無数の橋をかけなおす──ロシアから届く反戦の声/奈倉有里
最初の衝撃
2022年2月24日、現地時間の早朝、日本時間の昼過ぎに飛び込んできた「ロシア軍がウクライナ各地を攻撃」という報道。慌ててロシアの独立系放送局「ドーシチ(雨)」をつけると、コメント欄は衝撃と恐怖と自責と絶望の叫びで埋め尽くされていた――「悪夢だ」「誰かあのクレムリンのクソ野郎を止めろ!」「みんな、いますぐ街に出て抗議しよう!」「戻れ、引き返せ!」「いっそここを、モスクワを攻撃してくれ!」「どうしよう」「もうおしまいだ」「私たちが悪いんだ」「誰か嘘だと言って」……。
このとき、まだ予想される被害の規模はわかっていなかった。ただ「ウクライナ東部のロシア系住民を助ける」という名目を耳にタコができるほど繰り返していた政府が、早朝五時に首都キエフ(キーウ)に攻撃を仕掛けるなど、決してあってはならない行為だ。ロシア政府の主張の通り「軍事施設だけ」で終わるとは思えない。あちこちで「6月22日、朝4時ちょうどにキエフが爆撃され、僕たちは告げられた――戦争が始まったと」という歌が引用されている。第二次世界大戦開戦をうたった戦時中の流行歌『6月22日、朝4時ちょうどに』(1941)だ――「戦争は明けがたに始まった、よりたくさんの市民を殺すために。親も寝ていた、子供たちも寝ていた、キエフの爆撃が始まったとき……」。遠く悲しい戦争の記憶。八一年後、まさかロシア軍がキエフを爆撃することになるなんて、誰が予想しただろう。
ペテルブルグやモスクワの友人の顔が浮かぶ。ロシア人もウクライナ人も、両方に出自を持つ友人もいる。彼らに連絡をとると、聞こえてくるのは悲痛な声ばかりだ――「テレビをつけると朝から晩までプロパガンダで、それがとにかく怖い。いままでもそうだったけど、いまは常軌を逸してる」(モスクワ在住だがウクライナ紛争地域の近くに祖父母がいる友人、母がウクライナ人)。「ただひとつの救いは、もうプーチンが破滅するのは間違いないっていうことだ。すべての侵略者は破滅する。でもそのときまでに、いったいどのくらいの血が流れるんだろう……」(ペテルブルグの友人)。「すべてを飲み込む権力闘争の果てに、一般の人が大量の血を流す……まるで政府がロシアとウクライナの市民全員を巻き込んで、無理心中をしようとしてるみたい……」(モスクワからフランスに移住した友人)。「これまでなにをしても政府を止められなかったんだから、いまさら止められないのはわかってる。でもだからといって『自分がやったんじゃない』なんて言えない。僕たちがやったんだ。これから一生、これを抱えて生きていかなきゃいけない。もし生きていられるとしたらだけど……」(モスクワの映画関係の友人)。なにかしなくてはという思いと、あまりに無念な思いが絶え間なく交差している。
溢れだした反戦声明
翌25日。独立系報道機関は24時間休まず放送を続けている。文化、芸術の各団体が、戦争反対の表明を次々に出した。私の好きなオレグ・バシラシヴィリ(1934~)もいた――1986年の名作『メッセンジャー・ボーイ』の教授役や、2005年の『巨匠とマルガリータ』の悪魔ヴォランド役などで知られる俳優だ。ほかにも、以前は立場的に反政府の声をあげられなかったような大物俳優や映画監督、美術館・博物館関係者のトップも名を連ねている。学者も、小中学校の教員も、非営利団体のグループも、IT企業の役員もいる。彼らがこれまで声をあげられなかったのは、反政府の表明が即解雇につながるようになって久しいからだ。とりわけ2014年のクリミア併合以降はその傾向が決定的に強まった。たとえばモスクワの映画博物館の館長が解雇されると、それに抗議したすべてのスタッフも同時に解雇あるいは自主退職に追い込まれ、専門知識のない館長とスタッフが役人仕事をするだけの施設になってしまった。そういう現象がそこかしこの芸術・文化・教育団体で起こっていた。なかでも教育機関の関係者は苦しい立場にいた。たとえば大学教員なら、自分が解雇されてしまえば、それまで指導していた学生が自分の代わりにきた専門知識のない教員に教わらなければならなくなる。それを避けるためには表面的にでも政府賛同の表明をしなければならない――そんな苦しい年月が8年も続いていた。
それでも今回の侵攻を受け、たとえ自分が解雇されようと逮捕されようと黙ってなどいられない人々が各団体の上部にこんなにたくさんいる――このことは、街角で声をあげてもただ警官に暴力的に拘束されるだけの一般市民にとって心強い状況に思えた。独立系メディアはオンラインで各分野の専門家を招き、「一刻も早く侵攻を止めさせるには」「ウクライナの犠牲者を少しでも抑えるには」「政府に異議を突きつけるには」どうしたらいいのかを語りはじめていた。
絶望のロック、語りかけるラジオ
ソ連末期から現代までロックシーンのトップを駆け抜けてきたDDTは27日、トゥーラでのライヴを予定していた。ステージに出てきたリーダーのユーリー・シェフチューク(1957~)は現状を強く批判し、「楽しい曲など弾けるわけがない」とライヴの曲目をすべて変更し、悲しい曲、絶望の曲、戦争の曲ばかりをひたすら弾き続けた。オフィシャルチャンネルには開戦直後に『厄災』(1993)という曲を再アップしていた――「厄災が降りかかった、火に水をかけるように。厄災が窓ガラスに顔を押しつけ、家のなかを覗いている。気が狂いそうだ、気が狂いそうだ!」……。コメント欄には曲を聴き涙するファンのメッセージが数多く書き込まれ、そこにはウクライナのキエフの人もドンバスの人も、モスクワの人もロシアの地方都市の人もいた。ロックに国境はない。皆が一緒に悲しみの声に耳を傾けている。
作家のドミートリー・ブィコフ(1967~)は、独立系ラジオ局「モスクワのこだま」でトーク番組を持っており、25日にも放送予定があった。広範な文学知識に基づいた自由闊達で縦横無尽な文学講義に定評があるブィコフは、かねてから反政府的な発言でも知られており、2012年の野党調整評議会投票では政治活動家のアレクセイ・ナヴァーリヌィに次いで第二位の票を獲得していた。しかし2014年に弾圧が厳しくなると、ブィコフはリュドミラ・ウリツカヤをはじめとする作家やDDTなどのミュージシャンとともに「民族の敵」として糾弾された。そして2019年、文学講義のために各地を回っていたブィコフは飛行機の中で急激な不調を訴え、政治活動家などが暗殺されたときと非常によく似た症状で緊急入院した。しかしその後、本人はその理由に深く言及することなく、入院中になんと病院から文学講義をはじめ、じきにそれまで通りの活動に復帰した。劇薬を使った毒殺未遂であったことが元連邦保安局員の証言によって判明したのは2021年の6月になってからだった。
2月25日のラジオでブィコフは、現政権がいかに恐ろしい道に踏み込んだかを語り、キエフにいる友人や尊敬する人々の無事を願い、「ロシア政府で権力を握った人間は、まさかこんなふうに世界中の人間を踏み躙り、すべての意味のあるものが意味をなくし――人を、神の探求も対話も芸術も、あらゆる価値あるものに取り組めない状態にし、ただ恐怖と憎しみに震える獣に変えてしまうような、そんな状態にすることが目的だったというのか。ほんとうにこんなことが目的なのか?!」と強く政権を批判しながらも、困惑するリスナーの質問に対し、「アメリカとロシアのどちらが酷いか競争してはいけない。他国をみるなら、より良いと思うような国を見つけたときに、その『良さ』を競えばいい」「なにを読んだらいいかというなら、ウクライナ文学を読もう。〔…〕セルゲイ・パラジャーノフの映画を、『忘れられた祖先の影』〔邦題『火の馬』、1964〕を観よう」と語りかけた(ドミートリー・ブィコフ『戦争という完全な悪に対峙する――ウクライナ侵攻に寄せて』全文は岩波書店noteで公開中)。
恐れていたこと
リュドミラ・ウリツカヤ(1943~、『緑の天幕』前田和泉訳、新潮社、など)は開戦直後に「痛み、恐怖、恥」と題した声明を出した。生命が潰されていく痛み、自らや子供たちや孫たちの命が危険にさらされる恐怖、全人類に大きな損害をもたらした政府の恥と、国民の責任。
ウリツカヤはこれまでも一貫して戦争に反対し、抵抗の声をあげてきた。「民族の敵」と糾弾されても、カラーボールを投げつけられても、彼女は黙らなかった。2014年に反戦デモに参加したときは、「私が反戦の声をあげるのは、私が強いからじゃない。弱いから、恐ろしいからだ。子供や孫たちが、戦争のある世界で生きていくことになるかもしれないと思うと、怖くてしかたないからだ」と話していた。
私は『陽気なお葬式』(拙訳、新潮社)を訳して以降、翻訳者に親切な彼女の厚意に甘えて何度かお話を伺った。最後にインタビューをしたのは昨年の1月。文学の話も社会の話も訊いたが、ロシアの社会については「どんどん狭量になっている」と語っていた。異なる出自や思想の他者を排除しない寛容な社会のため絵本プロジェクトを指揮し、子供の教育を変えようとしていたウリツカヤ。だが寛容から遠のくばかりの社会に、近年では疲れを口にすることもあった。そしていま、彼女が最も恐れていたことが起きている。もうすぐ80歳になる彼女の「痛み」を思うと、言葉に詰まる。
人権弾圧と戦争
3月になった。近づく春の香りにはどこか物悲しいところがあるが、こんなに悲しい春があっていいのだろうか。ブィコフは、2月25日のラジオでブィコフは「すでにモスクワでも平和を訴えた人が1000人以上逮捕され、わずかに生き延びていた報道機関も制圧され、『戦争に反対する可能性がある』だけの人々の自宅にまで警察が押しかけて逮捕しようとしている」と語っていた。弾圧の規模が大きくなるのはわかっていた。侵略に踏み出した政府は、もはや体面など構っていられなくなっている。ヘルメットに防護服という物々しい姿の警官が、「反戦」を訴える人々を片っぱしから連行していく。地区により差があるが、ペテルブルグはとりわけ酷く、路上で警官が市民に暴力を振るう様子が複数みられた。
さらに反戦どころか「戦争」という言葉そのものが禁止され、国営放送では「ロシア軍はウクライナの平和のために、安全に配慮した『特殊軍事作戦』をおこなっている」「ウクライナにおける民間人殺害はすべてウクライナの自作自演で、西欧を味方につけるためなら、彼らはなんでもするのだ」といった報道が繰り返された。
ウクライナの市民にとってはロシア軍こそが明白なファシストに映り、「抵抗は聖戦」と教えられてきた人々は命を投げ打って立ちあがり、政府はそれを全力で奨励する。遠い昔となった第二次大戦での従軍経験を持つ国民はほぼおらず、戦争の恐ろしさよりも美談ばかりが教えられてきた。冒頭で引用した歌はこう続く――「ウクライナの民衆は立ちあがった。男はみな、一人残らず戦闘に向かった」……。あの歌の「優しい」声。遠く悲しく「美化された」戦争。ロシアの国内向けプロパガンダは「ロシアがナチスと同じことをするわけがない、やはり西欧化しファシズム化したウクライナの自作自演なのだ」と主張する。「自分の国は基本的に善良なはずだ」と信じたがる人々を国家が操るのは恐ろしく容易い。「独裁国家にとって戦争の目的は戦争という状態そのものだ」「人々が武力に心を支配されている状態は、すべての独裁者と軍国主義者にとっていちばん都合のいい、最も国民を操りやすい状態だ」というロシア出身スイス在住の作家・シーシキン の言葉を思い出す。シーシキンは2014年の時点で、「ウクライナとの戦争はロシア政府にとって、国内の平和運動や人権運動を潰すための格好の機会」だと警告していた。その後、実際に8年をかけて平和運動や人権運動の撲滅は徹底的におこなわれてきた。侵攻の直前、昨年末にロシア政府がとった行動が人権団体「メモリアル」の弾圧であったという事実はあらためて重い(シーシキンの「すばる」「新潮」初出の記事と最新の寄稿をまとめた『ウクライナとロシアの未来――2022年のあとに』は、岩波書店noteで公開中)。
抑え込まれる声
3月5日、ロシア政府は「フェイクニュース禁止法」を施行した。公式見解に反する報道を「フェイク」として規制する動きはこれまでにもあったが、今回は同時に「軍事行動の停止〔つまり反戦・停戦〕の呼びかけや、軍の名誉や信頼を傷つける活動」すべてを取り締まることが目的だ。独立系報道機関は選択を迫られた。生き残りたければ、これまで「反戦」の表明をした番組アーカイヴをすべて削除し、今後も政府見解と異なる報道は一切しないという条件を飲まなければならない。ブィコフの番組を放送していた「モスクワのこだま」局と、サーシャ・フィリペンコが作家になる前に勤めていた「ドーシチ」局がどちらも活動停止に追い込まれ、日本時間の5日朝にはウェブサイトもユーチューブ上のアーカイヴも削除された。愛着のあった昔の職場が閉鎖に追い込まれたことを受けてフィリペンコは、「ロシアですべての報道機関が弾圧されてしまったのなら、僕たちができる限りその役割を担わなければいけない」と呼びかけた。実際、私の友人たちも長らく独立系報道機関を頼りに生きてきたし、現在では活動を停止された報道局の元局員などの個々人が発信する情報を各自が必死で追っている。戦争のさなかに信頼できる情報源がすべて潰されるなんて、どれほど心細く恐ろしいことだろう。家族や自分に軍の召集命令が来る可能性があると怯えている人も多い。報道機関として例外的に生き残ったのは昨年編集長がノーベル平和賞を受賞したばかりの「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙だが、むろん方針の変更を強制させられた――彼らは政府の条件を飲み、過去の記事や番組の多くを削除して報道を続ける決断を選んだ。
報道機関だけではなく、文化・芸術団体も反戦メッセージを含む投稿をウェブサイトから削除させられていった。個人単位でも過去の投稿を削除する人が多く、なかにはアカウント自体を消してしまう人もいた。あんなに溢れていた反戦声明も、悲痛な無数のコメントも、まるでその事実そのものが存在しなかったかのようにインターネット空間から消されていく。さらにはインターネット回線自体を制限する方針も打ち出された。声をあげるどころか、学術アーカイヴにアクセスすることも、現地の友人の安否を確認することも、なにもできなくなるのだろうか、という暗い思いがよぎる。
西欧からの言葉
ロシア国内の弾圧が進むなか、西欧在住の作家が中心となり、「ロシア国民に真実を」という声明を発表した。日本でも報道されたが、「国外在住でロシア語のできる人は、情報を制限されたロシア国内の人々に、手を尽くし真実を伝えよう」という主旨の呼びかけだ。署名にはアレクシエーヴィチ、ウリツカヤ、アクーニン、シーシキン、ソローキン、フィリペンコと、世界的に活躍する作家が並ぶ。私は、最も影響力が大きいと思われるノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948~)のその後の発言が気がかりだった。ちょうど一月に『亜鉛の少年たち――アフガン帰還兵の証言 増補版』(岩波書店、6月刊行予定)の翻訳を終えたばかりで、1990年代からの彼女の発言を読み漁っていたため、彼女の発言のある特徴が気になっていたのだ。
3月6日、ラジオのインタビューに「ほとんど寝ていない」憔悴した状態で臨んだ彼女は、「英雄は誰か」という問いに、「難しい問題だが、ウクライナ人とウクライナのために戦うベラルーシ人の義勇兵だ」と答えた。以前の彼女の主張からは考えられない回答だが、同時に「やはり」とも思う。アレクシエーヴィチの言葉は時と場合に応じて変化が激しい。ベラルーシ人の父とウクライナ人の母を持つ彼女は、ノーベル文学賞受賞講演では「三つの家」としてベラルーシ、ウクライナ、ロシア文化を挙げた。だが三者の断絶が進む近年、ウクライナでは「幼少期を過ごしたウクライナが故郷」と答え、ベラルーシの講演では「もちろんベラルーシこそが故郷」と答えて喝采を浴びている。むろんそれが彼女のなかで同居しているにしても、常に「場」に応じた答えを口にしがちな傾向は以前からあった。弾圧でベラルーシ出国を余儀なくされて以来、彼女の「場」は西欧に移っていった。アレクシエーヴィチは周囲の人の声を聞き、それを届けることに秀でた人で、だからこそ他者の声を生き生きと伝え人の心を打つ作品を書いてきた。ただ、意見を求められると、場により異なる発言をするだけでなく、自著の登場人物の言葉を口にすることも多い。念のため言葉を補うなら、このことは彼女の作品の価値を貶めるものではない。かつてブィコフが詩人の分類に用いていた論を応用するなら、作家には思考を熟成させて作品を生み出し、自らの言葉を徹底して意識的に構築する「思弁家」タイプと、時代の空気をうつす周囲の言葉を敏感に察知しそれを集積して人に届ける「中継家」タイプがいるが、アレクシエーヴィチは徹底した「中継家」なのだ。いうなれば彼女の言葉は常にほとんど彼女の言葉ではないかのようですらある。受け手側は「ノーベル文学賞作家」の権威を鵜呑みにして聞くのではなく、その言葉の出てきた背景の言説を精査することが問われるのだろう。
俺たちの代弁をさせるな
イスラエル在住の大衆作家ドミートリー・グルホフスキー(1979~、邦訳に『Metro2033』上下巻、小賀明子訳、小学館)も声明を発表した――「なぜロシア政府はこの戦争を『特殊軍事作戦』と呼べと俺たちに命じたのか。なぜならロシアでは、誰も戦争などしたくなかったからだ。みんな戦争を恐れていたからだ。なぜなら戦争とは生きた人間が家から出ていき、亜鉛〔の棺〕となって戻ってくるものだからだ。なぜなら戦争とは咲き誇る街があった場所を煙のたちのぼる廃墟に変えてしまうものだからだ」という言葉から始まり、あらゆる手を用いて国民からの支持を集めているかのように見せかける政府を批判する――「いまメディアのプロパガンダはすべての国民の額に〈Z〉の烙印を押そうと牙を剥き出しにしている。この同胞殺しの戦争の責任を、ヨーロッパの平和を乱した責任を、悪夢のような過去への逆戻りの責任を、プーチンとその体制から国民に転化するために。市民を盾にして、その後ろに隠れるために。〔…〕戦争責任をすべての国民に押しつけるため、政府は国民に支持されているかのように見せかけている。ロシア全土の80の地区で行政機関に〈Z〉の旗をつけた車を走らせている。カザンの小児病棟の死にそうな子供たちを集めて雪のなかで〈Z〉の人文字を作らせ、それを空から撮影している」。「けれども俺たちは、決して忘れてはならない――〈Z〉を支持するとは、ウクライナの平和な住宅に爆弾を落とし銃撃をするのを支持することなのだと。幾多の学校を爆撃したことを、200万人もの人が家を失い避難せざるをえなかったことを、兄弟のように仲の良かった人々の、2国の、つながりを、永久に絶ってしまったことを。〔…〕ウクライナの一般市民の血と、「演習」と聞かされて地獄に派遣されたロシア兵の血が、責任として俺たち皆に塗りたくられていく。これは俺たちの戦争じゃない。それを忘れてはいけない。声に出さなくてはいけない。あいつらに俺たちの代弁をさせてはいけない」。
ここで注目すべきは、決して反体制を貫く発言をしてきたわけではないグルホフスキーが、2016年ごろから徐々に政府批判を公にするようになってきた経緯と、この声明の関係だ。シーシキンのように事実上の亡命の立場から発言ができた純文学系の作家と、ロシアの大衆に支持されてきた作家の立場は、同じ作家といえど決定的に違う。グルホフスキーの声明は、ロシアで「これまで政治には関わりたくなかったが、これはあまりにもひどい」と、数年前にようやく危機感を持ち始めた多くの一般市民と同質の声であり、だからこそ「いま政府の支持率が高まっているわけがない」「あいつらに俺たちの代弁をさせてはいけない」というその言葉の当事者性が伝わってくる。
無数のちいさな橋
ロシア国内でフェイスブックやメッセンジャーが使えなくなると聞いて、人々は新たな連絡手段を模索していた。私もまた、現地の友人たちの住所や電話番号を確認し、WhatsAppやテレグラムなど比較的まだ生き残りそうなアプリで友人と連絡を取り合う。モスクワに住むウクライナ人の友人は言った――「いま、みんながこの恐ろしい事態に直面しながら、ちいさな架け橋を作り続けている。次から次へと、たくさんのちいさな橋をかけ、その橋に、悩み疲れ憔悴した弱々しい希望を託している」。そうだ、単に連絡手段を確保するというだけではない。惨事の衝撃で断たれてしまいそうになる思考の橋を、共に築いてきた文化の橋を、知恵を出し合い研究を進めていた研究者仲間とのつながりを、いま、このような武力によって失ってはいけない。どんな状況になっても私たちは互いに見つけ合い、手を取り合わなければいけない。
抵抗運動の遺産
独裁下で市民の抵抗運動にどれだけの意味があるのか、という無力感に陥る人もいる。ベラルーシであれだけ非暴力に徹した大きな市民運動が起きても、なにも変わらなかったと。けれども2020年夏のベラルーシ大統領選後、大規模な不正選挙に抗議する市民への暴力的弾圧がなされていた当時、記憶に残っている日本の新聞報道がある。毎日新聞2020年8月26日朝刊の「受け継がれる『抵抗歌』」と題されたパリ支局の久野華代さんの記事だ。ベラルーシでは当時、ある歌が広くうたわれていた。その曲を耳にしたカタルーニャの人が、そのメロディーがフランコ独裁政権に抵抗した人々がうたっていた『くい』という歌と同じだと気づきはっとして、「ベラルーシの人々もいま『くい』を抜こうとしているのだろうか」と考えたという内容だった。一九六九年に作られたカタルーニャ語の『くい』という歌は、その後一九七八年にポーランド語に翻案され、このときタイトルが『壁』となった。それがさらに2010年にベラルーシ語とロシア語に翻訳された。「あるとき、遠く朝の光が差すころ、僕はじいさんと戸口に立ち、側を荷車がゆっくり進んでいた。じいさんが言った――『あの壁が見えるか。私たちはあの壁に囲まれて暮らしている。壁を壊さなければ、私たちはこのままここで朽ちていくだけだ』。/この牢獄を壊そう。あんな壁はあってはならない……」。さらに2020年の運動時は、「この状況は26年(ルカシェンコの大統領在任期間)というつらい年月のあいだ続いた」という歌詞も加わった。重ねた年月のぶんだけ、独裁政権下の犠牲者も増えている。この歌は少しずつ歌詞を変えながら、その重みを積み重ねるようにして、反独裁の歌としてうたわれてきたのだ。
いま、ロシアの人々は団結して抵抗歌をうたえるような状況にはない。ごくちいさな市民団体までもが潰され、団結の術を次々に剥奪され、孤立させられている。けれどもベラルーシの市民弾圧に胸を痛め、我が事のように追っていたロシアの人々のなかには、独裁政権の手口にまつわる知識と、それに対する抵抗の手段が経験として積み重ねられている。社会学者のシュリマンは、3月中旬、ロシア政府がマスク着用の義務を解除したことに対し市民に警戒を呼びかけ、「ベラルーシ政府が街頭や交通機関の監視カメラの映像から弾圧の口実を見つけだしていたこと」を想起するように諭し、「マスクで身を守る」ことを勧めた。もちろん新型コロナウイルスからではない。マスクを着用することで少しでも個人の特定を避け、政府の弾圧から身を守るためだ。
抵抗運動の遺産はいま、さまざまな形で受け継がれようとしている。
灰色と戦争バチ
開戦直後、ウクライナの作家が連名で「ロシアに対する文化制裁」に賛同する声明を出したとき、そこにアンドレイ・クルコフ(1961~、邦訳に『ペンギンの憂鬱』沼野恭子訳、新潮社、ほか)の名を見つけ、愕然とした。なにかの間違いであってほしい。声明はロシア文化センターの閉鎖やロシア文化全般の受け入れを遮断する主旨のものだ。文化の断絶は2014年以降、深刻な問題として続いてきた。だが本来、ロシアとウクライナの歴史と文化は密接に絡まりながら発展し、簡単に切り分けられるようなものではないし、シーシキンが言うように、理想をいうなら「文化や文学は、戦争の真逆にあるべきもの、すべての人を愛でつなげるべきもの」だ。おまけにクルコフはロシア出身のロシア語作家として、これまでロシアの作家ともウクライナのロシア語作家とも、ウクライナ語作家とも交流を続け、交流の仲立ちをしてきた貴重な存在だ。去年『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)のなかでクルコフの『灰色のミツバチ』(未邦訳)をとりあげたのは、この作家がウクライナ東部の紛争グレーゾーンに足を運んで描いた、ミツバチを愛する養蜂家、「紛争には関わりたくない」姿勢を貫きロシア人ともウクライナ人ともクリミア・タタールの人々とも交流する主人公の姿を伝えたかったからだ。
3月16日、朝日新聞朝刊にクルコフの寄稿(沼野恭子訳)が掲載された。文章からは、ウクライナの人々の苦しい現状が切々と伝わってくる。とりわけ切実なのは、現在ウクライナで「18~60歳の男性は国境を越えることが許されていない」状況の実態だ。「軍隊に召集されるからだ。一人の女性が夫を車の荷台に隠して国境を越えようとしたが、成功しなかった。彼は拘束され、軍当局に送られた」。戦いたくなくて逃げたくても、逃げ出すことが許されない――ウクライナのこの現実は悲痛であり、異常である。そして読み進めると、クルコフはほんとうに「私はもうロシアの文化や歴史にも興味はもてない。ロシアには二度と行かないし、本も出版しない」と語っている。そこには彼の語るように、母語のロシア語を使うことさえ「恥」と感じてしまうような戦禍の混乱があり、灰色が灰色のままでいられない状況があるのだろう。ふと、『灰色のミツバチ』の不穏なラストが思い出された――主人公のセルゲイは、クリミアで役人に一旦没収されて返却された蜂の巣箱のことが気がかりだった。返された蜂の巣はなにかがおかしい。そして彼は、灰~のミツバチたちが巨大な戦争バチになる夢を見る。目が覚めても、「ひょっとしたら伝染病に感染させられたか、あるいは小型探知機でも仕掛けられているのではないか」と疑心暗鬼に陥った彼は、故郷への帰り道の途中、その巣箱を手榴弾で爆破してしまう。彼は生き残った一匹のミツバチを他の巣箱へ入れようとするが、他の巣箱の蜂はそのミツバチを巣に受け入れようとしない。彼は「まるで人間みたいだな」と諦め、その場を去っていく。
灰色のミツバチが「巨大な戦争バチ」になるという疑念にとりつかれたら、人はいかに愛していたミツバチでも、巣箱ごと爆破してしまう――あまりに無情な戦争の破壊力だ。
戦争から言葉を守る
しかしなにが起ころうと世界はつながっているし、特定の地域の歴史や文化の否定が生み出すのが新たな無理解と悲劇であることはいうまでもない。
ロシア政府が「戦争」という言葉や政権への批判をすべて禁止すると、その直後から、報道媒体でも個人単位の発言でも「歴史」を語る人々が急増した。戦争が起き、現在進行形で犠牲者が出ているのに、それを止める術を口にすることさえ許されなくなった状況下で、現在と共通点のある歴史上の出来事を語ることによって、どうにかして意思の疎通をはかろうとする試みである。ローマ帝国、中世、近現代……あらゆる知識を持ち寄り、文脈を読み合うことで対話を成立させ、即時停戦への道を、これ以上の諍いを避ける道を探す人々。その知性と、これまでさんざん弾圧されてきたからこその抵抗文化のしぶとさに勇気づけられる。
アレクサンドル・ゲニス(1953~、邦訳にピョートル・ワイリとの共著『亡命ロシア料理』沼野充義・北川和美・守屋愛訳、未知谷)は3月10日、「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙に、『前例――非戦闘散文』と題した随筆を発表した(「非戦闘」という言葉は「反戦」と言えなくなったがゆえの言い換えであると同時に、文学とは戦うものではないという本文の内容を表すものでもある)。ゲニスはロシアのリャザンに生まれラトビアのリガで育ち1977年にアメリカに亡命した、いわゆるソ連の「第三の波」の亡命者の一人だ。
この随筆は、ゲニスが亡命した当時の回想からはじまる。「過去はまったく同じように繰り返すものではないとわかっていても、私は過去なしでは生きていけない」「歴史のなかに現在との共通点を見つけることで、いま起きていることのどこに焦点を合わせればいいかが見えてくる」と、いま歴史を語ることしか許されなくなったロシア語圏の人々へのエールが読みとれる前置きをしたうえで、ゲニスは続ける――「ほぼ半世紀前、アメリカに辿り着いた私はそう考えて、いわゆる『亡命文学』のなかで生きていくためのお手本を探そうとした」。そのときゲニスが見つけたのが、ドイツ文学だった。「ロシア人がソ連から逃げてきたのと同じように、ファシズムから逃げてきたドイツ人は、すべての亡命者の夢である『検閲のない文学』を生み出そうとしていた。いちばんの有名人はノーベル文学賞を受賞していたトーマス・マンだ。一九三八年、『水晶の夜』と呼ばれるユダヤ人迫害が起きた直後、マンはある問題に直面した。ハンターカレッジの独文科の教授が、教え子たちが『こんなに酷いことをする民族の言葉を学ぶ意味があるのか』と不安になっていると嘆く手紙をよこしたのだ。マンはその教授に丁寧に返事を書き、ユダヤ人迫害を明白に非難したうえで、これまで文化のためにしてきた貢献は守るべきだと説き、学生たちに対し、『無知蒙昧な指導者たちが現在ドイツ語を貶めようとしているからといって、ドイツ語学習を投げ出してはいけない』と呼びかけた。その後、ヒトラーがフランスを侵攻した。第二次大戦のなかで、マンはこれまで『罪のない民衆』と考えていた人々への視座を幾度も改め、ラジオ番組で繰り返しドイツの罪を語った。それどころか戦後は、ナチス政権下で出た本は『恥と血』に染まっているから処分すべきだとさえ言った。つまり誠実なドイツ語は、ナチスがいなかった場所、亡命者のいる場所とスイスだけに残されたということになる。これにはさすがに反論も出た。ドイツでナチズムの時代を耐え抜いた批評家は、マンは政治に汚され、憎しみゆえに頑迷な物言いをするようになってしまったと批判した。だが亡命者が自由を手にしたのは、敵と戦うためではない。アメリカでは亡命者たちによって、数多くの優れた文学作品が出版された。ブロッホの『ヴェルギリウスの死』、ブレヒトの『ガリレイの生涯』、ヴェルフェルの『ベルナデットの歌』、トーマス・マン自身の四部作『ヨセフとその兄弟』。これらが当時の政治に直接言及するような作品ではないにもかかわらず真に反ファシズム的である所以は、彼らがそれらの作品をドイツ語で書くことにより、ナチスからドイツ語を守っていたという点に尽きる」。
ゲニスは続いて第二次大戦時に言葉を守ろうとしたロマン・ロランやバートランド・ラッセル、ヘルマン・ヘッセに言及し、第一次大戦のときと決定的に違ったのは、こうした信念のある平和主義者が以前とは違う困難な状況にたたされたことだと語る。そんななか、ヘッセほど巧みに文学を戦争から守った作家は類をみない。ゲニスは、いまのようにあまりに絶望的なときは、必ずヘッセの『ガラス玉演戯』(邦訳は高橋健二訳、新潮文庫)を読むという。「ヘッセはスイスにいながらドイツに残された平和主義者を助け難民を助け死者や迫害された者たちに涙しナチスを批判したが、それと同時に作家であり続けることで文学を戦争から守り抜いた。時事に直結することを書かなければ現実逃避や遠回りをしているという批判のまかり通るような殺伐とした時代にあっても、ヘッセは『戦争』に心を支配されることを頑なに拒んだのだ」。
ヘッセはスイスで、トーマス・マンはアメリカで、それぞれにドイツ語をナチズムの恥から守っていた。焼き尽くされた戦後の貧困のなかで、西欧の人々は皆、ドイツ語を用いていた人々がどれほど残忍な行為をしたのかをわかっていながら、ヘッセやマンの本に希望を見出すことで、武力と言語を直結させるという愚行に陥らずに済んだ。『ガラス玉演戯』は戦争を描かない。ヘッセにはわかっていたのだ。大惨事の果てには必ず、人の内面世界を救うことこそが大切になると。
ゲニスはこの随筆をこう結んでいる――「それは、絶望的に暗い時代にこそ必要なものだ。一見、いまはそんなときではない、『ガラス玉演戯』などという高尚な頭脳遊戯をしたところで、パンは安くならないし砲撃は止まらないと言いたくなるようなときだ。爆撃の続くうちは、文学などいったいなんの意味があるのかと切り捨てられがちだ。けれどもヘッセのような人々こそがいま、凶暴化してしまった人類がいずれ戻るべき場所を、築きあげているのだ」。
半世紀近い時間を亡命者として過ごし、アフガニスタン侵攻をはじめとするロシア軍の愚かしい行為の度に心を痛め、戦争から言語を、文学を、文化を守ることを考え続けてきたゲニスだからこその言葉なのだろう。
社会学者の視点
ブィコフが番組を持っていた「モスクワのこだま」で政治コメンテーターを務めていたのが、社会学者のエカテリーナ・シュリマン(1978~)だ。彼女はこれまでも常に「憲法」の大切さ――「ロシアの憲法は、いま骨抜きにされてこそいるが、人権と民主主義の基本がきちんと書かれている」ことを主張し、「違憲な法律が成立してしまう国家構造の問題点」を指摘し、さらに政治的な圧力による解雇についても「法知識を味方につけることで不当な理由による解雇を防止する」方法を教えるなど、いまのロシアで市民に必要な社会学と法律の知識を発信し続けてきた。また、ロシアで弾圧を受けた人々に対する法的支援団体OVD-infoの活動にも携わってきた。彼女は「モスクワのこだま」閉鎖後も、オンラインやさまざまな文化・教育機関などで講演を続けている。最近の講演動画は軒並み100万回再生を超え、多いものは250万回以上になっている(社会学者の講演がである!)。以下、現状理解に役立ついくつかの問題についての彼女の回答を簡単に紹介する(シュリマンの講義の詳細は、岩波書店『世界』臨時増刊「ウクライナ侵略戦争」掲載)。
【暴走する国家権力と国民の責任(2019年2月)】
権力がこんな状態に膨れあがるまで黙っていた国民が悪い、という見方があります――なぜ最初の言論弾圧の兆候が出た時点ですべての人がたとえばクレムリンの前に行って断固として抗議をしなかったのか、と。けれどもそれは間違っています。なにが具体的に脅かされるのかを明確に理解できない状態のまま(実際、法の改悪は多種多様なごまかしとともに進められるものです)、各自が普段の生活や仕事のなかで担っている責任をいったん放り出し、警察に拘束される危険を冒してまで抗議する人はまずいません。人は、「そんなことは理性的判断ではない」と考えます。それは人間としてごく自然なことです。
【責任の所在(学生向け講義、2022年2月25日)】
私たちは無論、それぞれに責任を負って社会を生きています。けれどもいま起きていることの責任をこの社会で生きる「すべての人」にまで広げてしまえば、その決定に至るまでにほんとうに責任のあった人々への追及を諦めることにもつながりかねません。「私たちみんなが悪かった、みんなに罪がある」というのは、道徳的には理解のできる表明です。けれども基本的なことを理解していなければなりません――権限が大きい人ほど責任は重く、権限が小さい人ほど責任は軽いのです。
【独立団体の弾圧とプロパガンダ(同日の講義)】
現政府は、市民の組織したあらゆる独立団体をことごとく敵視しています。これまで、すべての団体は、国家の下部組織に組み込まれるか、さもなくば潰されるということがなされてきました。
なぜ巨大な国家にとって、ごく少人数の趣味のグループまでもがそんな「敵視」に値するのでしょう。それはまずひとつは、人間が、小さくてもどこかの団体に属することで、その人たちと仲間意識や連帯感を持ち、自分は間違っていないという自己肯定感を得られる存在だからです。〔…〕ところが国家の下部組織以外の独立した団体がまったく存在しない空間にひとりぼっちでいると、人は常に不安でよりどころがなく、いつ周囲からつまはじきにされるかと怯えるようになります。強権国家にとって、これほど都合のいいことはありません。そうした社会では、プロパガンダが容易に浸透します。プロパガンダはまず仮の「多数派」を装い、いまどういう考えが支持されているかを演じてみせようとします。はじめはどんなに荒唐無稽に思える主張でも、それがすでに支配的思想であり、社会に浸透しているかのように見せかけるのです。その後、不安でよりどころのない人々が沈黙しているうちに、偽りの「多数派」を鵜呑みにした主張をする人々が出てきます。すると強権国家は強く人々に同調を求めるようになります。〔…〕エリザベート・ノエレ=ノイマン〔1916~2010、ドイツの政治学者〕に「沈黙の螺旋」という法則があります。マスメディアなどが事実とは異なる統計を示し続けると、そこで示された「多数派」の声は次第に大きくなり、「少数派」は沈黙を余儀なくされ、その螺旋がどんどん膨張し、「多数派」ばかりになっていくという法則です。この螺旋への導入を徹底的にやろうとするのがプロパガンダです。
【軍への召集について(2022年3月8日)】
いま恐れられているのが軍への召集です。各自、兵役経験の有無や退役を証明する書類を確認してください。専門知識を持った女性など、特殊な需要が考えられるケースも念頭に置いてください。医師の診断書〔従軍を断るための〕を用意してください。電話での軍事委員部への呼び出しには応じないでください。召集には正式な令状が必要です。もし警察や軍などから怪しげな電話を受けたら「令状を郵送してください」と言って相手にしないでください。郵便物が来たら消印があるかどうかを確かめてください。過去に、消印のない郵便物や電話による不法な呼び出しで「軍事委員部に出向け」と言われ、行くと自らが出向いたものとして「義勇兵」とみなされて戦地に送られた例があります。どんな状況になっても、「断ったら射殺されるのではないか」と怯えて言いなりになるのではなく、「同意したらどうなるか」の恐ろしさのほうを考えてください。もしも法的に拒否権がないと言われても、あらゆる手で「時間稼ぎ」をしてください。
希望をつなぐ
この暗い日々、ロシアの友人たちにとっても私にとっても、エカテリーナ・シュリマンの声は希望だった。世界の人々が歴史に学び築きあげてきた学問と憲法と法律を、社会学と政治学の知識をふまえて、いまのロシアの状況と照らし合わせて語り続けている。目眩がするほどだ――こんなに鮮やかな希望が転がっているのに、日本ではまったく知られていないなんて。
反政府を訴えながら文学で人を魅了しリスナーを励まし続けてきたブィコフの声も、スイスから静かに語り続けていたシーシキンも、大衆の心に届く言葉で強く反戦を訴えるグルホフスキーも、歴史に学び戦争から言葉を守ろうとするゲニスも、それぞれが困難に行き当たりながら、武力に負けない知性と文化を絶やすまいとしている。
私たち――文化に携わるすべての人間にできることは、特定の(国や民族や団体といった)まとまりを断罪することではなく、学ぶべき相手を探すこと、異郷の優れた学者や作家や芸術家を探し、それを届け、受けとり、考えることだ。世界の学問を、人権活動を、文化を、文学を、つなぎ続ける。これは長い道のりの一端でありながら、緊急の課題でもある。恐怖と無理解が生む攻撃性ほど恐ろしいものはない。まだ伝わっていない大切なことはたくさんある。できることだけでいい、まったく同じ考えじゃなくてもいい。ただひたすら、武力に心を支配されることだけはせずに、無数のちいさな橋をかけなおそう。
(初出:「新潮」2022年5月号)
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