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マクドウエル【3】 バッティでロキシーを

インド食器屋「アジアハンター」の店主・小林真樹さんが、食器買い付けの旅や国内の専門店巡りで出会った美味しい料理、お店、そしてインドの食文化をご紹介します。



飲酒とは無縁のパキスタンやバングラデシュはいわずもがな。消費者の数では世界有数の飲酒大国といえるインドであっても、今までご紹介した通り必ずしも酒飲みにとって理想的な飲酒環境であるとはいいがたい。街を歩けば確かに飲み屋も酒屋もある。だからといって、目を凝らさなければアルミ皿の輪切りのニンジンとゴキブリとが見分けがつかないほど暗い飲み屋で飲むか、酒屋は酒屋で買ったが最後、コソコソと人目に触れぬよう服の下にボトルを隠し持って宿まで持ち帰らなければならない。まるで非合法のブツでも買うようなうしろめたさだ。

そこに行くとわれわれ酒飲みにとって天国なのがネパールである。今回はネパールでの飲酒旅の魅力をあますところなくご紹介していきたい。

カトマンズの空港に降り立ち、市内に向かうタクシーの車内から、まず見えてくるのがビールの広告看板だ。ビールの看板など日本から来れば何の違和感もなくスルーだろうが、酒類広告に厳しい規制のかかるインドから入国すると実に頼もしく映る。

ネパール国内には2024年現在、約30社の大小さまざまなビール醸造所が存在し、ライセンス生産の外資系ビールから小規模工場で作られる質の高いクラフトビールまで、多彩な銘柄が製造・販売されている。中でもデンマークのカールスバーグ社が1989年、ネパールの資本家ケタン・グループ氏と合弁で立ち上げたゴルカ・ブリュワリー社の生産する「ツボルグTuborg」が最も高いシェアを誇っていて、カトマンズを歩くとこのツボルグの緑色の瓶の広告看板がどこに行っても目に入る。飲み屋や酒屋はもちろん、雑貨屋や軽食店にまでかかげられているからどうしても飲みたくなってしまうのだ。看板の宣伝効果は凄い。ゴルカ醸造所はこのツボルグのほか、ライト層向けに「カールスバーグ」、また2006年にはその名も「ゴルカ・ビール」という国産ブランドを投入。それらはネパール国内市場の実に70%のシェアを占めている。

どこに行っても目に付くツボルグの看板
どこに行っても目に付くツボルグの看板


ネパールのビールの歴史はさほど古くない。国産ビールが初めて誕生したのが1971年。ネパール・ブリュワリー社によって製造された「スター・ビール」が最初である。それまでネパールで消費されていたのは、インドから輸入されていた「ゴールデン・イーグル」という銘柄が主だった。やがて1991年にはフィリピンの「サンミゲル」、1998年にはインドの「キングフィッシャー」がそれぞれ合弁会社を設立し現地生産をスタート。一方、国産銘柄としては1999年創業のMt.エベレスト・ブリュワリー社が「エベレスト」(2003年)、1993年創業のサンゴールド・ブリュワリー社が「ネパールアイス」(2006年)を生産し市場に投入していく。国産第一号のスター・ビールを製造していたネパール・ブリュワリー社はその後ユナイテッド・ブリュワリー社へと社名変更し、現在は後継の「スター・ゴールド」を生産している。エベレストやネパールアイスといった銘柄は日本にも輸入され、インネパ店の定番の瓶ビールとしてなじみ深いものになっている。

ネパールアイスの看板
ネパールアイスの看板


このように、各社が熾烈な競争を展開するネパールのビール業界だが、その一方で、平均物価に比べて値段が高く、日常的に飲める人は限られているともいわれる。酒屋で買っても割高に感じられるが、綺麗なサリーに身を包んだウエイトレスがジョッキに注いでくれるような、「ドホリ・サージ」と呼ばれる民謡酒場などで飲むとさらに販売価格は上がり、ゴルカ・ビールが一本あたり500円ほど(約580円)になる。とはいえ哀調を帯びた男女の掛け合い歌をバックに飲むビールは美味く、気がつくとつい2本3本と追加してしまうのはいたし方ない。

ではビールなどという「ぜいたく品」を飲まない一般庶民はどこで何を飲んでいるのか。ネパール居酒屋を表す「バッティ」で蒸留酒「ロキシー」を飲んでいるのである。

バッティはカトマンズ市内のちょっとした裏通りを歩くとすぐに見つかるが、中でも比較的多いのがアサン・チョウク周辺である。経営者は主にネワール族で、旧市街の道の狭い界隈にかたまっている。基本的に看板はない。ではどうやってそこがバッティかどうかを見抜くのかというと、入口のカーテンの有無である。バッティには主に濃い緑色のカーテンがかかっている(別の色のこともある)。

ちらりとカーテンをめくって中を覗くと、小さなカウンターと数台のテーブル。カウンターの内側にはおじさんかおばさんがいて、カウンターの台の上にはボウルやバットに入った総菜や小料理が並んでいる。つまり造作としては日本の小料理屋とほぼ同じで、客はボウルの中に入った水牛の内臓などをアテにロキシーと呼ばれる蒸留酒をチビチビ飲むのだ。水牛の内臓はそのまま出すのではなく、注文が入った分をその都度鉄板で温めてくれる。こうした気づかいも日本の小料理屋を彷彿とさせ、周囲の酔い客たちとのふれあいとも相まってその空間はかけがえのないものとなる。

魅惑的なバッティのカウンター
魅惑的なバッティのカウンター


ロキシーとは主に雑穀のコド(シコクビエ)から作られる蒸留酒だが、ネワール族は米、タカリー族はファーパル(蕎麦)などほかにもさまざまな素材を使う。ロキシーの製造はごく小さな家内制工場で行われていることが多く、基本的に店はそうしたところから仕入れているが、そもそもバッティの語源には「酒の製造所」の意味もある。

酒の自家製造は建前上、当局から禁じられてはいるものの、とりわけネワール族の場合、祭礼や婚礼といった人生の最も重要な儀礼と密接にかかわるためスルーされている状況のようである。またビールなどのボトル詰め飲料と違い、製造過程で混ぜものが加えられることを不安視する「良識派」の人たちも少なからずいて、そうした人たちはたとえ価格が高くても「安全な」ビールを好む。

バッティの楽しみは単に酒を飲むだけにとどまらない。そこで出されるネワール族特有の「珍味」もまたわれわれを強く魅了する。ほぼ火を通さない、ミンチにした生の水牛肉「カチラ」はまるで韓国料理のユッケのような味わいがある。一方、「サプミチャ」は水牛の胃を小袋状に加工し、中に水牛の髄を詰めて糸でしばり、湯通ししたものを揚げ焼きにするという手の込んだ一品。こうした、なかなか一般の大衆食堂では出会わない味と出会えるのもバッティの魅力である。

バッティではさまざまな珍味が味わえる
バッティではさまざまな珍味が味わえる


なお、バッティは単に夜だけ営業する飲み屋ではなく、昼はチョウミンやモモなどのカジャ(軽食)が食べられることが多い(もちろん昼飲みも可能)。だからたとえ酒が苦手という旅行者であっても、豊かなネワール族の食文化を体感出来る貴重な場になるので、気後れせずに緑のカーテンを開いていただきたい。そこには「もう一つ別のネパールの顔」があなたを待っている。







著者近景

小林真樹
インド料理をこよなく愛する元バックパッカーであり、インド食器・調理器具の輸入卸業を主体とする有限会社アジアハンター代表。買い付けの旅も含め、インド渡航は数えきれない。商売を通じて国内のインド料理店とも深く関わる。
著作『食べ歩くインド(北・東編/南・西編)』旅行人『日本のインド・ネパール料理店』阿佐ヶ谷書院
アジアハンター
http://www.asiahunter.com/

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