濃厚な旨味とコクがあるんだ」
 早速、一口飲んでみた。
「美味しいです。今まで何度か抹茶を飲んだことがありますけど、これはなんとなく……少し甘いような気がします」
「うん。そうなんだ。それがこの抹茶の特徴の一つだよ」
 宏人さんが淹れてくれた贅沢なお茶に満足していると、悠人くんがお店から宏人さんを呼んだ。
「ヒロ兄、ヘルプおねがーい!」
「あっ! お客さんが来ているみたいだから行くよ。事務所にある飲み物やお菓子は好きに利用してくれてかまわないから。ハーブティーもあるし。ゆっくり休んで」
「はい! この後も頑張ります!」
 宏人さんはにっこり笑ってバックヤードを出ていった。
「なにニヤニヤしているんだ?」
 振り返ると、事務所奥にある左側の扉から拓人さんが出てきた。
「にっ、ニヤニヤなんてしてないですよ!」
 恥ずかしくなって拓人さんから視線を逸らした。嬉しくて自然と頬が緩んでしまっていたらしい。顔が熱い。
「……その部屋は何ですか?」
 拓人さんが出てきた扉を見て訊いた。
「俺らの住居」
 あぁ、そっか。ここは拓人さん達の家でもあるんだ。
「それ、抹茶だな。兄貴が点てたのか?」
「あ、はい」
 私の持つ茶碗を見て拓人さんが訊いた。
「とても美味しいです」
「兄貴は土曜日の夕方、日本茶教室を開いている。そこの生徒にも好評だよ」
「だから、土曜日は営業時間が短いんですね! でも、日本茶教室って何を……?」
「日本茶の種類や淹れ方、保存法、マナーなどを教えている。月に一回、抹茶を使ったお菓子を作ることもあるみたいだな。生徒はほとんど主婦だよ」
「宏人さん、お菓子作りするんですか?」
「あぁ。兄貴はそういうのが得意だから」
 宏人さんの作ったお菓子、食べてみたいなぁ。
「すごいですね、宏人さん」
「器用だからな」
 話しながら、拓人さんは白いカップにコーヒーを淹れる。
「拓人さんは昔からコーヒーが好きなんですか?」
「そうだな。大学生の時にカフェでアルバイトしたことも大きいが……」
「えっ、そうなんですか?」
 拓人さんは頷いた。
「それもあって、資格を取った。元々、興味あったし」
 カフェかぁ。拓人さん、制服似合いそうだな。白いシャツに、腰に黒いエプロン巻いてシックな感じで……。
「おい」
 拓人さんの声に気が付いて、現実に戻った。
「なに、ぼーっとしているんだ?」
「あ、いえ! 別に何でも……」
 首を横に振った。
「そろそろ時間じゃないか?」
「あっ!」
 壁時計を確認すると、三十分休憩が終わるまで五分もなかった。
「茶碗は流し台に置いておけばいいから」
 言われた通り茶碗を置き、急いでお店へ戻った。
 その後もしばらくレジをやっていたけれど、途中から日本茶の淹れ方を宏人さんが教えてくれることになった。
「それじゃ、まずは大まかな種類から。主な日本茶は煎茶と玉露、抹茶、玄米茶、ほうじ茶」
 宏人さんが指を折りながら、私に説明してくれる。
「今、言ったものは聞いたことあるかと思うんだけど、それに加えて番茶、釜炒り茶、碁石茶など、数多くある。だけど、よく売れるのは先に挙げた五種類だから、まずはそれを覚えてくれるといいかな」
 メモを取りながら宏人さんの話を聞く。
「今日は煎茶の淹れ方を教えるね。これが一番、試飲されるお客様が多いから」
宏人さんは棚から茶碗と急須、茶筒を取り出す。
「まず、お湯を急須に八分目くらいまで入れて、さらに急須から人数分の茶碗にそれぞれ八分目まで注ぐ。残ったお湯は捨ててね」
 説明しながら、宏人さんは実際に手順をやって見せてくれる。
「茶葉はティースプーン一杯が一人分。人数に応じて量って急須に入れること。それから、茶碗のお湯を急須に注ぐ」
「どうして、お湯を一度茶碗に入れているんですか?」
「ポットから急須、それから茶碗と移すことでお湯が七十~八十度に冷めるんだ。ちょうど良い温度になるんだよ」
 宏人さんがお湯を注いだ急須にふたをする。
「これで三十秒待つ。時間が経ったら、茶碗に少しずつ注ぎ分けして量と濃さを調整するんだ。急須にお湯を残したままだと渋みが増すから、注ぎきるようにね。お客さんに淹れ方を訊かれたら、今教えたやり方を伝えれば大丈夫だよ」
 宏人さんは茶碗にお茶を注いで私に言った。
「せっかく淹れたから、どうぞ」
「ありがとうございます」
 煎茶を一口飲んでみる。
「おいしいです」
「そのためのポイントがあるんだ。茶葉の量を守ること、何回かに分けながら茶碗に入れること、お湯の温度に注意すること。煎茶の場合は高い温度だとカテキンが多く抽出して渋みが強くなるんだ。だから気をつけてね」
 メモを書き終えると、宏人さんが再び棚から茶碗を取り出した。
「じゃあ、やってみようか」
 宏人さんから教わりながら煎茶を淹れた。宏人さんが味見するのを少しドキドキしながら見守る。
「どうですか……?」
「うん、上出来だよ。もしできたら、家でも練習してみて」
 満面の笑みでのその言葉に、ほっとした。またやってみよう。
「抹茶は上生菓子と組み合わせる印象がありますけど、煎茶に合う和菓子は何ですか?」
「煎茶は大福やきんつばなどの馴染みあるものがいいよ。茉莉奈ちゃんが言ったように、抹茶は上生菓子と落雁のような干菓子が合うんだ。煎餅みたいな塩味や甘さ控えめなものなら、ほうじ茶がベストかな。この質問はお客様にも訊かれることがあるから、覚えておくといいね」
 言われて、早速メモした。
「あとは抹茶や紅茶、ハーブティーの淹れ方も、これから少しずつ教えていくからね」
「はい。お願いします」
「覚えること多くて大変だろうけど、似たような手順のところもあるから大丈夫だよ。お客さんに出すときは誰かがそばについているし」
「今度、茉莉奈さんが点てた抹茶はぼくが飲むよ!」
 使った茶碗を洗ってくれていた悠人くんが言った。
「上生菓子も一緒にあったら嬉しいなぁ……いてっ!」
「図々しいぞ」
 バックヤードから出てきていた拓人さんが、持っていたノートで悠人さんの頭を軽く叩いた。
「悠人は紅茶のとき、茉莉奈ちゃんに教えてあげて」
「えぇ~……」
 私は三人のやり取りを見て自然と笑った。いつの間にか緊張が解けていたようだった。

 ++

 小学二年生のとき、隣の席の男子が私に言った。
「お前、何でお父さんのこと書いてないんだよ?」
 当時、授業の一貫で自分の成長アルバムを作った。生まれてから小学校に入学するまでを親に尋ねてまとめ、配布されたノートに自分の名前の由来や思い出を書いたり、写真を貼っていた。その最後のページに両親それぞれの似顔絵と感謝の気持ちを綴る『ありがとう作文』があったのだけど、私はお母さんのことしか書いていなかった。
 お父さんは私が生まれて半年過ぎた頃に事故で亡くなったらしい。まだ赤ちゃんだったのだから、小学二年の私にはお父さんに関する記憶は一切なかった。そのお父さんに『ありがとう作文』を書くのは難しすぎて出来なかったのだ。
「他のみんなもちゃんと書いているのに」
 そのクラスの中で片親の家庭は私だけで、こういうときは何で私だけ? と、いつも感じていた。親に関していじられるのがすごく嫌で仕方がなかったけど、子供の頃は男子に対して人見知りしてしまうこともあって、私から何か言うこともなかった。
「何してるの?」
 気付けば、その懐かしいアルバムを手にして部屋で座り込んでいた。掃除している最中だったのに……。
「掃除機、まだ使うの?」
「あ、うん。ごめん、あと少しだけ」
 お母さんは不満そうに眉間に皺を寄せて、部屋の扉を閉めた。
アルバムを見つけたことで昔の記憶に引っ張られてしまったけれど、掃除を急いで終わらせるためにアルバムは紙袋に入れてクローゼットの中の上へ仕舞った。いまだに持っていたことに驚いたが、貼ってあった自分の誕生日の写真にお母さんと写っているのを見たら、なんとなく処分しにくくなってしまった。
その日の夜、しばらく連絡を取っていなかった高校時代の友達からメールが来た。他愛のないやり取りの後、会う約束を交わし、明後日に地元の駅で待ち合わせすることになった。
約束の日、バイトを終え、地元の駅の改札を抜けて南口へ向かうと友達の沙織がワイドパンツにシフォンブラウスの私服で壁際に立っていた。
「おっ! 茉莉奈!」
「沙織、久しぶり! 髪短くなっているね」
「そう! 高校卒業して一年くらいは長いままだったけど、面倒になって切ってからずっとこのままだよ」
私と沙織は近くの居酒屋チェーン店に入った。女性の店員に禁煙席を案内され、メニューを見ながらレモンサワーと梅酒、串物や刺身の盛り合わせ、だし巻き玉子などを注文する。
お待たせいたしました。レモンサワーと梅酒でございます」
店員がそれぞれのお酒をテーブルに置き、去っていく。私は梅酒をとった。
「それじゃあ、お疲れ~!」
一口梅酒を飲む。お酒を飲むのも久しぶりだ。
「茉莉奈は今、仕事何しているの?」
一瞬口ごもったけど、そのまま答えた。
「私は……接客のバイトしてる」
「そうなんだ。私も書店で働いているよ。最近は新人を教えることが多いかな」
「そっか。大変だね」
「その合間に、店長から色々教わることもあるから、パンクしそうになるんだよね」
「教わるって、何を?」
「今、店長候補なの。もう五年目になるからさ。だから、店長に代わってシフト作成してみたり、発注することもあるんだ」
「……すごいね、店長になるんだ」
「でも、桃香の方が楽しそうにやっているよ」
懐かしい名前だ。桃香とは高校を卒業してから全く会っていない。
「連絡とっているんだね。」
「うん。たまにね。忙しいみたいだから、なかなか会えないんだけど。桃香は水族館でイルカショー担当しているんだって!」
予想外だった。桃香、そんな仕事していたんだ……。
「難しそうだけど、いいよね。イルカと触れ合ってるなんてさ」
梅酒をまた飲んだ。最初の一口目の方がおいしかったような気がした。
それから、店員が刺身などの他の注文した料理を運んできた。それを食べながら、仕事の不満や他の同級生の様子、ネットやテレビの話題などで盛り上がった。続けて梅酒を注文しようか迷ったけどまた頼んでもおいしく飲めない気がして、その後は結局、頼まなかった。

「ありがとうございました」
紅茶をお買い上げされたお客様を見送る。
「お疲れ、茉莉奈ちゃん。仕事、だいぶ慣れてきたね」
「はい。まだまだ覚えることがたくさんありますけど、どうにかこうにか……」
「ハーブティーの説明、お客さんに出来ていたもんね!」
 悠人くんが箒で床を掃きながら言った。
「悠人くんも紅茶の説明をしていたよね」
「うん。今日のお客様はジャワとアッサムを試飲していたよ」
「ジャワティーって、スッキリして初心者でも飲みやすい紅茶だよね?」
「そう! どの食べ物にも合うよ」
「アッサムティーが……渋くて濃厚?」
「正解。ちなみに、渋いけど香りは甘さがあって、色はコーヒーぐらい黒いよ」
「色まで気にしてなかった……」
「紅茶には日本茶やハーブをブレンドすることも出来るから、基本を覚えたらその辺りの応用をお客様におすすめするようになると理想的だね」
「これから日本茶教室だから時間がないけど、今度、時間のある時に飲んでみるといいよ」
「はい。そうします」
「……あっ、そういえば」
 宏人さんは何かを思い出したように呟き、バックヤードへ入っていった。
「拓人に持っていくように言うの忘れちゃったなぁ……」
 戻ってくるなり、困ったように宏人さんは呟いた。
「悠人はこの後、予定ある?」
「学校行くけど……どうかした?」
「う~ん、拓人に父さんの上着を持って行ってもらいたかったんだけど、伝え忘れて」
「明日は?」
 宏人さんは首を横に振った。
「悠人、学校で行けないだろう? 拓人もそうだし、僕は店があるから行けないんだ。だから、拓人が今日病院に行っている。母さんも泊まりだし」
 二人の会話を聞き、思い切って宏人さんに提案してみた。
「あの……私が届けましょうか?」
「えっ、いやそれは悪いよ。仕事以外のことをお願いするのは」
「私は大丈夫です。病院も近くですし、病室を教えていただければそこまで持って行きます」
「ありがとう、茉莉奈さん!」
「悠人……!」
 宏人さんが悠人さんを咎めるように名前を口にした。
「この際、お願いしちゃおうよ。届けてもらうだけだし。たぶん、父さん困るでしょ?」
 私は悩んでいる様子の宏人さんに言った。
「任せて下さい」
「……それじゃあ、頼んでいいかな」
 病室の番号と白石家兄弟の父親の名前を聞き、上着の入った紙袋を受け取る。
「助かるよ。拓人には僕から連絡しておく」
 帰り支度を済ませ、急いで向かった。

 病院に入り、エレベーターを探して奥へ向かう。誰も乗っていないそれに乗り込んで四階のボタンを押す。到着してエレベーターから降りるとナースステーションのそばにある長椅子に拓人さんが座っていた。文庫本を読んでいるようだったけど、私に気付いて立ち上がる。
「ありがとう。世話をかけた」
「いえ、大丈夫です。これ、頼まれたものです」
 拓人さんは紙袋の中の上着を確認すると
「ちょっと待ってろ」
 そのまま紙袋を持ち、エレベーターから一番手前の病室へ入っていった。私はその病室の近くへ行き、表札の名前を見る。そこには『白石正樹』の文字。
 扉の向こうから少し話し声が聞こえる。それでも小さくて、何を話しているのかはわからなかったが、勝手に聞いてしまっているようでいたたまれなくなった。病室を離れようと背を向けたとき、扉が開く音がした。
「悪い、待たせた。荷物はわたせたからもう大丈夫」
「はい」
 私と拓人さんはエレベーターに乗って一階へ下り、病院を出た。飲み物を買うからと、拓人さんはお金をすぐそばの自動販売機に入れた。飲み物が落ちてきた音が二回したかと思うと、拓人さんは私に缶のカフェオレを差し出してきた。
「お礼。ハーブティーじゃないけどな」
「え、でも……」
「遠慮しなくていい。お金も無駄になるし」
「……ありがとうございます」
 カフェオレを受け取る。拓人さんの右手を見ると、案の定コーヒーが握られていた。カフェオレを一口飲む。……うん、おいしい。
「さっき、何を読んでいたんですか?」
「ん? ……あぁ、これか」
 拓人さんは鞄から文庫本を取り出した。川越駅近くの書店のカバーが掛けられている。
「志賀直哉ってわかるか?」
「……名前だけは。小説家ですよね」
 拓人さんは頷いた。
「代表作は『暗夜行路』や『小僧の神様』などだな。俺は志賀直哉を大学院で研究している。時間あるときに読み返せるように持っているんだ」
 拓人さんが研究者志望だという宏人さんの言葉を思い出した。
 私自身、志賀直哉の小説を読んだことはない。だから、どんな内容なのかわからないけれど、拓人さんは彼の作品を研究していきたいと思っていたのかな。
「今日、上着持っていくように悠人に頼まれたのか?」
 私は首を横に振った。
「私が行こうかと自分で提案したんです」
「それに悠人が乗ったんだな」
「あ、えっと……」
「今日持っていかないと親父がかわいそうだとか言ったんだろ? そうでなきゃ、兄貴はお願いしないだろうし」
「……そんな感じです」
 さすが兄弟だなぁ。よくわかっている。
「兄貴はよく周囲に気を遣う。家族の俺達にもそうだからな」
「そうですね。何となくわかる気がします」
「もっと自分のことも考えた方がいいと思うんだけどな。兄貴は日本茶が好きではあるけど、店を継いだ分、他のことに打ち込める機会やフリーの時間がないんだ。親父が入院している今はしょうがないけど、親父が退院したらどうにかしてやらないと」
 拓人さんの言葉を聞いて、思わず頬が緩んでしまった。
「……何だよ?」
「あ、すみません。宏人さんも同じように拓人さんと悠人くんのこと、心配していたので」
 拓人さんはため息をついた。
「でも、いいですね。兄弟いるのって。うらやましいです」
「そんなもんでもないよ」
 拓人さんは私から視線を外して呟いた。
「高瀬さんは兄弟いないの?」
「はい。一人っ子です」
「仕事はやってみてどう?」
「覚えるのが大変ですね。でも、好きなものの仕事なので早く覚えられるよう頑張ります」
「就職は?」
「……私、どこもダメだったんです。大学卒業するまでにしたかったんですけど、上手くいかなくて。うちは母一人の片親だから、家にお金入れることも考えていたんですけどね」
「そうか。大変だな。一人っ子なら、なおさら」
「昔は、父親がいたらどれだけ違っていただろうって思いました」
「……やりたい仕事や希望の業界はあるの?」
「いえ、今のところは……。アルバイトの経験から、販売の職種も探してはいたんですけど」
「それなら、この仕事も将来に活かせると良いな」
「はい」
 今はこの仕事を頑張るしかないよね。
「……そうだ! 訊こうと思っていたんだけど、今度の日曜日は予定入れてる?」
「いえ、特には」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれないか? 休日手当出すから」
「えっ、どういうことですか?」
「手伝ってほしいことがある」

 昼過ぎに、『ブルーアワー』の近くにある二階建ての古民家の前に来た。
「ここですか?」
「うん、そう。兄貴が先に来ているはずだ」
 拓人さんに続いて古民家へ入る。
「こんにちはー」
「あ、拓人くん!」
 六十代くらいの男性が笑顔で迎えてくれた。見た目は強面な印象だったけど、笑うと穏やかそうな感じの人だ。
「手伝いに来てくれてありがとう。休みの日にすまないね」
「気にしないで下さい」
「そちらの方は?」
「俺らの店のスタッフです。悠人が来られないので代わりに」
「そうか」
 強面な男性の視線が私に移る。
「わざわざありがとうございます。私は拓人くん達の親戚の落合友則です」
「高瀬茉莉奈です。よろしくお願いします」
 互いにお辞儀しあった。
「兄貴はどこに?」
「あぁ、奥の部屋にいるよ。家内もそこにいる」
 玄関で靴を脱ぎ、強面な男性に連れられて廊下を通る。
「ここで親戚の方がカフェを開くんですね」
「そう。古民家にしては割と広いから、ここで出来るって話になってな。準備の手伝いと、メニューに含まれるお茶やコーヒーに関して俺らが色々伝えられることもあるから」
奥の開けた部屋では、グレーのシャツにカーキのパンツというラフな格好の宏人さんと五十代くらいの細身の女性が話している。
 宏人さんが私達に気付いた。
「拓人、茉莉奈ちゃん!」
「お待たせ、兄貴」
私達が近付くと、細身の女性が軽く手を振った。
「拓人くん、久しぶりね」
「ご無沙汰しています、叔母さん。今日はうちの店のスタッフも手伝います」
 自分も名乗ると、その女性はにこやかに微笑む。
「友則の妻で、拓人くん達の叔母にあたる美樹です。今日はよろしくお願いしますね」
 頷くと、宏人さんが言った。
「今、ちょうど内装の話をしていたんだ」
 それから私達は、落合夫妻と相談しながら照明の調整やテーブル・椅子、インテリアの設置、食器類の用意などを行なった。
テーブルを十席置いてその中で二人席や四人席をそれぞれ配置し、カウンター席に椅子を四脚。日の当たる窓の前には木製の小物やガラス細工を置く。
「この段ボールの中は叔母さんが揃えた本なんだけど、入る分だけでいいからいくつか本棚に入れてもらえるかな?」
「はい」
長くくつろげるように小さな本棚の中に様々な本をいくつか入れる。そして壁にはメニューやポスターを貼り、観葉植物の大きいものから小さいものまで適当な場所に動かしていく。
 午後から始めた作業がようやく日没の時間に終了すると、家の中をゆっくり見て回った。一階には、カフェのスペースとして使用される客間や居間の他にトイレ、台所、中庭がある。中庭には手水鉢があり、昔のまま残っているのだと美樹さんが言っていた。
 竹が手すりになっている階段を上ると、一階と同じように使うお座敷と女中部屋があった。お座敷の窓から家の前の通りがよく見え、女中部屋には古い本棚が置かれている。
「お疲れ」
 一階に戻ってテーブル席で休んでいると、拓人さんが両手に持つうちの片方の白いカップを差し出してきた。
「ありがとうございます。宏人さんは?」
「今、店で出す日本茶についてレクチャーしている」
 そう言いながら、向かいの席に腰を下ろした。
「拓人さんはいいんですか?」
「俺はもうしてきた」
 私はカップの飲み物を一口飲む。……あれ、これって?
「コーヒーではないんですか?」
「それは、たんぽぽコーヒー。たんぽぽの根を焙煎したもので、コーヒーに似た香ばしい香りがする」
「これもハーブティーの一つなんですね。……拓人さんのって、正真正銘のコーヒーですよね?」
「もちろん」
 そう言って、拓人さんも一口飲んだ。私は改めて周りを見わたす。
「お店の周囲に古民家のお店が多いですから、あまり珍しく感じることはなくなりましたけど、普段生活している中だと古民家って見る機会ないですね。時代を感じます」
「そうだな。うちの場合は、親や親戚もこういう古民家とか昔ながらのものとかが好きだっていうのがあるし、この古民家もリノベーションする前はちゃぶ台とか鏡台、タイル張りの流しとかあったらしいからな」
「へぇ……! 今の生活じゃ、もう見ないですね」
「このテーブルも打って変わって現代的になったし」
 そう言いながら、拓人さんは目の前のテーブルを小さく叩いた。
「私は今まで、昔のものに縁がなかったです。強いて言えば、母が着物の着付けをやっていることくらい」
「そうか。兄貴が聞いたら、茶道でも勧めてきそうだ」
 思わず笑ってしまった。確かに言いそうだ。
「それじゃあ、成人式の時に着付けてもらったのか?」
「そうです」
「おふくろが聞いたら羨ましがりそうだな」
「どうしてですか?」
「俺らは男三人兄弟だから、着付けが出来ないだろう? 娘がいたら着付けを習って、自分だけじゃなくて娘にもしてあげようとするだろうな」
「……子供にも、ですか」
「たぶんな。覚えておいて無駄なことなんてないし。それが好きなら、なおさら」
 私は自然と、たんぽぽコーヒーを見下ろした。
「お疲れさま。拓人、茉莉奈ちゃん」
 足音が聞こえて見上げると、宏人さんと落合夫妻が戻ってきていた。
「今日はありがとう。とても助かったよ」
「いえ、また何かありましたら言って下さい」
「高瀬さんもお店がオープンしたら、ぜひ来て下さいね。サービスしますよ」
「はい。ありがとうございます。伺います」

 二週間後、バイトでお客様に体の不調に効くハーブティーをいくつか紹介していた。
「花粉症には、こちらのネトルがおすすめです。血液を浄化して、症状を和らげてくれます」
「あぁ、これなのね。じゃあ、血圧に良いものってある? この間、健康診断に行ったら
少し高かったのよ」
「それでしたら、リンデンフラワーが良いと思います」
 陳列されている中から商品を取り、お客様に見せながら続ける。
「これは鎮静作用と利尿作用があり、毛細血管を助けてむくみも改善してくれるものです」
「へぇ~。リンデンフラワーっていうのね。それじゃあ、これも一ついただきます」
「ありがとうございます!」
 お客様の会計を済ませ、頭を下げて笑顔で見送る。
「茉莉奈ちゃん、商品の説明をすぐに答えられるようになってきたね。良かったよ」
宏人さんに褒められた……!
 自分でも商品の知識を頭に入れて、客に言えるようになってきた実感があった。この調子で覚えていけば、もっと達成感を得られるかも。
 その時、店の電話が鳴った。すぐさま拓人さんが電話に出て、バックヤードへ入っていった。
「最近、茉莉奈ちゃん頑張っているから、好きなもの一つだけサービスするよ」
「え、いいんですか?」
 宏人さんは頷いた。
「何がいい?」
「それじゃあ、手先の冷えが気になるので、ジンジャーにします」
 選んだジンジャーを宏人さんがレジ袋に入れていると、拓人さんが顔を出した。
「兄貴、ちょっと」
 呼ばれた宏人さんは、私にジンジャーをわたす。
「ごめん、店番よろしく」
「はい」
 バックヤードに引っ込んでから十分ほど経ち、宏人さんがジャケットを着て出てきた。
「外、出てくる。今日は店に戻らないから、店閉めを頼むね」
「え?」
 宏人さんはそのまま急ぐように店を出ていってしまった。どうしたんだろう?
「今から閉め作業をする」
 バックヤードから出てくるなり、拓人さんは唐突に言った。
「どうしてですか?」
「病院から電話があった。親父の容体が急変したらしい」
 私は驚いて、二の句が継げなかった。
「兄貴は先に行かせて、店を閉めたら俺も行くから。悪いけど、今日はこれで上がってもらう」
「……悠人くんには?」
「連絡した。学校から直接向かうだろ」
 拓人さんに、他に何と言っていいのかわからなかった。自分の身内でこういった経験がなく、ましてや自分の親が病気で入院したこともない。そういう光景は想像できても、理解してはいないのだ。
「どうした?」
 私が黙っているのをおかしく思ったのか、拓人さんが覗き込んできた。
「あ、いえ」
 とっさに首を横に振ったけど。
「あの……私も行ってはダメですか?」
 拓人さんは目を見開いた。
「私が行ってどうなるわけでもないですが、何というか……皆さんのお父さんのお店で働かせていただいていますし……」
 何を言っているのだろうと自分で言いながら感じた。確かに働かせてもらっているのだけれど、これは少々無理やりな言い訳だ。
 拓人さんは一瞬、何か言おうと口を開いたようだけれど、押し黙って私をじっと見た。
「すみません、おかしなお願いをして」
やっぱり言うべきではなかったと悔いていたら、
「……じゃあ、早く店を閉めるぞ」
「えっ?」
「行くんだろ?」
 拓人さんが何も言わなかったことで、思わず凝視してしまった。
「ほら、床掃いて。レジは俺がやるから」
「あ、はい!」
 不安と焦燥を抱えながら、箒を取って店閉めを急いだ。
 作業が全て終わると、私達は病院へ向かった。総合受付で手術室の場所を訊き、そこへ行くと宏人さんと悠人くん、背中を丸めて椅子に座る女性の姿があった。初めに宏人さんが私達に気付いた。
「茉莉奈ちゃん……?」
「あ、茉莉奈さん! どうしてここに?」
「こいつも心配してくれているんだ。それより、親父はまだ……?」
「うん。手術が続いてる」
「おふくろ、大丈夫か?」
 拓人さんが座っている女性に声を掛けた。
この人が拓人さん達のお母さんなんだ……。
ぎゅっと握っていた両手をほどいて、その人は拓人さんを見上げた。
「えぇ」
 疲れているような表情で、覇気のない声だった。
 まだか、まだかと思いながら、しばらくそこで手術が終わるのを待った。腕時計で四十分が経ったのを確認した時、手術室のランプが消えた。固唾を吞んでいると、扉が開いて手術着の男性の医師が出てきた。
宏人さんが医師に尋ねる。
「先生、父は……?」
「無事に手術を終えました。もう大丈夫ですよ」
 その言葉に、私は一気に緊張がほどけた。
「……良かった」
 悠人くんが呟いた。宏人さんと拓人さんも胸を撫で下ろしたようだった。
拓人さん達のお母さんは医師に頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
 私と拓人さん達もそれに続いた。

 麻酔で眠っている拓人さん達のお父さんが病室に運ばれ、白石家のみんなが安堵した様子でお父さんのそばにいた。私はその空気を壊さないよう、病室の前にいた。
 すると、こちらに向かって駆けてくる人がいた。
「美樹さん……!」
「高瀬さん、兄は……!?」
「大丈夫です」
 私は病室に目を向けた。美樹さんは病室の扉を開け、中へ入っていく。私はその場を離れた。
 下るボタンを押してエレベーターが来るのを待っていると、拓人さんがやってきた。
「帰るのか?」
「はい。手術に成功したと聞いて、安心しました。ご両親のそばにいてあげてください」
「悪いな。来てくれたのに」
「気にしないで下さい。また改めて伺いますから」
「わかった。気をつけて帰れよ」
 拓人さんは病室に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、穏やかに落ち着いた病室の様子が頭から離れなかった。
 家に帰って自分の部屋へ行き、鞄を置いてベッドに倒れる。自然と一息ついた。
 すると階段を上がってくる足音が聞こえ、それは私の部屋の前で止まった。コンコンと、ノックの音がする。
「茉莉奈? 帰ったの?」
 答える前に、扉が開いた。お母さんが顔を覗かせていた。
「おかえり。随分早いね」
「うん、ちょっとね。今日は早く店を閉めることになったから」
「そう。今日、スーパー行った時にわらび餅を買ったから、あとで食べな」
 お母さんはそう言って扉を閉めた。足音が階下へ遠ざかっていく。
 ベッドから起き上がり、上着を脱ぐ。部屋を出て階段を下り、洗面所で手を洗ってリビングへ。食器棚からマグカップを二つ取り出して、キッチンに持っていく。
「何か飲む?」
 ソファで雑誌を見ていたお母さんが振り返った。
「じゃあ、おすすめのハーブティーでお願いしようかな~」
 私は以前買ったレモングラスを選んだ。
「少し待ってから飲んでね」
「ありがとう。……なに?」
 お母さんをじっと見ていると、さすがに視線に気付いたようだった。
「今度、着付け教えて」
 そう言うと、お母さんは目を丸くした。
「いいけど、就職してからって言ってなかった?」
「まぁ、そうなんだけど……ひとまず、やりたいことは見つけたから。今の方が時間あるし、覚えておいて無駄にはならないかなって」
「それなら特別に、休みが一緒の日に一から教えるよ」
「うん、ありがとう」
「で? やりたいことって?」
 やっぱり聞いてきたか。
「私、ハーブティーのソムリエを目指そうと思う」
 以前、拓人さんが言っていた資格だ。
「そんなのあるの?」
「うん。お茶やコーヒーに専門家がいるように、ハーブティーにもそれに精通している専門家がいるの」
 そう言うと、お母さんはどこか安心したように笑った。
「そう。見つかって良かったね。でも、そのためにはまた勉強しなくちゃね」
「もちろん、そのつもり」
 自分の経験値が活かせるのは仕事なのか、別の場面なのか……。実際はどうなるかわからないけど、ようやく見つけた自分の目標を大事にしよう。それに、着付けを覚えたら今度は私がお母さんにやってあげるのもいいかもしれない。
 私は、ほんのりレモンの香りがする自分のカップに視線を移した。その中は、淡い黄色に色付いていた。

「いらっしゃい。よく来てくれたね。飲み物、サービスするわね」
「ありがとうございます、美樹さん」
 落合夫妻のカフェがオープンしたので、バイト後に拓人さんに連れられて行った。美樹さんにテーブル席に通される。メニューから気になったローズヒップチャイを選び、拓人さんが頼んだコーヒーと一緒に美樹さんが運んできてくれた。
「チャイも紅茶……ですよね?」
向かいに座る拓人さんに訊くと、コーヒーを一口飲んでから答えてくれた。
「そう。チャイはインドの紅茶だ。チャイはスパイシーな味がするけど、それはハーブとミルクが入っているから、飲みやすくなっているんじゃないか?」
 そう言われて、チャイを飲んでみた。濃厚だけど、爽やかでおいしい。
「この間は、悪かったな。気を遣わせた」
「大丈夫です。お父さん、お元気になってきているようで良かったです」
 拓人さんは頷いた。
「とりあえず、安心したよ。これからしばらくは歩けるようにリハビリに専念することになる」
 一息ついた拓人さんに、自分の今後のことを伝えた。
「私、これからのこと考えたんですけど、ハーブティーのソムリエを目指します」
 拓人さんは驚いた顔で私を見たけど、すぐに笑った。
「そうか。決めたんだな」
「はい」
「それなら、うちの店でとことん勉強すればいい。何かあれば俺達に訊いていいし、きっと役立つはずだから」
「ありがとうございます!」
 今、自分は恵まれた環境にいるんだと、私は拓人さんの笑顔を見ながらそう感じた。

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