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236【耳をすます】

ルソー、ペスタロッチ、そしてディースターヴェークとつづく近代教育思想の基本原理の一つである「こどもの自己活動による学習の発見的活動」これは、こどもの自主的・自発的思想を尊重し、こども自身が直観を明瞭な概念へと発展させていくことを基本としている。

しかし、これは一般論であり具体性に欠けるとして、デューイの問題解決的な学習を、日本は取り入れてきた。最近ではPDCAサイクルにGoal目的を増やしてGPDCAとも言うらしい。

帰納的理論に注目し、理論をつくってきた数十年だったが、オンライン授業によって、呆気なく演繹的な授業へ変えてしまった。双方向のやり取りではなく、動画やテレワークによる一方向の授業への急激なシフトチェンジ。仕方ないで、片付けられるのだろうか。これだから、教育思想・技術は、信用できない。

教育は、人である。結局は、そこへ行き着く。教師が何千人集まって、枠の中で研修を積み重ねようと、つながり交流しようと、そこに異見を見つけることが出来なければ対して意味はない。むしろ巨大化し過ぎた慣性力によって、変わることが難しくなる。

人間がコンピュータに勝るものは、意識である。一つ一つの具体的な事例を統合し、判断する力だ。それらは、直感とも言える好き・嫌いで、葛藤する場面から前に進めること。コンピュータは、葛藤場面から永遠に抜け出すことは出来ない。数字ではなく、感情で進める強さにあり、それは経験として進化の過程で身に付いている。

先は見えないけれど、こういうときには、立ち止まった方がいいとか、好きな方を選ぶといいとか。そこには、考えてみて、自ら管理することなど出来ない自然に備わってきたなにかがある。

都市の中でしか生きられない私たちに、どうやって、自然な判断が出来ようか。はっきり認めればいい。今回は、これまで良いと思って進めてきたことは、間違っていたのだと。

どんなにオンラインになろうとも、時間が限られていようとも、知識を押し付け、個々の成長を待てない教育はあり得ない。こどもの自主的・自発的思想を尊重し、こども自身が直観を明瞭な概念へと発展させていくことは、一般論ではなく、全ての土台だ。経済が悪くなるから、お金で立て直す、こんなときだから、もっと挑戦する、新しい方法を考える、一見良さそうでいて、狭くなり過ぎている。子どもたちは、大人の矛盾に気付いている。いまの人工的な言葉には決して耳を傾けないだろう。

オンラインにするなら、オンラインでなければ出来ない発想にしなければ、存在する意味がない。動画配信なら、既にある番組紹介で充分で、楽な方、一見して良いと思う方へ一喜一憂すべきではない。本質はなんなのか、異見はないのか、本当に自分に社会に必要なのか、第三の目で、見極めることが重要だ。

この不思議な三ヶ月を、不思議な気持ちで眺めている。これから、どんどん、苛立ちや不安、悲しみに押しつぶされていくだろう。それでも、わたしたちはコロナに打ち勝ったというのだろうか。いまはただ、自然に耳をすますのみ。

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