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【未来からのエネルギー】

ほんとはブログを書いてる暇も惜しいけれど、考えの記録としてなら意味がある。いまこうしてブログを書いている理由はそんなところ。

もうすぐ平成最後の大晦日を迎えようとしている。正月になれば、1月6日には部分日食がある。北海道でも見られるだろう。ここ20年、ぼくはどんな道を歩いてきたんだろう。正確には選択してきたんだろう。人生の主人公はぼくじゃない。道なんだ。

ものすごく資格を取ってきた。大学を卒業した。修士課程も修了した。英検、心理カウンセラー、NLPマスタープラクティショナー、キッズアンガーマネジメント、各種ファシリテーター資格、JBA審判員、コーチ、それらの過程でカラーセラピスト、絵本、詩、朗読、演劇、本、水彩画、ヨガ、太極拳、登山、どれもこれもやってみた。自分では、全力疾走してきたつもりでいる。いま振り返ると、すべて中途半端なものばかり。どれも仕事としてしない。世界と戦える水準にない。でも、こうした学びの連続性を学びだと思い、突っ走ってきたのは、ぼくだけじゃないはずだ。肩書きに囚われ、インターネットの急速な普及により、グローバルな生き方やスピリチュアルな考え方が流行した。その中で、サブカルチャーがひそかに急成長してきた。平成最後の年、いままさに情報の海の中で、AIの船に乗ることができるかどうかが、これからの人生を左右する。どの船に乗るかが、ぼくの生き方になる。

こうした社会の中で、世界卓球、バドミントンなど、スポーツ界を見てみると、一つの競技にとことん全力疾走し続けた10代の日本人が世界と互角以上の戦いをしている。日本人ってなんなんだと思う。科学、文学、医学の分野を見ると、ノーベル賞候補に挙がるのは、過去の業績。世界と互角に戦ってきたのは、昭和のものばかり。美術の世界を見ると、江戸時代のものだったりする。いま、そういう状況にあるんだろうか。世界と互角に戦える教育が展開できているのか?

哲学、教育方法学、教育心理学、そして、協同学習、ワールドカフェ、IT、一斉指導まで、バカみたいに勉強してきたつもりだが、相変わらず日本発信の教育はなく、それぞれ個々の発想による教育が展開され、成果をあげている。こんなんでいいのか?いずれ、日本の大学は、全入学の時代へ突入していく。2030年には、入試制度そのものがいまのケンブリッジのような形になっていく。一芸に秀でているものや議論ができるもの、点数に捉われないカタチへと。そして、2040年には、大学の入学者時代が変わってくる。日本人だけの大学はなくなる。少子化のため、日本人がそもそもいない。海外の移住者や大人の学び直しの場へ変化していく。そのとき、求められる教育のカタチってなんだと思う?勉強しなさい!!なんて宿題をやってる場合じゃないんだよ。10才までは、自分が好きなことへ思いっきり没入させて、そこから、自分に合うもの、合う世界へと出会わせて、積み重ねていかないと通用しない時代がすぐそこまで来ている。AIの処理速度に対して、中途半端な知識が通用するはずがない。

ぼくがいまからできること、

果てしない日本文化と世界の最先端の流れをインプットすること。本はものすごく読まなければならない。いままでゆとり時代から悟り時代と、社会を舐めてた。本を読むということは、それだけものを見る視点が高くなるということ。本の言葉を引用し、自分の言葉で語れていないと悲観する人や創造性がないと非難する人もいるけれど、そんなことはない。読んだ本の数の文だけ、その人が見る土台は高くなる。より多くの現象を把握することができるようになる。AIにも理解できない日本的な美徳で最先端の潮流を乗りこなす。

40代の人生折り返し、まけてなんねー。悲観して泣いてる場合じゃない。全力疾走する。追い付かれてたまるか、引き離されてたまるか、追い抜いてやる。年間1000冊、原稿は100本(一本7万字)。命が短くなったとしても、このくらいやって、ドーパミンをバンバン出した方が、生きてる実感がある。死にたくなんかない、ただ、ゾンビみたく何の考えもなく生きていたくない。

これを読んでくれてる人、いっしょに全力疾走しよう。この瞬間から。たったいまから。いまの生き方で満足できる?ぼくはできないね。

チョレイ!!!!!

世界で戦おう。未来からのエネルギーが、いまの自分を引っ張りあげる。

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