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文化として根付いたみちのくダービー

モンテディオ山形とベガルタ仙台がぶつかり合う「みちのくダービー」。東北社会人リーグからの歴史があるダービーマッチ。4月13日ユアテックスタジアム仙台で行われたみちのくダービー(明治安田J2リーグ第10節)では、17,938人もの観客を集め、「ピッチ上の声が全く聞こえない」と監督や選手が語るほど、互いのサポーターが大声援を送り合った。コロナ禍を経てさまざまな制限が解かれ、ようやくダービーらしさが表れた試合となった。

山形と仙台のみちのくダービーはなぜかくも盛り上がるのだろうか。理由の一つには地理的条件と、人的交流の多さという2つの街ならではの特性がある。奥羽山脈を隔てて山形と仙台という街が存在する。日本海側で冬は降雪が多く、夏は厳しい暑さとなるが、そうした厳しい気候の中で果樹が生長し、美味しい果物が数多く育つ山形。太平洋側で晴れの日が多く、東北の中では降雪が少なく、沿岸部ではイチゴなども栽培される仙台。同じ東北ながら気候条件が違い、街のカラーが違うのも互いのアイデンティティの違いにつながっている。

互いの街を大きな山脈が隔てているのも、日本のダービーマッチではなかなか無い光景だ。ダービーの応援のために車を運転して関山峠や笹谷峠を越えて、相手の街へと駆けつけることに高揚感を感じるサポーターも多いのではないだろうか。

距離もちょうど良い。車でも仙山線でも1時間ちょっとで行ける。山形から仙台の学校・会社に通う人や、その逆の人がいるのもうなずける。人的交流が多いからこそ、お互いの街を知り、自分たちの住む街との違いを意識するようになる。こうした文化的交流が盛んな地域同士であることは、みちのくダービーが盛り上がる背景となっている。

1989年にモンテディオ山形の前身山形日本電気サッカー部と、ベガルタ仙台の前身東北電力サッカー部の戦いから始まったみちのくダービーは、JFL時代を経て1999年J2開幕からJリーグに戦いの舞台を移した。J2での数々の激闘を経て、2010~2011年と、2015年はJ1で、また、2018年には天皇杯準決勝でみちのくダービーが行われた。2022年からは再びJ2で激しくしのぎを削り合っている。

これだけ長い歴史のあるダービーということもあり、かつてはベガルタ仙台に所属した選手、スタッフが、モンテディオ山形の選手、スタッフとして戦ったり、あるいはその逆という選手、スタッフも増えた。モンテディオ山形の監督である渡邉晋監督はかつてベガルタ仙台の選手、コーチ、監督としてみちのくダービーを戦った。また、MF氣田亮真、MF加藤千尋は昨季までベガルタ仙台の選手だったが、今季からはモンテディオ山形の一員となっている。一方のベガルタ仙台も、FW中山仁斗がかつてモンテディオ山形の選手だった。人的交流があるからこそさまざまな因縁が生まれ、互いに負けられない、勝ちたいという強いライバル意識が生まれる。

このようなダービーの意識はアカデミーにも根付いている。プリンスリーグ東北や日本クラブユースサッカー選手権(U-18)東北予選でのモンテディオ山形ユース、ベガルタ仙台ユースの対戦も互いに「仙台には負けられない」「山形には負けられない」と選手が語り、ライバル意識をぶつけ合って戦う。今やジュニアユース、ジュニアの対戦でもそうしたライバル意識が見受けられるようになったのは、みちのくダービーが文化として根付いた証しだろう。

互いによく知る街同士。よく知る監督、選手同士。だからこそみちのくダービーは盛り上がる。互いの街の威信をかけて、6月22日(土)17:00~明治安田J2リーグ第21節、NDソフトスタジアム山形にて再びモンテディオ山形、ベガルタ仙台はぶつかり合う。

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