「甘えていいよ」と、娘に言った夜
赤ちゃんの泣き声を聞くと、なんだか温かい、しあわせな気持ちになる。母に甘える子、子に応える母、その光景はとてつもなく尊いと思うのだ。
1ヶ月程前、お隣さんちに赤ちゃんが生まれた。生命力に満ちあふれた泣き声が聞こえてくるたびに、心がほっこりする。娘もあんなふうによく泣いてたなぁと思い返しては、自然と笑みがこぼれる今日この頃だ。
わたしたち夫婦は、特別養子縁組で娘を迎えた。生後2日目に出会った娘は、はや1歳半を過ぎた。噂には聞いていたが、子どもの成長は本当に早い。ついこの間までお隣さんちの赤ちゃんのように泣いていたのに、今ではBTSの曲にノッて踊っているのだから。すくすく育ってくれて嬉しい反面、この調子だとあっという間にお嫁に行く日がきてしまうんだろうなぁ、なんて考えて少し寂しくもなる。
先日寝る前に珍しく娘がぐずった。夫が寝かしつけようとしたところ、上手くいかず泣きだしてしまったのだ。
「ママ~、ママ~」
最近ようやく言ってくれるようになったその言葉に喜びを噛みしめながら、わたしは寝室に入った。すると娘は泣きながら駆け寄ってきて、両手を広げ抱っこをせがんできた。ずいぶん重くなった体を抱き上げると、わたしの首に腕を回し、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を肩に乗せてきた。娘はすぐに泣きやみ、「へへっ」と少し笑った。それでもまだ涙の余韻で揺れるちいさな背中をしばらく擦りながら、わたしはふと思った。
「こんなふうに抱っこできるのは、甘えてくれるのは、あとどれくらいだろう」
なんだか無性に愛おしくなって娘をぎゅっと抱きしめた。
娘は産みのお母さんのお腹に生を宿してから、何か月ものあいだ人知れずひっそりと生きていた。歓迎されることも、祝福されることもなかった。そしてこの世に出て、へその緒を切られると同時に、産みのお母さんとの日々も切れてしまうことを早々に決められていた。
そんなふうにして生まれてきた娘と初めて会った日、児童相談所の担当職員さんが娘にこう言った。
「やっと、甘えられるね」
わたしは泣きそうになった。この子はどんな気持ちで過ごし、生まれてきたのだろう。きっと、たくさん寂しい思いをしたはずだ。それでも何もなかったかのようにスヤスヤ眠る娘の顔を見て、胸が締めつけられた。
同時に、何があってもわたしが一生この子を守る、いっぱいいっぱい甘えさせてあげると心に決めた。
そんな想いを胸に娘との生活が始まって間もない頃、夜中に娘が泣き続けたことがあった。ミルクをあげても、オムツを替えても、何をしても泣きやまない。困り果てたわたしは、娘を抱っこして部屋のなかをひたすら歩きまわっていた。その間ずっと何かを訴えるように泣く娘を見ていると、こんなふうに思えてきた。
「産みのお母さんとの別れを嘆き悲しんでるんやろか」
「この子が求めているのはわたしじゃなくて、産みのお母さんなんじゃないやろか」
連日の寝不足と夜の静けさが心を揺さぶった。わたしはこの子の母親になれて喜びでいっぱいだけれど、娘と産みのお母さんの気持ちを想うと、本当に喜んでいいのだろうかと思った。早く母親として一人前になりたいけれど、本当にわたしが母親でいいのだろうかとも。
もっと大きくて、穏やかな心でこの子を包んであげたいのに。ただただ、この子をしあわせにしてあげたいだけなのに。上手くまとまらない感情が渦巻いて涙があふれた。
その時、担当職員さんの一言を思い出して我に返った。
やっと、甘えられるね・・・。あぁ、もしかしたらこの子は、泣いて、甘えて、それに応えてくれる人を待っているんかもしれへん。甘えられる場所、受け入れてくれる場所を求めてるんかもしれへん。
わたしは娘を見つめて、頼りない母でごめんよ、と謝った。そして、もし産みのお母さんとの別れを悲しんでいるのなら、一緒に悲しみを分かち合おうと思った。この子に寄り添れるのは、わたししかいないのだから。甘えさせてあげられるのは、わたしだけなのだから。
改めてそう強く思い、泣きじゃくる娘に言った。
「いっぱい泣いていいよ。甘えていいんよ。どんどん甘えていいからね。よく頑張ってきたね」
そう何度も何度も呟いて、ぎゅっと抱きしめた。
ゆっくりでいい、わたしたちのペースで心を紡いでいこう、ゆっくり親子になっていこう。一緒にしあわせになろう。その晩、ようやく母親としてのスタートラインに立てたような気がした。
だからこそ今、甘えてくれることが嬉しい。
ママと呼んでくれること、抱っこをせがんでくれること、しがみついてくれること、抱っこするとすぐに泣きやんで「へへっ」と笑ってくれること、その全てが愛おしくて、本当に嬉しいんだ。
あまりに早い成長に寂しさを感じることもある。そのうち抱っこもできなくなるだろう。でも、わたしの首に腕を回してしがみついている今の娘は今だけだ。あっという間に大きくなるからこそ、もっと「今」を大事にしようと思った。そして願わくば、いくつになっても、娘にとって甘えられる場所でありたい。
娘の腕から力が抜け、すぅーすぅーと、かわいい寝息が聞こえはじめた。お嫁に行くのはまだまだ先やな、そう思い笑みがこぼれた。
甘えてくれて、ありがとう。
ママにしてくれて、ありがとう。
このぬくもりを忘れないようにと、その日はしばらく抱っこを続けた。
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