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運の貯め方

  眠気を感じ始めたとき、床が揺れた。はっとして、私を担当してくれている美容師の石川さんを鏡ごしに見た。
「地震?」
「やだ、大丈夫かな」
 私は驚いたが、すぐ収まるだろうと思った。しかし、揺れはしだいに大きくなり、目の前の鏡台も揺れ、レジ近くの棚に置かれていたトリートメントなどの美容品がいくつか落ちた。
「うそ、どうしよう」
 揺れる中で、石川さんや他のスタッフ、お客さんが慌て始める。
「大丈夫だよ、きっと。大丈夫」
 私は目の前の揺れる鏡台に不安を感じたが、椅子に座ったまま言い聞かせるように石川さんに言った。そのうち、揺れは徐々に収まっていった。
「よかったぁ。びっくりしたね」
「うん」
 石川さん達は客全員にケガがないか確認し、落ちた美容品を戻してから施術に戻った。しかし、すぐに別のスタッフが石川さんに駆け寄った。
「石川さん、水が出ません!」
 私はその言葉を聞いて固まり、石川さんは手を止めて確認しに行った。何か話しているようだったが、すぐに戻ってきて言った。
「ごめん、阿坂さん。今の地震で水が止まっちゃったみたい」
「じゃあ、これ、どうしよう」
 私の髪には縮毛矯正用の薬が全体的にベッタリと塗られていた。
「ミネラルウォーターがあるから、それを使って流すよ。ごめんね」
 私は言われるままにシャンプールームへ行き、ミネラルウォーターで薬を落としてもらった。その後は乾かし、なるべく自然なスタイルになるようセットしてもらう。鏡を見ると、私の髪はサラサラのストレートになっていた。しかし、薬の匂いがまだ残っている。
「今日出来るのはここまでだから、後日にまたやり直させて」
「はい。すみません、何か……」
「いや、謝るのはこっちよ。本当にごめんね。料金は後日でいいから」
 また来なきゃいけないのか。

 最近、ツイてない。この間も同じ総合スーパーで働く同僚がインフルエンザになって私の出勤日や勤務時間が増えてしまったし、朝早く出勤できるかと思ったら事故で電車が動かなかったり。
 ため息を吐いて、アパートの郵便受けを開けると、はがきや封筒の他にチラシが入っていた。チラシには大きな文字で「あなたは将来のための運を貯めていますか?」、「お金と同じように運も貯蓄できます」と印刷されている。
「開運系のインチキ商法か」
 私はアパートの部屋に帰ると、そのチラシをごみ箱に捨てた。

 次の日の仕事後、私は最寄り駅のそばに出来た新しいスーパーを利用して買い物をした。いつもと違う帰り道を通っていると、白い大きな建物の門にある看板に見覚えのあるうたい文句が書かれていた。
「お金と同じように運も貯蓄できます」
 私は思わず足を止めた。昨日のチラシはここのものだったのか。
 建物を見上げていると、突如後ろから声を掛けられた。
「あの、うちに何か御用でしょうか?」
 ビクッとして振り返ると、四十代くらいの中年の男性がいた。
「いや、何でもありません。すみません」
「……もしかして、この看板、気になりましたか?」
「あ、はい。そうですね」
 その通りだったので、とっさに返事をしてしまった。
「やはりそうでしたか。今までにも、この看板に書かれてあることが気になって見ていた方がいらっしゃったので、そうかなと思いました」
 みんな、この文句に目がいったのか。
「……この、運も貯蓄できるっていうのはどういうことですか?」
「言葉通りですよ。皆さん、将来の夢や老後などのために銀行の口座にお金を貯めておくでしょう? それと同じように、皆さんが持つ運をそれぞれ専用の口座に貯めておくんです。いざという時に運を上げるために」
 この人は何を言っているんだ?
 きょとんとする私に、男性は苦笑して言った。
「まぁ、こんなことを言われてもわからないですよね」
「例えはわかりやすかったんですが、運を口座に貯めるって……」
「あぁ、そんなこと出来ないだろうとお思いですね? 運はお金のように物質じゃありませんし、目に見えないのでわかりづらいのですが、でも、それが出来るんです。私達の研究施設で」
「それがここってことですか?」
 男性は頷いた。
「私達は自分が持っているお金を自由に使ったり増やしたり出来ますよね? もちろん、犯罪に関わること以外でですが。私達の研究施設では、運も同じよう出来ないかと考えたわけです。ようやく専用の機械を開発したんですが、実際に運用出来るかどうか、今はボランティアという形でモニターをして下さる方を募集しているところなんです」
 本当にそんなことが出来るのか?
 うさん臭さを感じて訝しむ私に男性は笑顔で言う。
「よろしければ、やってみませんか? 何人か集まったのですが、もう少しデータが欲しいところでして。モニターに参加するのにお金はかかりませんし、いつでも好きなときにやめていただいてかまいません。私の説明したことが本当かどうか実際に試していただければ実感できると思うんです」
「実感って例えば?」
「まず、普段の生活の中で何かちょっとした良いことをするんです。それにより上がったあなたの運をいくらか口座に貯めておき、仕事のプレゼンを成功させたいなど、いざというときに口座から運を下ろしてあなたの運を上げておく。そうすることでプレゼンが成功する確率が上がる……といった感じですね」
 それは本人の努力次第じゃないのか。
「ツイてないなと感じている方には特に試してもらいたいモニターなんですよ」
 疑心暗鬼の私に、今の男の言葉は引っ掛かった。
 おかしいと感じたら、やめればいい……かな。物は試しだ。
「口座に貯めるっていうのは、どうやるんですか?」
「モニターにご参加下さるなら、施設内で専用の機械をお見せしながら説明いたします」

 私は男に案内されて研究所に入った。中には白衣を着た人達がチラホラいる。
「申し遅れましたが、私は柚木と言います。この施設で運をお金と同じように扱えるように研究しています」
「私は阿坂流里です。短い間ですけど、少し試してみます」
「ありがとうございます」
 施設の二階に上がって、奥の部屋に来ると柚木はその扉を開けた。
「あ、柚木さん。おかえりなさい。……そちらは?」
「モニターに参加して下さる阿坂さんだ。阿坂さん、こちらは私と同じ研究員の竜ヶ崎です」
 紹介された竜ヶ崎という女性は私に会釈をしてきたので、私も返した。
「早速ですが、現在の阿坂さんの運がどれくらいなのか数値化して調べたいと思いますので、この装置を使用します」
 示されたのは、心電図のような機械にコードがたくさん繋がれたヘルメットのようなものだった。
「これですか?」
 こんなので本当に大丈夫だろうか。
 柚木の案内を受けてソファに座り、装置を頭に装着した。
「目をつぶって力を抜いて下さいね」
 言われた通りにし、しばらくすると柚木は言った。
「現在、阿坂さんの運は最高が百とすると、五十五ですね」
 微妙な数字に少しショックだった。やっぱり私はツイてなかったのか。
「これから日常の中で運を上げて、口座に貯めていきましょう」
「口座って……」
「この装置をつけていくつ貯めたいか仰っていただけたら、あなた専用の口座に運を移します。まずは、こちらの書類に必要事項を記入して下さい。口座を開設します」
「はぁ……」
 私は言われた通りに記入し、書類を柚木にわたした。
「それじゃあ、ひとまず十くらい貯めてもらっていいですか」
 とりあえずやって、実感なかったら早々にモニターをやめよう。
 私はやはり、運を貯めるというこの話を信じられなかった。
「わかりました。十ですね」
 再びソファで二、三分程じっと座って終わった。運が口座に移ったらしい。
「些細なことでも良いことがあるようになったら、今よりも運が上がってきている証拠なので、そろそろ貯まったかなと思いましたら、また来て下さい。運の数値を計ります。ただ、運は自分の意志に関係なく、上がったり下がったりしますので、なるべく良いことを続けるようにして下さい」
 私はスッキリしないまま研究所を出た。

 何も理由がないままモニターをやめたいとは言いづらいので、私は言われた通りに良いことをしてみることにした。それで何もなければ、それをやめる理由にするつもりだった。
「眠そうだね。私の作業、終わったから手伝うよ」
 文房具の品出しをしていた同僚が欠伸をしているのを見て、私は言った。
「ありがとう。昨日、知り合いに誘われて、仕事終わりにボランティアに参加したから少し眠くて」
「えっ、何の?」
「簡単なゴミ拾いだよ。駅周辺を掃除したの。その後、参加した人達で飲みに行ったから帰りが遅くなっちゃって」
「へぇ……」
 ボランティアか。学生のとき以来、ずっと参加してこなかったが、良いことをするのにボランティアは最適かも。
「それ、どこでやってるの?」
 私はボランティアを主催している団体と実際に行なっている場所を教えてもらい、仕事の後に行ってみることにした。
 駅の近くにある広い公園に集まるらしいので向かってみると、団体名が書かれた緑色のゼッケンをつけている人がチラホラいた。私は主催者らしき男性に近付くと、相手も私に気付いた。
「ボランティア参加されますか?」
「はい、初めてなんですけど……」
「それでは、必要になる物を貸し出していますので使って下さい」
 そう言われてゼッケンと軍手、スーパーの袋、トングをわたされた。開始時間になるまで待っていると、見覚えのある姿が目に入った。
「あれ、阿坂?」
 それは、私が大学時代に仲良くしてくれた池上先輩だった。ボランティアのゼッケンをつけている。
「えっ、先輩!? お久しぶりです!」
「久しぶりだなぁ! 阿坂もボランティアに参加するんだな」
「はい。初めてなんですけど、同僚からこの話を聞いて参加してみたんです」
「そうか。俺は時々、参加してるんだ。俺の友達がこの団体に入ってて、誘われてさ。でもまさか、ここでまた会うなんてな」
 私は先輩以上に、驚いたと思う。池上先輩は私が片思いしていた相手だった。想いを伝えることなく大学を卒業して疎遠になっていたけど、ここで会えるとは思わなかった。
 ボランティアが始まってからも、ゴミ拾いをしながら先輩と大学時代の話に花を咲かせた。平静を装っていたけど、内心はかなり浮足立っていた。
「皆さん、本日はご参加ありがとうございました。この後、参加された皆さんと交流会をしたいと思いますので、お時間がよければぜひご参加下さい」
 駅周辺をぐるりと回ってゴミ拾いを終えた後、主催の男性は参加者に向けて案内をした。先輩はどうするのだろうとチラッと様子を伺った。先輩は主催の男性と話している。
もともと、私は飲み会に参加するつもりはなかったのだけど、先輩とこのまま別れるのもなぁ……。
ゼッケンなどの借りたものを近くにいたスタッフに返しつつ、そんなことを考えていたら先輩が私の方へやってきた。
「阿坂は交流会、参加する?」
「私は……」
 返事に窮していると、先輩は笑った。
「無理に参加しなくてもいいよ。俺も行かないし」
「あ、そうなんですか」
「明日、仕事で朝早く行かなきゃいけないからさ」
 先輩の言葉を聞いて私はほっとした。私達は交流会へ行く人達と別れ、駅へ向かった。
「せっかく会えたしさ、今度食事にでも行こうよ」
「はい、行きましょう!」
 思いもかけない誘いに嬉しくなった。駅で連絡先を交換して別れた後も、私は口角が上がってしまうのを抑えられなかった。自宅に帰った後、先輩とやり取りをするなかで次に会う日を約束をすることができた。
ベッドに横になり、スマホの画面を見ていると自分の今の運が気になった。仮にあの柚木という人の言葉の通りだとすると、私は今、運を使ってしまっているのだろうか?半信半疑ではあるが無料だし、先輩に会う前に運を上げておいてもいいかもしれない。

 次の日、私は研究所に行った。運を上げたい旨を説明し、柚木に運を計測してもらう。
「現在の運は三十です。恐らく昨日の間に運が少し上がり、また運を使用したのですね」
「そうですか」
「約束の日までに運を貯められてみるといいかと思います。運が高ければ、それだけ良い結果になりますよ」
 先輩との約束は一週間後だ。私は柚木に言われた通りに同僚の仕事を手伝ったり、電車でお年寄りに席を譲ったりと少しでも良いことをするよう努めた。これをすることでどれだけ運が上がっているのだろうかと思ったが、これも先輩との食事のためだ。
 約束の日、私は前日に悩みに悩んで決めた水色のワンピースを着て、先輩と会う前に柚木に運を確認してもらった。
「現在は七十です。口座の方も八十五も貯まっていますし、短期間によく頑張りましたね」
「それじゃあ、二十ほど運を下ろしてもらっていいですか?」
「かしこまりました」
 これで私の運は九十もある。実際、この一週間の間に上司から仕事を褒められたり、インフルエンザで休んでいた同僚からお礼として有名なお菓子をもらったり、来月は二日も有給休暇が取れることになったりと良いことがあった。
 研究所をあとにして、先輩と待ち合わせの駅へ向かった。遅刻してはいなかったが、先輩はすでに来ていた。
「先輩、すみません。お待たせしました!」
「俺もちょうど来たところだよ」
 先輩は笑顔で迎えてくれた。
「今日のワンピース、かわいいね。似合ってるよ」
「えっ! ありがとうございます」
 服装を褒めてくれて、私は内心舞い上がった。これにしてよかった……。
 その後、私は先輩のエスコートでカジュアルなイタリアンレストランに行った。食事の間も少し緊張したが、先輩と会話が弾み、楽しい時間を過ごせた。さらに、会計も先輩が奢ってくれた。今日の食事は成功だ!
「阿坂が良ければ、さっき話した映画をさ、今度見に行かない?」
「はい、行きます! 私も見たいです」
 また誘ってくれた! 次は映画デートだ!
 今日はとても良い日だった。

 翌日、私は再び研究所に足を運んだ。
「現在の阿坂さんの運は四十五ですね」
「えっ? そんなに少ないんですか?」
思った以上に私の運が下がっていた。
「昨日、測ってから今日ここに来るまでの間に、消費したんでしょう。良いことが続いたのではないですか?」
 確かに、昨日の食事を考えればその通りだ。私は頷いた。
「では、どうされますか? 運を貯めますか? それとも下ろしますか?」
「とりあえず、そのままで。そろそろ運が上がってるだろうと思ったときに、また貯めに来ます」
 次回の映画デートまで、しばらく空く。その間に運を貯めて、当日のデートは運が百の状態で臨もう。そうすれば、順調にこのまま……。
 私は良いことをするために、俄然やる気が出た。さっそく今日から、自分の仕事の合間に些細なことでも上司や同僚の手伝いをし、客からの問い合わせにも積極的に、親身に応じるよう努めた。全ては先輩とのデートのためだ。
「阿坂さん、お客様からクレームが来ちゃって……」
 品出し中に、困惑した様子で同僚が相談に来た。
「お客様はどこ?」
「レジにいます。おつりの受け渡しで揉めてるの」
 厄介な案件だ。
「つり銭詐欺かもしれないから、慎重にしないと」
 レジに向かうと後輩の子が対応していた。直接レジで会計を受けたのは彼女なのだろう。私は気が重かったが、これもデートのためだと思い直して彼女と変わった。

 二週間後に仕事の後、研究所を訪れた。
「運が上がりましたね。現在、九十七ですよ」
「よかった。最近、色々頑張ってたんです。それじゃあ、七十五の運を口座に貯めて下さい」
「かしこまりました。口座には合わせて百四十の運が貯まります」
 柚木さんが私の運を口座に移してくれた。これで映画デートのための運は貯まったけど、まだ一週間ある。その間も運を貯めて、デートの後にも使えるようにしておこう。
「ところで、あまり顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「はい。……平気です」
 実際、少し身体が怠く感じていた。これまで、同僚の代わりに一日通しで朝から閉店後まで働いたり、職場の先輩の飲みに付き合ったり、ボランティアに行ったりと忙しくしていた。それも池上先輩と連絡のやり取りが出来ていたからめげずに頑張ってこれた。
「あまり、無理はしないように気をつけて下さいね」
 私は頷いた。研究所を出て、家へ帰るとベッドに倒れ込む。
「ちょっと疲れたな」
 早めに休もうかと思ったとき、スマホが鳴った。確認すると、池上先輩からラインが来ていた。自然と頬が緩んでしまう。
 結局、先輩との連絡を続け、いつもと変わらない時間に就寝した。
「うわぁ、最悪だ……」
 翌日、体温計で熱を測ると三十八度を超えていた。私は職場に連絡し、休むことを伝えた。
「病院、行かなきゃな」
 重い身体を起こして支度をし、家を出ようとしたときにふと気付いた。
もしかして、今の私の運が低いせいでこうなっているのだろうか? 昨日、運を口座に移したことで今の運は二十二くらいになっているはずだ。デートに影響が出たらさすがにまずい。今日一日は薬飲んで休んで、明日からはなんとかしないと……。
 そんなことを考えながら病院に向かっている途中、横断歩道に差し掛かった。青信号が点滅している。私は急いで渡ろうとした。

「ナンバー五十六の被験者が亡くなってしまいましたね」
 竜ヶ崎が阿坂さんの書類に目を通しながら言った。
「非常に残念です」
「柚木さんが担当した中でも熱心にモニターに参加してくれましたものね」
「えぇ。ただ、彼女は他人のことを考えて行動したわけではなく、最初から最後まで自分の運を上げるという利益のために動いていましたからね」
「そうなんですか?」
 私はデスクに置かれている白いマグカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。
「この間、彼女の葬式に参列したときに話を小耳に挟みましてね。同じ職場の方らしき人がいまして、阿坂さんが仕事を全部一人でやろうとするから自分達の仕事がなかったとか、客のクレームはだいたい阿坂さんに回していたとか」
「なるほど。初めのうちは感謝されていたかもしれませんが、実際には人の仕事を取ってしまったり、都合よく仕事を押し付けられていたわけですね」
「自分の欲が出てしまったからですね。彼女を参考に、今後のモニターへの説明はそういったことも注意するようにお話しましょう」
「人のために動いたことが自分の運に繋がるわけですね」
 私は頷いた。
「それに我々の研究は、無理なく貯蓄がモットーですからね」

                                                                                                    -Fin-

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