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オルゴール

ギギ…と軋んだ音を立てて小さな木箱を開けた。
甲高く半音ズレた「月の光」が小さな部屋に駆け回る。
壊れかけのメロディーに合わせてギシギシと回る剥がれかけのピンクのトゥシューズ。
規則正しく音とともにただそれがクルクルと回るオルゴール。
それをひとしきり見つめて、ネジを固く巻き直してからベッドにつく。
それがわたしの毎夜の日課になっている。


初めてこのオルゴールを見つけたのは、ママと街に出かけたときにたまたま前を通りかかったおもちゃ屋さんだった。
箱を開けるとキレイな音楽と共に可愛らしいバレリーナがクルクルと回る不思議なおもちゃに一目惚れをした。
友達が持っている大きな目をした着せ替え人形には目もくれず、わたしはオルゴールに夢中だった。
「ママ、どうしてこの箱は音楽が流れるの?
この人形はどうなっているの?」
オルゴールの仕組みを懸命に尋ねる幼いわたしに、ママは笑って「これは魔法の箱だからだよ」と囁いた。
幼いわたしは「魔法の箱」という言葉に宝石のような憧れと、誰にも話してはいけない秘密を共有したような緊張感を抱いていた。

その年のクリスマス、ママは綺麗にラッピングされたプレゼントをくれた。
わたしが欲しくてたまらなかったあのバレリーナのオルゴール。
自分の手の上にある「魔法の箱」はずっしりと重く、その蓋を初めてそっと開けるとき、わたしの手は少し震えていた。
ギギ…と音がして蓋が開くと、おもちゃ屋さんで見たのと同じ光景が広がる。
永遠にクルクルと回り続ける可愛いバレリーナに夢中になって、しばらくずっと開け閉めを繰り返していた。
何か悲しいことがあっても、この箱を開けて優しいオルゴールに合わせて可愛らしいバレリーナが踊るのを眺めていれば、心が安らぐ気がする。
ママが言っていたとおり、この箱は「魔法の箱」だから。
大人になって、オルゴールの仕組みを知るようになっても、わたしはこの箱の魔法から覚めることはなかった。

しだいにわたしは大きくなって、昔のおもちゃはいつのまにか気づけば、部屋から無くなっていた。
それでもこのオルゴールだけはママから貰ったクリスマスの日から、ベッドの脇のテーブルから動かしたことは無かった。
一ヶ月前のある夜まで。

その夜、わたしは大切だった人に別れを告げられた。突然だった。
わたしは泣いて、行かないでと叫ぶのに、その人は申し訳なさそうに微笑んでわたしの手を離した。
離れるときにそっと掴まれた手は、まだその人の温もりの余韻を残したままぶらりと垂れ下がった。
部屋に帰ってもその余韻は消えることはないままで、苦しくてたまらなかった衝動で思わずベッドの脇のテーブルを思いっきり蹴り飛ばした。
その拍子にテーブルの上のオルゴールは音を立てて床に打ち付けられた。
床の上で蓋が開いたオルゴールが狂った半音の「月の光」を奏でる音がわんわんと耳に響く。
わたしが疲れ果ててそのまま倒れこむように眠りについても、床に落ちたオルゴールはひとりで鳴り響いていた。

翌朝、全身の痛みに目が覚めた。そのままベッドに突っ伏して寝てしまったせいか、腕にピリリとした痛みが走る。こめかみが締め付けられたような頭痛も共に襲ってきて、視界がぼんやりと揺らいでいた。
わたしの部屋、こんな部屋だったっけ?
いつも見ているはずの部屋が今日は知らない街の誰かの部屋のように思えた。
斜めにかかったままの絵画にパタリと横倒しになったサイドテーブル。
その視界の端に、床に倒れこんだオルゴールが映る。
それは、月の光がいつのまにかどこかへ吸い込まれてしまったように静かに呼吸を止めていた。
わたしは慌ててそれを抱き起こした。
細かく傷ついた箱の中でゆるんでしまったネジが今にも落ちそうになっていた。
慌ててゆるんだネジを勢いよく巻き直す。
やめて、どこにも行かないで。元に戻って。
今にもこの箱にこめられた魔法がどこかへ行ってしまいそうな気がしてわたしは思わずオルゴールを抱きしめた。
抱きしめた腕の中で静かに半音狂ってしまった月の光が鳴り響いた。
ただピンクのトゥシューズだけがクルクルと回り続ける。

バレリーナはピンクのトゥシューズを脱ぎ捨ててどこかへ行ってしまった。
どれだけ部屋を探し回っても見つからない。
どこへ行ってしまったのよ。
踊り疲れたようにポッキリとトゥシューズだけを残して。

それから毎夜わたしはオルゴールのネジを巻く。
巻いていれば、戻らない過去を戻すことが出来る気がした。
戻らないはずのバレリーナが戻ってくる気がした。
戻らないはずの大切な人を戻したかった。

今夜も、魔法の箱の中でトゥシューズだけがクルクルと回り続ける。
クルクル、クルクル、クルクル、月の光の中で。


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