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【おじさんになった少年の生き様】

みなさんは『少年メリケンサック』を見たことがありますか?中年になったおじさんたちが、昔みたいに声が出ない、昔みたいに動けない、20代の頃の弾けきっていたまぶしい姿は微塵もない、そんなだらしなく年をとった中年のおじさんたちは頑張る映画。おじさんたちは、佐藤浩市、木村祐一、 ピエール瀧、田口トモロヲ。あきらめたらいいのに、それでも「奇跡を見せてやる」とあきらめない姿には、拍手を送りたくなる。

もっとよくなろう、いまを守ろうととばかり考えると、不安や心配事に目が向く、意識が向く。自分を見つめ、流れに身を任せ、引くこと、譲ること、手放すことも大切。「あきらめちゃえばいい」。流れの中で生きればいい。守ろう、強要しようとするから、苦悩が生まれ、自ら崩れてしまう。

少年の心は、まっすぐで素直で、スポンジのようにあらゆるものを吸収する。生まれたばかりのころは、みんなに祝福され、ただ笑顔でそれにこたえる。やがて、言葉を覚え、夢を持ち、たくさんのことを得る。なのに、たくさんのことを得れば得るほど、得られないことに苦しめられる。教えを求め、様々な師を訪ね歩けば歩くほど、満足することが叶わない。結局、苦行では、真の満足や教えにたどり着くことはできない。

いま新しい学習指導要領の改訂に向けて、多くの教師が講座やセミナーで学ぼうとしている。ブラック企業と言われるほど、子供のためにと朝早く夜遅くまで、仕事をしている。しかし、そのどれも、子供たちを満足させることはできない。何時間もかけて準備しても、たくさんの師に教わっても、何百冊の書物に触れても、寝ずに食べずに仕事をしても、真の満足に至ることはない。何事も極端に過ぎるのではなく、中道が肝心。苦行は無意味である。結局は、ちゃんと寝て、ちゃんと食べてる奴には、敵わない。

おじさんになった少年は、無我夢中でがんばることをあきらめた。それよりも、命がけで自分自身と思索することにした。何冊も本を読み、部屋のものを手放し、毎朝床をトイレを鍋を磨き、不眠不休で思索した。記憶力、体力も衰え、ただ読んだもの、見たこと、聞いたことまでも、ことごとく忘れてしまう。それではいけないと、毎週ブログを書き続ける。そして、自身が得たことは、人々に与えるようにした。

すると、不思議なことが起こる。おじさんの中に、とてつもない力を持つ不安や怖れがいた。己の中に潜む野心、慢心。それを乗り越えるために行った思索の過程を、丁寧に言葉で伝える中で、少しずつ『さとり』に至ってきた。「鎖取り」とも言える。いろんなものをあきらめることで、明らかに見ることができるようになり、それを人に伝えることで、心の思い鎖から解き放たれ、真理に近づくことができた。おじさんになった少年は、少年の頃、はじめて手にした「笑顔」の大切さに気付くことができた。言葉を得、成長し、様々な価値観を知る。たくさんのことを手にしているのに、人はより苦しくなる。引けばいい、譲ればいい、手放せばいい。少年が赤ちゃんのとき、はじめて手にした満足に、幸福に、気付く。

学校は、学力とか、試験とか、競争とか、そういうもので子供たちを成長させる。苦しさへの耐性で、よりよく成長していく。「生きる」とは、「働きながら学び続ける」ことだと思う。生きるために貨幣を得るため働かなければならないし、人として生きるためには、社会をよりよくするために学び続けなければならない。だが、教育の原点は、得た知識を社会のために用い、笑顔を大切にすることだというのを忘れてはならない。それこそが、人格の完成なのだ。

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