第七話 小布施(前編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」
春の筆先がそっと撫でていったのでしょう。遠くの山々はまだ粉糖のような雪をかぶっていましたが、千曲川の河川敷では菜の花たちが黄色い歓声をあげていました。風はそよ吹き、植物の目覚めの香りを運びます。
「蕎麦はたしかに美味かったけど」
児童文学作家の南吉コンキチさんはハンカチで眼鏡を拭くと、河原に目をやりながら腿や腰を拳で叩きました。
「てっきり、善光寺に詣でるものだと思っていたなあ。残念だよ」
今日は長い距離を歩くと決めていたので、まず腹ごしらえが必要でした。長野駅を出たあと、私たちは善光寺に向かう旧北國街道の緩い上り坂を進み、「十割」と看板のある蕎麦店に入ったのです。つるつると喉越しのいい十割蕎麦と、くるみやとろろを盛ったつけ汁が旅の気分を盛り上げました。コンキチさんも、「やはり蕎麦は信州だな」と顔を緩ませました。ただ、そのあとが問題でした。国民的名刹を訪れずにここまで来てしまったことが、彼には不満だったのです。
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2023年5月23日(火)発売
『寂しさから290円儲ける方法』ドリアン助川/著