湘南のあの子 中編

やがて僕と彼女の楽しい日々に翳りが差しはじめた。彼女は結婚をしたいと言い出だした。つまり芸人を辞めてほしいということだ。辞めないなら別れてほしいと。売れない芸人にはよくある話だ。

彼女の言い分はこうだ。「私は芸人のあなたじゃなくて普段のあなたが好きなの。普段のあなたと結婚して仲良く楽しく生活していきたい。」僕は当時芸人の活動に疲れていた。なかなか思うようにいかず、相方とも喧嘩ばかりで、楽しいからはじめたはずのお笑いが全然楽しくなくなっていた。いっそ辞めてどこかへ消え去りたいと夢想することがよくあった。

だから僕は彼女のその悪魔の囁きに乗ろうと思った。それほど芸人活動に辟易していた。相方にその旨を伝えると次第にコンビ解散の方向に話は流れていった。

彼女と僕の関係とコンビについてはその後二転三転あったが、最終的にコンビは解散し、僕は芸人を辞めて彼女と結婚することに決めた。薔薇の花束を買って跪いて彼女にプロポーズもした。僕は大学時代から約10年間、苦楽を共にしてきた相方より、付き合って1年ちょっとの現実的な彼女を選んだ。


しかし僕は多分、心の底では結婚に対して躊躇していた。芸人を辞めて急に表現活動をすることをしなくなった人生に生きた心地がしなくなった。僕は芸人を辞めて、彼女が言う「普段の僕」というのは、芸人をしているからこその僕でもあったということに気づいてしまった。芸人の自分と普段の自分があるのではなく、芸人という道を選択した自分の地続きに今の普段の自分がいる。

彼女は悪くないし彼女に対して憎しみもなかったが、僕は彼女との関係もやがて壊すことをしはじめた。

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