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ウクライナとロシアの未来──2022年のあとに|ミハイル・シーシキン/奈倉有里訳

ミハイル・シーシキンは、ウクライナ人の母、ロシア人の父をもつ作家。発表した作品はいずれも多くの言語に翻訳され、国内外で高く評価されてきた。
代表作『手紙』(新潮クレスト・ブックス、2012年)は、恋人たちが時空を超えて交わす書簡から、現代のロシアと義和団事件当時の中国が折り重なり、戦争のむごさに抗い人と人とをつないでいく「愛」の力が伝わってくる長篇小説だ。ほかに短篇「バックベルトの付いたコート」が、最近刊行された魅力的なアンソロジー、沼野充義・沼野恭子編訳『ヌマヌマ――はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』(河出書房新社、2021年)に収録されている。
シーシキンはこれまで度々ウクライナとロシアの国家間対立について文章を発表してきたが、今回、2022年のウクライナ侵攻に際してメッセージを日本の読者のために寄せてくれた。それを訳出するとともに、関連するシーシキンの2つの文章(『すばる』集英社、2014年6月号、『新潮』新潮社、2015年8月号、いずれも奈倉有里訳)をあわせて、ここに掲載したい。
それらをつなげて読むことで、現在の問題の根がより鮮明に見えてくるし、「国を愛せ」という呼びかけがいかに人々を――ウクライナ人もロシア人も――徐々に追い詰めてきたかが、あらためて深く認識させられるからだ。
今回、再掲についての問い合わせに快く応じてくださった『すばる』と『新潮』の方々、再掲の許可に加え切実な文章を新たに寄せていただいた著者シーシキン氏に心よりお礼申し上げます。
ヘッダー画像はウクライナ出身の画家アルヒープ・クインジによる作品「虹」。
(編集部)

2013年末から2014年の2月にかけて、EU加盟をめぐり「ユーロ・マイダン革命」と呼ばれる大規模な反政府デモ運動がウクライナ国内で起こった。デモ参加者らに夥しい数の犠牲を生んだこの運動ののちに、当時のウクライナ大統領ヴィクトル・ヤヌコヴィチは失脚。しかしその直後、事態はロシアのクリミア半島併合、ウクライナ東部紛争へと動いていく。
以下、シーシキンがアフガニスタンで戦死した幼なじみのことを思い出しながら、人間を嚙み砕く愛国心の恐ろしさについて語った「ウクライナとロシアの未来」(『すばる』2014年6月号初出、一部注釈を補筆)を再掲する。

*  *  *

1.ウクライナとロシアの未来──2014年

「戦争の許可、取ってないじゃない!」

インターネットの普及した現代では、自宅から一歩も出なくとも、日々キエフの街頭で起こっている集会や闘争を間近に見ることができる。現に、私がこれを書いている今このときにも、パソコンの画面には、キエフ独立広場で「反戦・民族主義反対」のプラカードを掲げた18歳くらいの少女の姿が映し出されている。警官が来て拡声器で「ただちに退去しなさい、君たちは集会の許可を取っていない!」と叫び、少女は「そっちこそ戦争の許可、取ってないじゃない!」と返している。

ロシアとウクライナは、本当の意味での兄弟だ。私自身、母はウクライナ人、父はロシア人の家に生まれているし、似たような家庭はロシアにもウクライナにも数限りなく存在する。その二国を争わせ、分かつことなど、本来できるはずがない。ゴーゴリを――共に誇る偉大な作家を、どちらかの国に属する作家と定めるのだろうか。共に経験してきた恐ろしい歴史を――恥を、苦しみを、分断するというのだろうか。ソヴィエト政権下、ウクライナの人為的飢餓〔ホロドモール〕で犠牲になった人々のなかには、ウクライナ人もいたしロシア人もいた。犠牲を生みだした側の人間もまた同じだ。

愚かな権力が、二国の民衆をけしかけ、敵対させるというおぞましいことをやってのけた。そこでは「言葉」までもが、理解し合うためではなく争うために利用されている。

兄より大人な弟、ウクライナ

プーチン政権下のロシア。連日ニュース番組で流されるのは、ウクライナの反戦運動を凶悪な暴動のように捉えたプロパガンダ的な視点の特集ばかりだ。しかもそこへ、昔から小話に登場するような、ウクライナ人を小馬鹿にしたイメージが加わるのだからたちが悪い。つまり、狡くて欲張りで少し頭が足りないウクライナ人、脂身の塩漬けサーロのためならヨーロッパにだって悪魔にだって魂を売ってしまうウクライナ人……といったイメージだ。国営テレビが先頭に立ってそういった番組を放送しているのだから恐ろしくなる。

ウクライナ人やウクライナ語を若干見下すような傾向は、確かに昔からあった。ロシアから見たウクライナは「弟分」であり、楽天的でユーモアがあってときには自虐的な、愛嬌のある存在として親しまれてきた。ただ、あくまでそれは末っ子を可愛がる目線であり、そこには暗に「お兄ちゃんの言うことをよく聞きなさい、お兄ちゃんみたいに立派になりなさい」というニュアンスが込められていた。だがここ数ヶ月の間に兄は、実は「弟」は自分より大人だったのかもしれないと思わずにはいられなくなった――ウクライナの民衆は、政府に対しはっきりと「反戦」を訴えているのに、我々はそれができずにいるのだから。

あるいは、国家の象徴に対する態度ひとつを見てもそうだ。ソヴィエト連邦崩壊後、ウクライナの民主化運動は、国家の象徴と戦うことから始まった。独裁者の像を倒し、独裁者の名がつけられた町や通りを徹底的に改名していった。たかだか象徴といえども、私たちは日々、その象徴に囚われて生きている。ロシアにも都市改名の動きはあったが、いまだ多くの名が残り、モスクワとペテルブルグの間に位置する都市ジェルジンスクは現在でも、秘密警察のトップとして残忍な処刑を繰り返したフェリックス・ジェルジンスキーの名を冠している。

平和運動を利用したナショナリズム

現代キエフの独立広場は、「ユーロ広場」となった〔2013年、ヤヌコヴィチ政権によるEUとの連合協定署名延期に抗議し、野党や市民が中心となり独立広場をこう呼ぶようになった〕。広場に飛び出した人々は、断じてロシアに対する憎悪を叫んでいたのではない。人々を振り回し、傷つけ続ける権力に対する反抗を叫んでいたのだ。彼らは「革命」に酔い、暴動を起こしていたのでもない。平穏な「ヨーロッパ」社会を求めていたのだ。

ここで私が「ヨーロッパ」と呼んだもの――ウクライナ市民が「ヨーロッパ」の名のもとに求めていたものは、実際の(自身も多くの問題を抱える)ヨーロッパそのものではないし、まして私は、ウクライナのEU加盟によって問題が解決するなどといいたいわけではない。そうではなく、それはロシアにもウクライナにもある神話のようなもの――犯罪者が治める国に生きるのではなく、平和を築くことのできる国に生きたい、ウクライナを文明国にしたいという願いのようなものだった。

だが皮肉なことに、ヤヌコヴィチ政権を倒したのは平和的な抗議運動ではなかった。それまでの平和運動をまるでボクサーのグローブのように手にはめて登場したのは、ナショナリズムの権化であり、彼らが最初にとった行動は、信じがたいことに、ロシア語を公用語から排除することだった。これは、西部のウクライナ語話者と東部のロシア語話者を故意に隔離し対立させる政策といっても過言ではない。ウクライナ語圏のヒーローは「天国の百余名」〔マイダンで命を落とした100名以上の犠牲者を指す言葉〕で、ロシア語圏のヒーローはベルクト〔旧ソ連特殊部隊を前身とするウクライナの特殊部隊で、「イヌワシ」の意。反戦デモの鎮圧にあたっていた。形式上の解散・引き揚げをした後、旧ベルクト員はロシア警察の指揮下に置かれ、再度ウクライナに派遣された〕だとでもいうのだろうか。

どこまでが故郷で、どこからが体制なのか

ウクライナ東部やクリミアの住民の混乱も、無理もない。人々は「ウクライナ化」政策に対する戸惑いを隠せなかった。考えてもみてほしい、スイスで同じようなことが起こったらどうなるだろう――ベルンの連邦議事堂において、多数派のドイツ語系議員によって「ロマンディ地方〔スイス西部のフランス語圏〕におけるフランス語の使用を禁ずる」という法律が採択されたとしたら?

その困難な状況において一般の人々をさらに混乱させたのは、ソチオリンピックを悪用した偽りの「勝者」、つまり愛国意識を煽り「国家は国民を守らなければならない」と声高に叫ぶ者たちだった。いかなるイデオロギーのもとにおいても――19世紀の正教であれ、共産主義であれ、現代に復活した正教であれ、体制は常に愛国心を利用して国民を操ってきた。それは今でも変わらない。この数週間というもの、ロシアのテレビではひっきりなしに、「祖国を守れ」と訴えている。「クリミアおよびウクライナ東部のロシア系住民を、ウクライナの暴徒から守れ」と。

戦争の目的は(実戦も冷戦もそうだが)いつも、特定の政治体制の存続や繁栄でしかない。独裁者にとって、敵ほどありがたいものはない。だが、勝利すれば独裁国家は存続するが、敗北すれば衰退が早まることになる。第二次世界大戦の勝利は、スターリンの権力を強化し、強制収容所の国家を繁栄させた。アフガニスタンの悲劇は、ソヴィエト連邦の崩壊を早める原因となった。

自分の国の勝利を願うか敗北を願うかと訊かれたら、生まれ故郷を愛する者は、おかしな質問だと思うかもしれない。だが自分の生まれた国が百余年もの間、その国の民も他の国の民も、苦しめ続けているとしたら。そもそもここに暮らす者には、もはや、いくら考えてもわからないのだ――どこまでが故郷、、で、どこからが体制、、なのか。

「敵」という噓を作り出し信じ込む体制

長い歴史のなかで崇められてきた「愛国心」という聖者は、人間の権利も個人の尊重も、粉々に嚙み砕いて飲み込んでしまった。

幼なじみがアフガニスタンで戦死したとき――あのときも彼らは、「戦地で祖国を守っている」ことになっていた――私は幾度か彼の両親のもとを訪ねた。彼の母親は、「祖国ってなに? ねえ、祖国ってなんなの?」と繰り返し問い続けていた。その問いに、返せる言葉はなかった。

チェチェンで戦争が始まったときもそうだった。あるドキュメンタリーで、まだあどけない少年が「僕はここで、祖国を守ってるんだ」と語っていた姿が目に焼きついている。

そして今、ロシア人の少年とウクライナ人の少年に求められているのが、互いに対立し「祖国を守る」ことだという。

アフガニスタン紛争から四半世紀が過ぎた。あの紛争の末にソヴィエト連邦は崩壊した。そして今また、凄まじい破壊力をもった戦争が起ころうとしている。独裁体制が繰り返す悲劇のシナリオには、法則がある――「敵」という噓を作り出すことによって生き延び、その噓を自ら信じ込むことによって滅びていく。

哀れでならないのは一般市民だ。ウクライナでロシアの三色旗を振り、目に涙を浮かべて助けを求めるようにロシアの国名を叫ぶ「親ロシア派」の人々。歴史のなかで、幾度繰り返されただろう――「国」に利用され、騙される民衆。彼らの求める「ロシア」への道は、警察国家への道でしかない。

民族主義者とその犠牲者の区別がつかない

もうひとつ恐れるべきことがある――新たなる「冷戦」だ。今、ロシア政府はどんな小さな反戦デモであれ、ありとあらゆる平和運動や人権運動を潰そうと躍起になり、排外主義ショーヴィニズム的傾向をいっそう強めている。このような国家を待ち受けるのは世界における孤立であり、経済制裁であり、そうなったときに真っ先に苦しむのは、またしても一般市民だ。

2008年にも政府はグルジア〔ジョージア〕との間に戦争を起こし、それまで培ってきた友好関係をいとも簡単に切り捨てた。あの戦争が生んだ溝は決して浅くない。同じことが今、ウクライナとの間に繰り返されようとしている。

なかでも酷い被害が予想されるのがクリミアだ。「ウクライナの暴徒からのクリミア奪還」などという熱気はじきに冷め、人々は現実を目の当たりにするだろう。紛争と「奪還」の末にアブハジアが、かつての生気を失い変わり果てたのと同じことが、クリミアで起こるのだ〔アブハジアはロシアの南、コーカサス地方、グルジアの西に位置する自治区域。ソヴィエト時代は最北端のガグラを中心に有数の保養地として栄えたが、民族問題と度重なる紛争によって壊滅的な被害を受け、現在でも難民問題など多くの課題を抱えている〕。保養地クリミアが、ロシア人もウクライナ人も寄りつかない空白の地となる。当然、主な収入を夏季のバカンスシーズンに頼って生きている現地の人々の生活は成り立たない。三色旗を振る人々は、失うものの大きさに気づいていない。それだけではない。クリミア・タタール人の問題も浮上する。彼らにとってシベリアへの強制移住とクリミアへの帰還は決して古い記憶ではなく、ロシアに対する反発は強い〔クリミア・タタール人は第二次世界大戦中、スターリン政権によって敵国協力の嫌疑でシベリアや中央アジアへ強制移住させられ、飢餓や強制労働などにより数万の犠牲者が出た〕。ロシア人とウクライナ人の入り混じるウクライナ東部においては、すでに1990年代のボスニアにも匹敵するほどの混乱が起きている――そこでは誰が「民族主義者」で誰が「民族主義の犠牲者」なのか、もはや誰にもわからない。

反戦こそ、本当に故郷を愛すること

尽きせぬ国境紛争ほど、独裁体制にとって都合のいいものはない。布告もなく始まったウクライナとの戦争はロシア政府にとって、国内の平和運動や人権運動を潰すための格好の機会であり、ナチス・ドイツの秩序警察にも等しい、恐ろしい警察組織を生み出すための口実でもあった。軍国主義、潜伏する敵を探す秘密捜査、「売国奴」撲滅、愛国主義プロパガンダの量産――すべてが、すでに現実となっている。

気の遠くなるような人類の歴史のなかで、いったい、「国を愛せ」という呼びかけの末に、どれほどの命が犠牲になっただろう。そして今、ロシア人が、ウクライナ人が、同じ犠牲のもとに立たされようとしている。兄弟は共にその苦しみを味わい、いつの日か共に未来を取り戻そうとするだろう。

冒頭に書いた、独立広場の少女は逮捕された。警官は力ずくでプラカードを奪い、少女を縛って連行していった。

反戦を訴えていたあの少女こそが、きっと本当に故郷を愛しているのではないだろうか。そして彼女を捕らえ、国を愛せと煽る者、国会で戦争に賛成した者たちこそが「裏切り者」なのではないだろうか。

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翌2015年、終戦70年を迎えたロシアは、ますます華々しい軍事パレードをおこない、テレビの政府宣伝はすっかり日常化し、人々を麻痺させる映像を流し続けるその電化製品は「ゾンビ箱」と呼ばれるようになる。
以下、シーシキンが戦後以降のロシアを振り返り、戦争の「勝敗」の意味、単純な戦勝/敗戦では捉えられないその意味を語ったエッセイ「僕達の勝敗──戦後七十年に寄せて」(『新潮』2015年8月号初出、一部注釈を補筆)を再掲する。

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2.僕達の勝敗──2015年

潜水艦乗組員だった父

父は志願兵として18で戦争に行った。バルト艦隊の潜水艦乗組員だった。僕が小さかった頃うちの家族はアルバート通りのアパートにある半地下の部屋に住んでいて、僕のベッドの脇には父が乗っていたSC型潜水艦の写真が貼ってあった。「父さんは潜水艦に乗っていたんだ」――そう思うと誇らしくて、僕はよく小学校のノートに潜水艦の絵を描いていた。毎年5月9日の戦勝記念日になると父は必ずタンスから海軍の軍服を出してきて、年々太っていくお腹まわりを縫い直しては着て、もらった勲章をずらりと並べてつけてみるのだった。幼い僕は「父さんは戦争に行って、勝ったんだ!」と胸を張った。

大きくなって知ったのは、1944~45年に父がドイツ船を沈めたということ、その船にはリガやタリンから避難する人々が乗っていたということだった。数百、ともすると数千の命がバルト海に沈んだ。父の勲章はその証だ。僕は勲章を誇りに思うのをやめたが、かといって父を非難することはできなかった。それが「戦争」だったのだ――と思った。

終戦後、父は死ぬまで酒に溺れていた。だが父だけではない、潜水艦で一緒だったという父の友人は皆同じように酒ばかり飲んでいた。おそらく、そうするほかなかったのだろう。鉄の棺に閉じ込められて海に沈む恐怖に常に怯えながら何ヶ月もの時を過ごしたとき、父はまだ、ほんの少年だった。その恐怖は消えるものではない。

ゴルバチョフ時代、物資が急激に不足すると、父は退役軍人の特権として配給を受け取った。そのなかにドイツ産の食品があったことは、父にしてみれば屈辱だった。父やその友人は自分たちが「勝者」であると生涯信じてきたのに、なぜ負けた国からの施しものを口にしなければならないのかと感じたのだろう。

初めて配給の袋を貰ってきたとき、父は飲んだくれて「俺達は勝ったのに!」と叫んだ。それから静かに泣きだすと、僕のほうを向いて、誰にともなく何度も何度も訊いた――「なあ、どっちなんだ。俺達は戦争に勝ったのか? 負けたのか?」

晩年の父はのべつ幕無しにウォッカを飲み、自らの寿命を縮めていた。潜水艦時代の友人は皆、とうの昔に酒の助けを借りて墓に入っていた。いつしか乗組員最後の生き残りとなった父は、戦友たちのもとへと急いでいたのだろう。その父もついには、海軍の軍服を身に纏い、モスクワの火葬場で焼かれた。

プロパガンダを流し続ける「ゾンビ箱」

プーチンは統治16年目にして、独裁者が夢見るものをすべて手に入れた。国民には愛され、敵には恐れられている。彼が築きあげたのは、憲法の条文に基づく脆い権力などではなく、権力ピラミッドの最下層から最上層に至るまで主君に忠誠を誓う家臣で成り立つ、強固な権力構造だ。21世紀の独裁国家は用意周到に先達の経験を学び、同じ失敗を繰り返すまいとする――「国境は封鎖せずにいるのだから、不満のある者は国外へ出ろ」という政策により新世代の亡命者は現在も月を追うごとに増加し、学者やIT関連の専門家、ジャーナリスト、エンジニア、企業家といったエリート層がどんどん国外に逃れている。優秀な人材を失うことは国にとっての大きな損害だが、独裁体制にとってはむしろ都合がいい。国内に残った者にはよく効く薬がある――戦争だ。テレビで繰り広げられる常軌を逸した愛国心の鼓舞は、権力の用意した万能兵器である。人々をゾンビ化させる魔法の画面は、理想の世界観を映し出す――「西欧はロシアを潰そうとしている。だから我々は父や祖父に倣ってファシズムに抗う聖戦を戦い抜かなければならないし、そのためにはいかなる犠牲の覚悟もできていなければならない」と。そして異論を唱える者は皆「民族の裏切者」〔プーチンが演説で用いて物議を醸した言葉〕だと。

どんなイデオロギーのもとでも――帝政時代の正教でも、共産主義でも、そして再び訪れた正教の時代でも――権力側は常に「愛国心」を使って民衆を操作してきた。

祖父が逮捕されたとき、父はまだ6歳だった。祖父は強制収容所で死んだ。幼かった父が自分の父を誇りたくても、"人民の敵" では適わなかった。そして迎えた第二次大戦開戦。困惑した国民の耳に飛び込んだのはスピーカーから流れてくる「兄弟姉妹のみなさん!」というスターリンの呼びかけだった。権力の最も卑しいところは、故郷を愛するという素晴らしい感情や故郷に身を捧げたいという人々の願いを決まって悪用する点だ。独裁国家は、我こそが「故郷」だと主張する。父は故郷を守るつもりで戦争へ行った。しかし父が守ったのは、自分の父親を殺した国家権力でしかなかった。

「自らの国に勝利を願うか敗北を願うか」と訊かれたら、祖国を愛すると自負する者は、おかしな質問だと思うかもしれない。しかしその祖国が百余年にわたり自国の国民も他国の国民も苦しめ続けていることを考えるなら、これは決しておかしな質問ではない。人々は、もうわからなくなっているのだ――どこまでが「故郷」で、どこからが「体制」なのか。「愛国心」というロシアの「聖者」は、人権も個人の尊厳も、すべてを飲み込んでしまった。

ロシア人にとっての大きな課題は「祖国が怪物であるならば、その怪物を愛すべきか憎むべきか」というものだ。すべてが渾然一体となり、縺れ合っている。もうずいぶん昔、こう詠んだ詩人がいた――「憎しみに飽いた心が、愛することを学べずにいる」と〔ニコライ・ネクラーソフによる「黙せ、報復と哀しみの女神よ!」で始まる詩の一節〕。

かつてチカチーロという凶悪な連続殺人犯がいたが、彼も人の親だった。ひょっとしたら、子供にとってはいい父親だったのかもしれない。さてこの子供は、父をどう思うべきだろうか。

チカチーロは何十という人を殺めた〔1970年代末から90年にかけて50名以上を殺害〕。一方で僕の祖国は――自分の子も他人の子も見境なく、幾万という人を殺している。とりわけ自らの子を多く殺した。そしてその勢いは今でもとどまるところを知らない。

「ロシアの放蕩息子キエフ」という歴史の書き換え

父はファシズムという悪に立ち向かい戦ったつもりでいたが、それを利用していたのはもうひとつの悪だった。父をはじめとする無数のソヴィエト兵たちは隷属状態にあり、彼らがもたらしたつもりの「解放」は、別の形の隷属にすぎなかった。戦争に勝つためにすべてを捧げても、その結果得られたのは以前より不自由で貧しい暮らしだった。

それでも勝利がもたらしたもの――それが、「自分たちの祖国とその統率者は偉大である」という感情だ。つまり勝利によって、主人と奴隷の絆はさらに強められたのである。

そして今、再びロシア人は「ファシズムに対する戦争」に駆りたてられている。

いったい人類の歴史のなかで、独裁者が国民の「愛国心」に頼ってその権力を維持しようとしたのは、これで何度目なのだろう。テレビで盛んに放送される「ロシアは偉大だ」「立ちあがろう」「国土を取り戻そう」「国語を守ろう」「ロシア世界ルースキー・ミールの団結」「世界をファシズムから救おう」といった言葉の数々。

国家はこれまでも国民に対して常に国への愛を鼓舞することでその心を掌握しようとしてきたし、これからもそうあり続けるだろう。ロシアの独裁体制はほかでもない体制そのものを守るため、国民に「祖国を守れ」と呼びかける――大祖国戦争と呼ばれる第二次世界大戦の勝利をプロパガンダにして。国民は既に多くのものを奪われた。資源を奪われ、公正な選挙制度を奪われ、国を奪われ、勝利をも奪われている。

そして再び始まった、歴史の書き換え。新しい歴史教科書に残されるのは戦争における勝利と軍隊の栄光ばかりだ。最新の政治動向を受け、小中学校の教科書には既に「栄光あるクリミア半島の返還」という章が書き加えられた。次章も書き加えられる時を今か今かと待っている――「ロシアの放蕩息子キエフ、ロシア世界の抱擁に跪く」。

ロシアは巨大なドンバスと化すのだろうか

国家権力側の卑劣漢どもはテレビの力を借りて国民をけしかけ、ロシア人とウクライナ人を対立させるという赦し難く醜悪な事態を生み出すことに成功した。僕自身は、父はロシア人、母はウクライナ人という家庭に生まれているし、そのことについては何度か語ってきた。最近、ふと思うことがある――父も母も既に亡くなっていて、良かった。ロシア人とウクライナ人が殺し合っているところを見せずに済んだ、と。

クリミア半島の併合はプーチン体制に愛国心の高揚をもたらした。その高揚が消えれば、別の何かが必要になる。独裁体制にとって重要なのは戦争の経緯ではなく、「戦争」という状態そのものだ。先行きは暗い。

プーチン政権下の戦勝記念日は、70年前の人々の勝利や父の勝利とはまったく無縁の行事になってしまった。平和を祈り戦没者を追悼する日ではなく、武器をひけらかして軍事力を誇示する日になり、戦闘そのものを記念する日になり、卑劣な大いなる欺瞞の日になった。

僕は無論、故国に「勝利」を願っている。けれどもロシアにとっての勝利とはなんだろう。ヒトラーが勝利するごとに、ドイツの人々は敗北を続けた。逆にナチ政権の敗北はドイツの人々にとって偉大なる勝利であり、人類史上で初めて、人々がいかに凝り固まった武装思考を捨てて人間らしい暮らしを取り戻すことが出来るのかを証明した機会でもあった〔ここではもちろん、戦争をおこなうロシア政府の崩壊が、ロシアの人々にとっての「勝利」であると述べている〕。

近年、ロシアは見る間に21世紀から中世へと逆戻りしてしまった。憎悪が蔓延する国の空気は、とても吸えたものではない。憎しみが膨れ上がると、その後には決まって多くの血が流れる。今この国を待ち受けているのは何だろう。ロシアは巨大なドンバス〔ウクライナ東部の紛争地帯〕と化すのだろうか。

父さん、僕達は戦争に負けたんだ。

*  *  *

以上が、2014年と2015年時点でのシーシキンの言葉だ。今回のことを受けて、シーシキンは2月25日にスイスのテレビ番組に出演し、心境を語っている。本人に連絡をとると、ちょうど書いていたという記事を送ってくれた。以下に翻訳する。

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3.文化はあらゆる壁を越えて続く──2022年

ついに証明されてしまった恐ろしさ

この戦争が始まったのは今ではなく、2014年だった。西欧はその後、ウクライナで続く戦争を直視しようとせず、なにもたいしたことは起こっていないというふりを装っていた。それから現在まで、私は講演や記事の執筆を頼まれたりするたびに、ロシアとウクライナでなにが起こっているのか、プーチン政権の恐ろしさを説明しようとしてきた。けれどもその声は世界に届かず、無念の思いに苛まれた。ところがいま、ついにプーチンは、自らその「恐ろしさ」を世界に証明してしまった。

私はロシア人だ……〔ここではあえてロシア人を名乗っている〕。私の故郷の名を用いて、プーチンは恐ろしい犯罪を犯した。プーチンはロシアではない。ロシアの人々はいま、つらく恥ずかしい思いでいる。私は故郷の名のもとに、ウクライナの人々に謝罪してまわりたい。けれどもどんなに謝っても謝りきれないことが起きてしまったこともわかっている。

私は長くスイスにいたが、いままでずっと、私がスイスの媒体でなにか発言をするたびに、在ベルンのロシア大使館から、新聞社や出版社に執拗な抗議の文書が届いていた。ここ最近になってなにも言ってこなくなったが、ようやくなにが起こったのか気づいて、荷造りでもしているのだろうか……。

私はロシアに戻りたい。でも、どんなロシアに戻れるというのだろう。プーチンのロシアでは息ができなかった。政治の腐敗があまりに酷かった。2013年にプーチン政権下のロシアからの文学賞授与を断ったときの公開書簡で書いた通り、できることならせめてクリミア併合とウクライナとの戦争をする以前のロシアに戻りたい。

もうずいぶん前から、ロシアではすべての公的報道機関が操られ、自由にものが言えるのはインターネット上だけになっていたが、いまはインターネットにまで「戦時規制」が及ぶようになっている。ロシア政府は、ロシアに対する批判と現在の戦争に対する批判はすべて売国行為であり、軍事的緊急事態により有罪となると宣言した。

このようなとき、作家ができることはなんなのだろう。ただ、はっきりとものをいうことだけだ……。

すべての人を愛でつなげるべきもの

こういう政権の犯罪の恐ろしいところは、その恥ずべき行為の代償が国民や文化全体に及ぶところだ。「ロシア」という言葉が世界の人々にとって、もはやロシア文学や音楽を想起させず、現在のロシア政府によって爆撃されたウクライナの子供たちだけを想起させるようになる。プーチンの最も醜悪な点は、人々に憎しみの種を植え付けたところだ。今後たとえプーチンが政権を去っても、その憎しみは人々の心に根深く残るだろう。けれどもその憎しみの壁を越えられるものこそが、芸術と文学と文化なのだ。私益を肥やす醜悪な独裁者は遅かれ早かれ滅びるが、文化はあらゆる壁を越えて続く。これまでもそうだったし、プーチンが滅びたあとの世界もそうだ。文学はもはやプーチンなどというものについて語らなくてもいい。文化や文学は、戦争の真逆にあるべきもの、すべての人を愛でつなげるべきものだ。

これから、私たちを待ち受けているものはなんだろう――いま、世界中の願いは、核が用いられてはならないということだ。せめて核兵器だけは使うなと――そんなせめてもの願いにすがるしかないほど、展望は暗い。

かつてソ連が崩壊し、独裁が終わったと喜んでいたところに新しい独裁者が登場し、核兵器のスイッチは押さないと約束して核を持ち続けた。その結果がこのありさまだ。プーチンは遅かれ早かれ滅びるだろうが、そのあと権力闘争が起きる。混沌のなかに生きるのがつらくて、人は強権による「安定」を望む。そして新たな独裁者が生まれる。その繰り返しが起きないためにどうしたらいいのかを、考えなくてはいけない……。

 *  *  *

2014年、ロシアが国営放送を中心に、「ロシアは敵に囲まれているからいつどこから攻撃されてもおかしくない」「ファシズムに抵抗する戦争に備えなければならない」という被害者像と「大統領は善良である」という宣伝を同時に流し、自由な報道に対する制限を強め始めたとき、その政府見解を鵜呑みにする人はそう多くなかった。なにか恐ろしい情報操作がはじまっていて、荒唐無稽な政府広報が増えたということに対して人々は戸惑いつつも、独自の見解を持つ新たな独立系報道機関も生まれ、インターネット上には新世代のポータルもできてきていたから、そういうところから情報を発信し、受け取ることでまだ社会を変えられるのではないかとも思われた。
けれどもその動きから取り残され、テレビ以外の情報源を持たなかった人々がいた――中高年層が主だが、そういった家庭の子供もまた同じ環境にいた。そうしていつのまにか、学校では「戦争における勝利と軍隊の栄光ばかり」書き込まれた教科書で学び、家では「ゾンビ箱」と呼ばれたテレビと物心がついたころから共存してきた子供たちが、兵役にとられる時代がきていた。独立系報道機関や、文学・文化・芸術系の出版社はいくら弾圧されてもしぶとく生き残るだろうという希望さえ、2022年2月24日の開戦から2週間ほどでことごとく潰されていった。その希望は、いつでも一網打尽にできるところに追い込まれていたのだ。
ひとつ前のnoteで公開していたブィコフの番組を放送していた〈モスクワのこだま〉と、サーシャ・フィリペンコが(作家になる前に)勤めていた〈ドーシチ(雨)〉の2局は弾圧により放送が禁止された。当初はインターネットに逃れて放送を続けていたが、日本時間の3月5日朝にはサイトもなくなり、YouTubeのアーカイヴもすべてが削除されていた。その後はテレグラム(アプリ)に移行する動きもみられたが、規制はとどまるところを知らず、路上で警官が通行人のスマートフォンの中身をチェックすることまでおこなわれている。
これまで長い時間をかけて真綿で首を絞めるように言論の自由が弾圧され、人権が無視され、憲法や選挙法が改悪され、歴史教科書が軍の勝利を賛美し、学校では「愛国心」を教えられ、軍隊が強化されてきた、その果ての戦争なのだと、あらためて思う。

奈倉有里(なぐら・ゆり)
1982年東京生まれ。ロシア国立ゴーリキー文学大学卒業。東京大学大学院博士課程満期退学。博士(文学)。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス)、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』(未知谷)、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(以上新潮クレスト・ブックス)、ボリス・アクーニン『トルコ捨駒スパイ事件』(岩波書店)、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』『赤い十字』(集英社)など。

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