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わすれもの

「今ならわたし、この一杯のリキュールで酔ってしまえる気がするわ」
ふっと一瞬だけ目線を合わせて彼女はぽつりと言葉を落とした。
80年代のジャズが静かに流れるように彼女のふとした溜息を打ち消す。
おもむろにグラスのあしをなぞる手がたおやかで、つい見とれてしまった。
彼女の白くて細い指は、透き通るような真っ赤なリキュールの上ではパールのように映えていてその華奢な指輪のほんの小さなダイヤもくすんで見えた。
思わず目が離せなくなるのは、もう反射に近い。

縋るような彼女の瞳がゆらりと揺れるけれど、わたしは決して、どうしたのとは聞かない。
ただ黙って時々モヒートを傾ける。
あのとき、彼女がどんな話をして何に悲しんで涙を流していたのか今更わたしには分からない。

月が真っ白に薄い空に溶け出す頃、オーナーは全てのグラスを拭き終えた。
乱れたソファを直して最後にカウンターを整えている彼は突然、あ、と小さく声をあげた。
「これ、お客さんが忘れていったな…こんな綺麗な指輪を。」
彼のゴツゴツとした手には不似合いな華奢なリングを薄暗いライトにかざす。
あの真っ白な指からひとりになったリングは、ライトの光に妖しくギラギラと輝いていた。
たしかに、あれは、あのリキュールの彼女の。
「どのお客さんのだろうか。お前、何か知ってるか?」
オーナーはわたしの方に向き直り、ふと笑った。
「お前に聞いても分からないか。今日もお疲れ様。」そうしてわたしに繋がっているコードをコンセントから引き抜く。
この瞬間、わたしは一瞬だけ走馬灯のような映画のフィルムを一気に巻き戻すような感覚を覚えて、頭にチカと稲妻が走る。それからあとは、ブラックホール。

オーナーが一人で営む、カウンターに5つばかりのハイスツールと一つのソファー席しかない小さなバー。
そのひとつのカウンター席にわたしが座るようになって3ヶ月ほど経った。
このバーに足を運ぶのは、ひとりで本を読んだり、たまにぽつりぽつりと呟きながら酒を飲む客がほとんどだ。
そんな客がひとりごとを語りかける相手としてオーナーはわたしを置いた。
わたしは、人間のようにただ酒を傾けてたまに一定のタイミングで相槌を打つだけのロボット。コードをコンセントに繋げれば起動して、抜けば鉄の塊になる。
客が話すことに答えることも、記憶することもわたしには何も出来ない。
それでも客はただ黙ってたまに相槌を打つだけのわたしにひとしきりボソボソと語りかけて酒を飲む。

あぁ、今日も。まだ二十歳半ばの若い女性がわたしの隣に座ってグラスを揺らした。
深海のような深いブルーのカクテルを不意にわたしのグラスにカチンと合わせた。
白く華奢な指が一瞬だけわたしの手に触れる。
「このカクテル綺麗でしょう。ブルームーンっていうの」目を合わせることもないわたしに、ポツリと語りかける彼女の声色はまるで内緒話のようだった。
そうして、彼女はわたしに、時々息を震わせながら、ポツリポツリと言葉を零した。
わたしは定められた相槌を打つだけで、彼女に何も返すことは出来ない。

オーナーはグラスを拭きながら、ふと何度か彼女に目線をやると、スーツのポケットに手を忍ばせた。
「お客様。ひとつだけお尋ねしたいのですが。」
もう少なくなったブルームーンに目線を落としていた彼女が驚いたように顔を上げた。
「これはお客様のお忘れ物ではありませんか?」
オーナーがスーツのポケットから慎重に取り出したのは、華奢なダイヤの指輪だった。
眩しいほどにダイヤがチカと光っていた。
彼女の横顔が少し揺らいだ。
「わたしの、忘れ物です。」
ピンと張った琴線に触れてしまったような音に似ている声で彼女は呟いた。
持ち主が見つかって良かったと微笑むオーナーの手から彼女に手渡された指輪が彼女のたおやかな手に渡ると、そのダイヤは輝きを曇らせた。
「これはわたしの忘れ物。忘れてしまわなければならないものなの…」
しばらくの沈黙に、アコースティックバイオリンの音色が空気を震わせる。
彼女はすっと立ち上がると、一筋の涙とブルームーンの最後のひとくちを赤い唇に染み込ませた。
「わたしはあなたになりたい。あなただったら、すべて簡単に忘れてしまえるんでしょう」
そっとわたしの耳元で囁いて、遠のく彼女の足音をわたしは頷きながら聞いていた。

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