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『ロング・ロング・トレイル』全文公開(24) 第五章 走って歩いて、旅をする (5/7)

2018年10月に出版した、木村東吉さんの著書『ロング・ロング・トレイル』を無料で全文公開します。

※前回の記事『ロング・ロング・トレイル』全文公開(23) 第五章 走って歩いて、旅をする (4/7)はこちらから


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ハワイ・カララウの過酷なロングトレイル

 「もしかしてモアブの55キロよりつらいかも」
 カホが後方で弱音を吐く。
 「モアブの55キロ」というのは、ここハワイのカウアイ島に来る前、つい2週間前に参加したトレイルランのレースである。
 昨年、「グランドサークル」の旅をした時に初出場を果たし、今年で2回目の出場である。
 確かに16キロ以上の荷物を背負って歩くのには、アップダウンが予想以上にきつい。ここを歩く前は、海岸線のフラットなトレイルを行くものと、安易に想像していたが、最初からかなりの急勾配を登ったり下りたりしている。
 自分の体重は約75キロ。45キロにも満たないカホとはかなり体重差があるのに、おそらくカホも15キロ近くの荷物を背負っている。そりゃ弱音を吐くのも無理はない。

 「半分の地点まで行ったら、少し荷物を分けて、オレが担ぐようにするよ。だからそれまではなんとか頑張れ」と彼女を励ます。
 どんなレースでも、どんな過酷な山やキャンプでも、決して弱音を吐くことがないカホにしては珍しい。だが確かにつらいトレイルではある。
 
 このトレイルを歩くことになったきっかけは、一本のB級映画だった。
 『バイオハザード』シリーズで有名なミラジョボビッチが、『パーフェクト・ゲッタウエイ』という映画に出演している。
 ボクはミラジョボビッチのファンではないので、『バイオハザード』シリーズも観たことはないのだが、たまたま映画の粗筋を読んで、その『パーフェクト・ゲッタウエイ』という昨品をビデオで観ることにした。
 物語は新婚旅行でハワイのカウアイ島にやってきたカップルが、美しいビーチを求めてキャンプしながらトレイルを歩くというモノで、そのトレイル・ハイクの最中、連続殺人事件に巻き込まれる……というバカバカしい内容である。

 その映画はくだらなかったが、ハワイにそんなトレイルが存在することが驚きだった。そこでそのトレイルを詳しく調べて、実際に歩くことにしたのだ。 
 映画の中の主人公たちはとても軽装で、跳ねるように歩いていたが、実際には肩に食い込む荷物に喘ぎながら、片道、8時間は歩かなければならない。
 歩き始めて約4時間後に、ちょうどトレイルの半分の位置にある「ハナコア」のキャンプ場の川を渡る。
 トレッキング・ブーツを脱いでサンダルに履き換え、「ハナコア」の川を渡り、再び、トレッキング・ブーツを履いていたら、一人のハイカーに出会う。
 「最後まで行くのか?」と質問したら、「いや今回はここで引き返す」と彼は答え「ここの水を飲んでも大丈夫かな?」と訊ねる。
 「いや、止めた方がいい」と答え、続いて「レプトスピラ(という感染症)の可能性があるぞ」と警告した。
 「分けてくれるウォーターピルはあるか?」と聞いてきたので「ある」と答え、彼の3リットルの水筒に、相応量のウォーターピルを振り掛けてやる。
 「レプトスピラ病」というのは、このトレイルを歩く上で、前知識として想定していた問題点で、マングースやヤギなどの尿に含まれている菌が土壌を汚染し、それが川に流れ込んで、その川の水を飲むと感染してしまうのだ。
 見るからに冷たくて、美味しそうな清流ではあるが、そういう危険性も潜んでいる。
 カホの背負っている装備の一部を、ザックのトップ部分に括り付けて再び歩き出す。増えた重量は2キロくらいか。そこからの登りにその重量が食い込む。が、カホの調子は回復したようで、そこから口数も増えていった。

 その後、7マイルあたりで、このトレイルのもっとも危険な箇所「クローラル・リッジ」の断崖絶壁が現れる。トレイルの幅は1メートルくらいの細さになり、片側は海に向かって深く落ち込んでいる。
 昨年、歩いたザイオン国立公園の「エンジェルス・ランディング」と比較すれば、それほど恐れることのないトレイルだが、今回はかなり重量のあるザックを背負っている。ここは慎重に歩かなければ。
 そこから何度か登り下りがあり、最後にすれ違ったハイカーが「もうすぐだ。最後にビッグヒルがあるがな……」と言ってニヤっと笑った。
 確かに彼の言葉通り、かなりタフな登りが続いたが、いかにも「カララウ・トレイル」らしい古代の恐竜が今にも登場しそうな鬱蒼とした熱帯雨林と青い海といった景観が現れ、そこまで歩いてきた労苦が報われた気がした。
 結局は予定通り、約8時間のハイクでトレイルエンドの「カララウ・ビーチ」に到着。
 重い荷物を降ろして、我々はキャンプの準備を始めた。

 カララウ・ビーチでの滞在は、最低でも2泊した方がよい。その理由は水の確保である。すでに言ったが、カララウの水には「レプトスピラ菌」が潜んでいる可能性がある。ウォーターピルで消毒するのはマストで、コーヒーを飲んだり、食事に使う時はそのまま使用するが、飲料水に関してはさらに一回煮沸させる。その煮沸作業に結構時間が掛かるので、到着翌日にそれらの作業をしなければならない。ちなみにトレイルを歩いている最中は、一人あたり約2リットル以上の飲料水が必要と思われる。
 それにせっかく重い荷物を背負って18キロも歩いて秘境のパラダイスにやって来たのに、半日ほどの滞在でまた戻っていくのはもったいない。
 テントを張る場所は、可能であれば滝の近くがいい。水の確保がラクだし、ビーチの眺めも比較的いいような気がする。
 キャンプサイトには極彩色の鳥たちが多数飛来するし、小さな子ヤギの群れが、キャンプサイトを横断する。
 半分、ここで暮らしているようなキャンパーのコミュニティも存在する。我々も「ストライカー」と呼ばれるコミュニティのボスと仲良くなった。彼はほぼ一冬、このビーチで過ごしているという。近辺で収穫されたバナナやハーブを使った、バナナケーキを分けてくれた。長期で滞在している彼らからの情報は、なによりも有用である。が、2日も滞在していれば、我々は「ベテラン」の存在で、新たにやって来たハイカーから、いろいろな質問を受けることになる。そういう時はサービス精神旺盛に、自分たちが持っている情報を共有すべきだ。それがこういうところでキャンプをする者のルールである。
 キャンプサイトの中に「フリーテーブル」という机があり、そこには要らなくなった靴やサンダル、キャンプ道具などが並べられている。もちろんその名の通り、必要であればすべて無料で持ち帰ることができる。但しゴミはすべて持ち帰ることが義務である。少なくともまだ使える「道具」を、フリーテーブルに置いて帰ることは可能だ。その辺りのルールも遵守したい。
 映画『ジュラシック・ワールド』にも登場するナパリの渓谷に囲まれ、美しいビーチを眺め、夕刻にはサンセットに見惚れる。それ以外は暮らしに必要な作業だけをする。
 シンプルを極め、誰の目も気にすることなく、緩やかな時間の流れに身を任せる。世の中の情報からすべて解き放たれ、「今という瞬間」だけを愉しむ。

 人は生まれた瞬間から死に向かって進み出す。そのように考えると、「時」はもっとも貴重な存在だと思う。「今という瞬間」を愉しむことは、その「時」を贅沢に満喫することに繫がる。
 波はどこから来るんだろうか? 風がなくても波が高いのは何故なんだろう? 何故いつも夕陽が沈んでから、空がもっとも美しくなるのだろう?
 そんなことばかり考えていた3日間が終わり、また来た道を歩き始める。
 何故いつも、帰り道の方が短く感じるのだろう? などと思いながら歩を進める。
 もちろん僅かながら食料がなくなった分、物理的に荷物が軽くなったことは確かだが、未知への不安が取り除かれた部分、精神的にラクになることもあるのかもしれない。
 帰路は7時ちょうどに出発した。往路と同じような時間が掛かっても、3時過ぎにはトレイルヘッドに辿り着く。もっともそれからさらに30分、キャンプ場まで歩かなければならないが、トレイルの起伏を思えば、その道のりは食後のデザートみたいなモノである。

 出発の時から小雨が降っていたので、パンツはサーフパンツを履くことにした。日本の山を歩く時に、こんなサーフパンツを履いていたら、すれ違うハイカーに笑われるかもしれないが、このトレイルでは、皆、同じような格好をしている。サーフパンツに上半身裸(驚くことに男女共)というハイカーさえいるし、ブーツはおろか、裸足で歩いているハイカーもいるし、ワラーチのハイカーも一人すれ違った。ビブラム5フィンガー(5本指シューズ)のハイカーも多い。これなら川を渡る時も、いちいちサンダルに履き替えなくてもいいから便利だと思う。特に今日のような雨の日は便利かもしれない。
 
 「快適」「効率的」「生産的」というキーワードに振り回され、いつの間にか動物としての人間性を失っているのではないか? その危機感から自然のフィールドへ踏み出し、敢えて「不快」「非効率」「非生産」な時を過ごすことを選択したはずだった。が、そこでも「快適」な道具やウエアを求め、いつの間にか、それらの道具に囲まれて、「達人顔」をしている自分の姿があった。
 確かにゴアテックスの防水性は素晴らしいし、フリース素材のセーターは暖かくて軽量だ。そしてポリプロピレン素材の下着は汗などのベタつきもなく快適だ。軽量、高い防水性、耐久性、フィット感のトレッキング・シューズは何十種と存在する。
 だがそれらのハイテク道具で完全武装した時、また再び、動物としての人間性の欠如に繫がらないか?
 山を走れば、皆、同じようなザックを背負い、膝には同じようなテーピングを施し、同じような靴を履いてトレイルを駆け抜けて行く。
 キャンプ場に居れば、同じようなテントに、同じような焚き火台、同じようなストーブに、同じようなメニューを作るキャンパーが、大勢やって来る。
 別に個性を発揮しろと言っているのではない。本当に自分にとって居心地のいいスタイルは千差万別。ウールやコットンという選択もあるはずだし、昔、ヨセミテで会ったキャンパーのように、敢えてランタンを使わないという選択もあるだろう。
 これまでに、いろいろなアウトドア関連企業のアンバサダーを務め、その商品開発にも携わってきたが、ここ数年は、「快適な完全武装」を止め、敢えて不便なウエアや道具を選択することもある。

 8000メートルの頂きに立つという目標を持っているわけじゃないので、そこそこのウエアでも充分に対応可能だと分かっているし、そういうウエアでいる方が、そのまま街に出ても違和感がない。そこそこ重量のあるクッキング・ウエアの方が、調理の幅も広がる。あまりストイックに「ミニマム」を追求することもないだろう。
 そして道具に足りないスペックは、己のこれまでの経験と知識、そして体力でカバーする。それこそがアウトドア・ライフの醍醐味だと思うし、そこに失われつつある「動物としての人間性」が輝きを放つ。
 足にマメを作ってもいいじゃないか。重いザックが肩に食い込んでもいいじゃないか。雨に打たれてもいいじゃないか。
 その痛みが、その冷たさが、その苦しみが、いつの日か懐かしく思えることもあるのだ。
 8時間も黙々と歩いていると、同じような思考がぐるぐる回ったり、特に好きでもない音楽が、頭の中で何度も繰り返されることが多い。それも何度も経験したことだ。
 往路の時も同じだったが、トレイルを歩いている時のランチは、レーズンが入ったシナモンベーグルに、たっぷりとピーナツバターを塗って食べる。こういう時に、少ない容量で少しでもハイカロリーなモノを食べるという知識は、カナダのアルゴンキンをカヌーで旅した時に覚えた。なんといってもこの4日間、朝食と夕食の摂取カロリーは、合計で僅かに600キロカロリーほどだ。移動中であっても、ハイカロリーなモノを摂取しないと、とてもじゃないが8時間も歩けない。 
 カホなんてレース用のエナジージェルを舐めている。万が一、遭難などの事故に遭遇した場合に備え、今回はこのエナジージェルを持参した。遭難した時に、持参したマヨネーズを舐めてサバイバルした人の話を聞いたことがあるが、まるで同じような行為だ。普段ならその行為をバカにして笑うが、その気持ちはよく理解できる。
 「なあ……カホ……戻ったら何が食べたい? いや今夜は無理だけど、明日の夜……」と、後ろを歩くカホに訊ねる、今夜ももう一晩、キャンプ生活なので、またフリーズドライの夕食しか選択肢がない。
 「私、ハナレイのスーパーで売っていたポキ丼が食べたい」とカホ。
 「ポキ丼」とは、ハワイの名物であるマグロの刺し身のマリネである「ポキ」を、白いご飯にのせてあるだけのドンブリで、カウアイ島に着いた翌日のランチに食べたヤツだ。
物価の高いハワイの割に、6ドルくらいで食べることができた。
 「ポキ丼ねえ……」と、その姿を思い浮かべると益々、お腹が空くので、その想像を打ち消してしっかりとトレイルを見つめ直した。
 ハナカピアイの最後の川を渡り、日帰りハイカーたちに混じって重い荷物を背負って歩いていると、雨脚が酷くなってきた。
 トレイルヘッドのバス停に辿り着くと、かなり雨脚が激しくなっていたが、ゴールした記念の撮影をカホと交代でしていると、やはりトレイルから戻って来たばかりの女性が、「一緒に撮ってあげる」と言って、2人の記念撮影をしてくれた。そして「今夜は好きなだけ飲み物を飲んで、食べ物を食べられるわね」と笑った。
 残念ながら、こっちはもう一日、その快楽を我慢しなければならないが、少なくともこの重いザックからは解放される。
 ハエナのキャンプ場に戻ったら、ライフガードの若者が「おかえりなさい! 今日はキャンプ場でゆっくりと寛いで、トレイルの疲れを取って下さい!」と声を掛けてくれた。

 その言葉に目頭が熱くなったが、笑顔を作って「有難う! ここに戻って来られて幸せだよ」と答えた。
 そして雨の中、すぐにテントの設営を始めた。


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ナパリ・コーストの絶景


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木村東吉(きむら・とうきち)
1958年11月16日生まれ。大阪府出身。ファッションモデル、エッセイスト。10代の頃からモデル活動をはじめ、上京後は『ポパイ』『メンズクラブ』の表紙を飾るなど活躍。30代よりアウトドアに活動の場を広げ、世界各地でアドベンチャーレースに参加。その経験を活かし、各関連企業のアドバイザーを務め、関連書籍も多数刊行。オートキャンプブームの火付け役となる。
「走る・歩く・旅する」ことをライフワークとしている。現在は河口湖を拠点に執筆・取材、キャンプ・トレッキング・カヤックの指導、講演を行っているほか、「5LAKES&MT」ブランドを展開しアウトドア関連の商品開発を手掛けるなど、幅広く活動している。


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