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定石に酔うだけか、多様な人間模様を見つめるか…

本日は、3.11 東日本大震災の発生から10年という日であった。

私の知り合いに一人だけ、地震が切欠で福島から移住してきた方がいる。ご家族を亡くされてはいるものの、北海道へ来れて良かったと、私の顔を見てはそう話す。

私はその方の存在をふと本日思い出し、考えていた。

マスコミから流される情報は、辛辣な思いをして、これだけ嫌な思いをして、未だに癒えぬこの思い、、、という定石ばかりが流れていた。

涙がポロリ…、そんな構成になっているものが多い。

別にそれを批判しているわけではない。でも、人間模様って、そんな定石に収まるほど単純かつ単調なのだろうか? 

大地震、亡くす、崩壊、悲惨、過酷…、こんな情報から連想されるものに対し、レスポンスを返すのであれば、配慮ある心温かな常套句で返せばそれで良いのだろうか?

そこまで単調・単純に返せばいいと思うのなら、それは物事を軽く扱っていることにもなるだろうし、数多いる人間の生き様を、あるひとつの形式へ当てはめて、周囲や当事者をその世界観に酔わせてしまう…、それこそ失礼だ、と思ったのだ。

「完全に癒えないけれど、新たに良かったことができれば、癒えないものも小さくなって、頑張れたりもするんだよね」

これは、その知り合いの方から出てきた言葉である。心や考え方が強いとか弱いとかではない。元々の気質や性格が良い悪いでもない。福島に居たときとは違い、友人もたくさん増え、話す相手も数え切れないくらい出来た…、それが良かったことだと言うのだ。

恐らく人間模様というのは、皆が皆、どんなに悲惨で恐ろしい経験をしたにしろ、そこには必ず「多様」が存在し、可哀想とか、大変であったとか、未だに癒えなくて苦しむとか、そういうものだけで包む話でもないのだ。

多様性の時代だ、と声高々に掲げる時代になったが、情報の定石に頼り切ってしまえば、いつのまにか人間模様の多様性を喪失させてしまう。終には、その定石から外れるような情報に非難を浴びせるだろう。

「配慮のない奴だ。人間の心というものが分からないのか?」と。果たして本当に分かっていないのは、どっちなのだろう、と。

人間の多様性とは、マスコミから流される情報だけでは不足し、自分が実際に知り合った人たちの現実と向き合った時にそれが補われ、多様なる世界観が広がりを見せるものなのだろう。

福島からのたった一人の知り合いがもたらしたものは、ポジティブで明るく、感謝に溢れていて、計り知れなく大きな世界観であったと、本日そう感じたのだった。

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