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オリンピックにおける性別問題

パリオリンピックでは誤審問題の他に性別の問題がありました。女性として生まれたひとが生物学的に男性だった場合どうするのか?
今回はLGBTQを話題として出していたので、世界大会では排除されていた選手がオリンピックでは出場を許可されるという事態になっていた。
これには僕なりの答えを出そうと思う。

僕は以前より、性別は遺伝子で分けるのがいいと思っている。特にスポーツにおいてはそうだ。性転換手術を受けたとしてもだ。
僕の中ではという前置きをした上で、スポーツの性別は生物学的な範囲で分けるべきだと思う。でないと、女性が守られない。
男女の記録は基本的には女性の方が記録は低い。つまり、男女合同にした場合、女性の記録はほぼなくなる。
ジェンダーは僕の中では本人が認識する社会的な性別であって、生物学的な性別ではない。そこまで社会側が受け入れないといけないものではないと考える。

しかし、配慮も必要だろうということで、僕が考えた代替案は、

男性側の性別を撤廃して、性別誰でも参加可能な方と、生物学的女性のみ参加可能な方に分けるというのはどうだろうか?

旧男性競技は男性でも女性でも身体は男性で精神は女性でも、その逆もQも構わない。しかし、女性競技は生物学的女性のみにするというものだ。これならみんな競技に参加できるし、問題もないのではないだろうか。方々に配慮はされているし、女性も守られる。

よく男性が女性になった場合、精神が女性なので女湯に入りたいとか女子便所を使いたいとあるが、このひとは本当に女性なのだろうか?

心身ともに女性のひとの気持ちを心身ともに男性である僕が考えてみよう。

心身ともに女性のひとが女湯に入っている時に、肉体は男性で精神が女性のひとが入ってくるとする。それはもうパニックだろう。せめて性転換手術は受けていることが前提だろう。竿がついている状態で入ってこられたら気が気じゃない。
仮にそのひとが大声で
「私は精神が女なんです!」
と言って回ったところでそれを証明することはできないし、信じることもできない。今、初めて会ったひとの言うことを信じることはできないだろう。もしそれができるなら僕にあなたの財産を全て預けたら何かいいことが起きるというだろう。

心身ともに男性が心身ともに女性の気持ちを考えたところ、肉体が男性で精神が女性のひとが入ってくることは受け入れられないということはわかる。これを肉体が男性で精神が女性のひとが心身ともに女性のひとは肉体が男性で精神が女性のひとを女湯で受け入れるべきだというのはエゴでしかない。
これを押し通そうとする肉体が男性で精神が女性のひとの精神は本当に女性なのだろうか?
つまり、結局心身ともに男性であるか、身体は男性で精神は女性ではない何かなのだろう。

これと同じで私は肉体が男性だが精神が女性なので女性競技で戦いたいは、ただのエゴだと思う。肉体が男性なのだから男性の枠で戦うべきだと僕は考える。

あくまで僕の価値観ではあるのだが、ジェンダーは生物学的性別の下にある分類だ。決して生物学的分類と同じレベルにあるものではない。僕は肉体が男性で精神が女性のひとの妊娠を疑うことはない。

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