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乖離

乖離を語る人が好きだ。そしてその人のことをこわいとも思えば、なぜだか信頼もできる。まず、乖離とは何か。辞書によると「そむき離れること。はなればなれになること。」という意味のようだ。乖離を語る人は、物事の本質を見極めている気がする。それが「こわい」と「信頼」が共存する理由である。何が本音で何が建前か、どれが嘘でどれが真実か。分からないように混ぜ込まれたAとBを綺麗に分離させることを得意としているあなたはきっとわたしの嘘も見抜くのであろう。それがわたしはこわいのだ。あなたのアタマの中で目の細かいふるいにかけられたわたしは残っているのか、さらさらと零れ落ちたのか。くやしい、零れ落ちる時も下品な落とし方なんかしないあなたはずるい。グラニュー糖をオレンジ色の紅茶に注ぐときのようにきらきら光らせながら音もたてずにさらさらと、まるでそこが天国と間違うような、美しいふるい方をするのだろう。甘い、ストレートティーに程よい甘さだ、なんて紅茶で和んだが最後、GAME OVER。飲み干したカップの底には惨めなわたしの輪郭すら映らず、カップの淵に残ったリップの跡を虚しく見るだけ。万人受けするピンク色じゃなくて、あなたのふるいに留まりたくて塗ったバーガンディの色が目に濃く焼き付く。


全部ぜんぶわたしの幻想で、乖離を語っているのはわたし自身だった。そんなわたしが好きで、扱いづらくてちょっと嫌い。そう、これもきっと乖離。

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